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その名はカフカ Kontrapunkt 9

その名はカフカ Kontrapunkt 8


2014年6月リュブリャーナ

 午後、国外から同じ目的でリュブリャーナに来ている同業者との面会をいくつかこなしたレンカをマンションに送り届けると、アダムは「もう一つ当たりたいところがある」と言い、一人でまた出て行った。
 とうとう最高気温三十度を超えてしまいましたよ、と言いながらエミルはレンカを出迎え、「どうです、これ?」と大部屋の新しいセッティングを見せた。バルコニーへ続く大窓を開け放ち、そのすぐ手前に低いガラステーブルを置き、その後ろに長椅子を窓のほうに向かって座るように設置してある。「悪くないわね」と返事をしたレンカは着替えを済ませると、エミルの隣に座って仕事をすることにした。
 まだ日の沈まない夕暮れの生ぬるい風を感じながら、二人は長椅子に並んで座って裸足をテーブルの上に投げ出し、パソコンを膝に置いて各々の作業を始めた。アダムはプラハを出る前に他の仕事を完了させておけという言い方をしたが、それは土台無理というもので、結局リュブリャーナに来てからもレンカは顧客や取引先とのやり取りを続けており、ベオグラードの盗難に関しては自分の役割は「顔を出すべきところに顔を出すこと」と割り切って、後のことはほとんどエミルとアダムに任せていた。
 一段落ついたところで、レンカは
「ねえ、何か進展あった?私には盗難物がどこにあるんだか未だに見えてないんだけど、本当に来週までに手に入れられるのかしら」
とエミルに話しかけた。エミルは顔を上げずに
「かなり絞れてきましたよ。ほぼ消去法で、ですけど。アダムさんもどこに目を付けるべきか、分かってきてるみたいですね。それで今も出かけてるんじゃないですか」
と答えた。
「そう。私、かなりついて行けてないわね」
「アダムさん、どこへ行くか言ってませんでした?」
「具体的には何も」
「へえ、レニにも秘密なんですね」
「変なのに引っ掛かってないといいけど」
 レンカの言葉にエミルは手を止め、顔をレンカのほうへ向けた。
「あの人、けっこうモテるのよ」
「はあ」
「どこに行っても、ある一定数はいるのよね、ああいうゴッツいおじさんが好きな人」
「余計な焼きもちを焼かなくても、レニはアダムさんを信じて心安くしていればいいのではないですか」
 エミルの一言に、レンカは一瞬何を言われているのか分からなかったかのように動きを止めた後、呆れ顔でエミルを見返した。
「誤解を招くような言い方、しないでくれる?私は単にアダムの仕事の邪魔が入らなければいいっていう意味で言ったのよ。私とアダムがそういうのじゃないってことくらい、あなたは良く分かっているでしょう?」
そうレンカが少し苛ついた声で言うと、エミルは、自分は至って真面目に話しているといった表情で
「いえ、僕の目にはお二人は相思相愛なんだけれど気持ちを伝え合っていない男女のようにしか見えません」
と平然と答えた。
 レンカはエミルから顔をそむけると
「冗談でないのなら、妄想もいいところね。私、あなたの目にはすべてが正確に見えているんだと思っていたけど、買い被りすぎてたのかしら。からかうのもいい加減にしてほしいわ」
と不愉快極まりないといった様子で吐き捨てた。
 エミルは一呼吸分の間をおいて、レンカの横顔を観察しながら
「気分を悪くされたのなら謝ります。ただね、僕から見ると、レニはアダムさんとの関係を他に類を見ない特別な関係だと思い込みすぎているんです。逆に言うと、世の中には一つとして普通の関係なんてものはありません。人は親子、夫婦、兄弟、友達、その他あらゆる人間関係に典型的で"普通"と呼ばれる型があると思ってしまいがちです。でも人間関係は個々人で一つ一つ違うんです。レニはアダムさんに女性として愛されたら、それはアダムさんの中でレニが特別な存在から格下げされるということだと思っている。自分たちだけの特別なものが特別ではなくなってしまうと信じている。でもそれは単なる思い込みで、幻想です」
と畳みかけるように話した。
 レンカは眉間に皺をよせ、前を向いたまま微かに震える声で
「どうして、そんなこと言うの?どうして、そんな話を私に聞かせるの?私がそんな話、聞きたがってるとでも思ってるの?」
と絞り出すように言った。
 エミルはニヤリとすると
「レニがあまりに僕の目の能力を高く評価して怖がっているので、どうせなら見えたものは隠さずできるだけ伝えておこうと思ったまでです」
と言い、更に
「あまりに暑いから口も緩んでるのかもしれません」
と笑いながら言葉を重ねた。
 レンカもつられて口元に笑みを浮かべると
「私たち、こんなに暑いのに水分補給を怠ってるんだわ。それで話が変な方向に行っちゃうのよ」
と言った。エミルは立ち上がると
「それは茶を淹れてこいという婉曲な社長命令ですね」
と言いながら歩いて数歩のキッチンへ向かった。
 レンカは
「私は水道水でいいわ。スロヴェニアって、売ってるペットボトルの水よりも水道水のほうが質が高いって知ってた?」
とエミルの背に向かって言うと、仕事に戻った。

 たった一回で終わるかもしれない打ち合わせのために、ルツァの友人で「一見さんお断り」の居酒屋を経営している奴がいるから、と紹介してもらったアダムは「まさに一見さんで終わるかもしれないのだが」と少し複雑な気分で店のドアを押した。
 薄暗い店内はあまり広くなく、場合によっては別室を用意してもらおうかと思ったが、すぐにアダムはカウンターの右手にフロアから階段が数段付いて高くなっている、テーブルが二台しか置かれていないスペースに気がつき、そこから彼に向かって手を振っているルツァを発見した。ルツァは痩せた男で、黒を好んで着ているので、遠目には棒切れのように見える。
 アダムが近づくとルツァは立ち上がり
「ここなら誰にも話は聞かれない。隣のテーブルも今日は誰も座らない。俺はもう行くよ。リュブリャーナで動き続けないといけない俺はあんたの客に面が割れるのはいろいろ都合が悪いからな」
と言った。アダムはただ
「世話になるな」
と返した。ルツァはニヤっと笑うと
「これが俺の仕事じゃないか。ティーナが俺の上司なら、あんたも俺の上司だ。礼を言われるようなことじゃない」
とだけ言って素早く出口へ向かった。
 ルツァと入れ替わるかのように、若い男が一人、店に入ってきた。暫く店内を見回していたが、カウンター内の店主が男に気がつき、アダムのほうを指し示した。
 男はアダムに向かってへらりと笑うと、ゆっくり近づいてきて、アダムの向かいの席に座った。
「ここ、入るの初めてなんですよ。誘ってもらえてよかった。いや、待ってみるもんですね」
と言う男に、アダムは
「そんなに入るのが難しい店なのか」
とセルビア語で返した。
「あ、最後の一言はその話じゃなくて。て言うか旦那、上手いですね。やっぱり昔、あっちの方にいた、とかですかね?外国から派遣された援護の軍の人なんて、現地語できなくても大丈夫だったんじゃないんですか」
「できるといろいろ便利だったからな。今でも何とか使える」
「そもそも旦那、僕の出身まで見越して声かけたってことですよね。いや、参った」
 よくもまあ初対面でベラベラ話すものだな、とアダムは少し心配そうに男を見やった。男はその視線に気づき
「おっと、ご心配なさらず。こう見えても大事なところでは口が堅いんです。こう人当たりが軽いの、半分演技だって信じてもらえます?」
と言って、またへらへら笑い、
「何か頼んでもいいですか?旦那は飲まないんですか?」
と聞いた。
「俺は車だからな。あんたは好きにしな」
「この国の人間、けっこう平気で飲酒運転やってますよ。スロヴェニアの年間死亡者数の約30%が交通事故が原因で亡くなってるって知ってます?この国で運転するときは気をつけてくださいね、おかしな奴に巻き込まれますから」
 このひたすらふざけた感じは、小僧ペーテルを思い出させるな、とアダムは心の中で苦笑した。
 男の注文を取ったウェイターが立ち去るのを待って、アダムは口を開いた。
「それで、話には乗ってもらえるんだな?」
「もちろんです。そのことを言ってるんです、待ってみるもんだって。あそこのボスに一泡吹かせてから国に戻るつもりで、あの組織で働いてたんですよ」
「あの男に個人的な恨みでもあるのか?内戦の頃はあんた、まだ赤ん坊だったくらいじゃないか?」
「親父の、です。少なくとも親父の話によればあいつ、そうとう汚ねえんで。旦那の要望に応えられる何かがきっと近いうちにあるはずです。組の会計士に友達がいるんだけど、最近でっかい金が使用目的不明でゴッソリ消えたらしい。そういう金の動かし方は、あいつにしかできない」
 男の言葉にアダムは少し考えるような顔をしたが
「これだけ内部事情が漏れやすというのは、組織の脆さを象徴しているのか、あんたの顔の広さと人望のおかげなのか、判断に困るな」
とだけ言った。男は
「両方、ということにしておきましょうよ」
と再びへらりと笑った。
 ウェイターが男の注文を持って来て、素早くその場を離れた。その後ろ姿を一瞥してから、アダムは男の目を見て
「今からあんたへの謝礼の渡し方を説明するから良く聞けよ。俺はこの後、先に店を出る。あんたは少し時間をおいて、この注文の支払いをカウンターでしてくれ。その際、店主があんたに謝礼の半分を手渡す。残りの半分は、事が終わってからだ。その後、護衛を付けてあんたを故郷まで送ることも可能だ」
と早口に説明した。男は嬉しそうに満面の笑みを浮かべると
「了解です。真面目な人間が相手でも、旦那みたいに話が分かって仕事のできる人と話すのは気持ちがいいね。いやね、職場にいるんですよ、真面目なだけが売りみたいな人間で、冗談の通じない人が。この人、仕事できないんだ、これがまた」
と言い、「でも水も滴るいい男なんですけどねえ」と続けると、声を立てて笑った。
 アダムは「本当に余計なことを話すのが好きな奴だな」と思いながら、席を立ち、出口のほうへ足を向けた。


その名はカフカ Kontrapunkt 10へ続く


『Lenka』 Sketch (Hahnemühle) 14,8 x 21 cm、鉛筆


日本帰省に使わせていただきます🦖