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その名はカフカ Kontrapunkt 10

その名はカフカ Kontrapunkt 9


2014年6月モラウスケ・トプリーツェ

「それ、ちょっとありえねえぞ」
というのが、キツネが目的地を間違えたと電話で報告した際にラーヂャが発した最初の一言だった。
 キツネの今回の最終任務先はクロアチアだった。間違いの発端はキツネが仕事の前に落ち合わなければならない人物が滞在している街もクロアチアにあると思い込んでいたことにある。スロヴェニア北東部にあるモラウスケ・トプリーツェへ向かうべきところを、クロアチア北部のヴァラジュディンスケ・トプリツェを目指してしまった。しかもどちらの街もToplice(両言語で「温泉」の意)の名を裏切らず温泉地で、その上、二つの街は約80kmしか離れていない。キツネが間違いに気がついた瞬間、ラーヂャから借りた車はうんともすんとも言わなくなり、二度と復活するつもりはないようだった。
「当り前だ、俺はモラウスケ・トプリーツェで乗り捨てられるように、そこまで走ったら故障することを計算してお前に貸したんだ」
「なんでそんな余計な小細工をするんだ、理解に苦しむ」
「理解できないのはこっちだ、どうしてMoravskeがVaraždinskeになるんだ。知らない言語だって言っても、全然違うことくらい一目瞭然じゃねえか」
 ラーヂャの悪態に、キツネは返す言葉がなかった。ハルトマノヴァーとの一件から、まだ三週間も経っていなかった。あれ以来、とにかく頭が働かない。今回もTopliceという表示を目にした瞬間、それが目的地のことだと思い込んでしまった。働かないのは頭だけではない。体力も回復しきっておらず、とにかく全身が痛むので、ラーヂャの友人だという闇医者に痛み止めを処方してもらい、それで何とか生活できていた。
 今自分の体に見られる症状のうちのどれが爆発が原因で、どれが麻酔銃が原因なのかは明白ではなかったが、こんなに後遺症が激しいのなら、足に一発実弾を撃ってもらった方がましだったのではないかと思う。「人間用の麻酔銃」などという非人道的なものを生産している国は世界でも限られている。撃たれたのは動物用だったと考えるのが妥当なのだろうが、何にしても合法的に麻酔銃を取り扱うには通常の銃器所持の免許では間に合わず、更に専用の免許が必要だ。ハルトマノヴァーのスナイパーが麻酔銃のための資格と専門知識を持ち合わせていたとは考えにくい。だが、麻酔銃を使ったということは殺す意思がなかったということであり、今自分が生きているということは奴の目論み通り事が運んだということになる。もしあの女のお抱えスナイパーが正しい知識に基づき、ああいったものを取り扱える人間なのだとしたら?
「二度と会いたくないな」
と思わずつぶやいたキツネに、ラーヂャは
「俺も嫌われたもんだな」
と苦笑し、続けて
「とにかく今回の任務を遂行できたら、ボスもお前を認めてくれるかもしれん。まあ頑張れよ。物はハルトマノヴァーが今、必死になって手に入れようとしているものだ。あの女に会わずして復讐してやれる。悪い話じゃないだろう?」
と楽しそうに話した。キツネは「確かに今の心身のコンディションであの目に射貫かれたら今度こそ魂が抜けるかもしれない」と思った。
「とりあえず一つ目の目的地には今から電車とバスを乗り継いで行く。先方が気にするようなら少し遅れると伝えておいてくれ」
とキツネが言うと、ラーヂャは
「あちらさんは気にしねえよ。でもなるべく早く行けよ、下手をすると女を出し抜けなくなる。あと、合言葉を忘れるな、それなしでは中に入れてもらえんからなあ」
と笑いながら答え、電話を切った。

 まず列車でスロヴェニア北東部の小都市ムルスカ・ソボタまで行き、それからバスに乗り換えモラウスケ・トプリーツェにキツネが到着したのは午後三時を回った頃で、ただでさえ体調が優れない上に外気のあまりの暑さに消耗したキツネは、とにかく体を休めたい一心で指定されたホテルに向かった。
 キツネがこの「村」と呼べる程度の規模の温泉地に着いてまず驚かされたのは、その温泉リゾートとしてのあまりに整った設備だった。これまでスロヴェニアやクロアチアについては「旧ユーゴのド田舎」としか認識していなかったキツネは、まさにその田舎に来て、このような物に出会うとは思ってもみなかった。
 トラブル続きの旅と暑さのせいで、お世辞にも清潔な雰囲気ではない自分は場違いもいいところだ、と思いながら、キツネはこの温泉地でも一番豪華な造りだと思われるホテルのエントランスに足を踏み入れた。このまま警備員につまみ出されてもおかしくないな、と不安になりながらも磨き上げられたレセプションのカウンターに近づき、キツネは挨拶もそこそこにラーヂャに持たされた紹介状を見せた。キツネ自身はその紹介状に何が書いてあるのかも分からなかった。ラーヂャに「ホテルに着いたらこれだけ見せろ」と言われたのだが、身分証明書も提示しない自分が見せるこの紙切れにどこまでの効力があるのかは予想もつかなかった。
 若い受付スタッフはキツネが現れた瞬間、少し不審そうな顔をしたが、紹介状を見ると、丁寧な英語で「ようこそいらっしゃいました。エレベーターは右手にございます。お部屋は一階ですから、エレベーター横の階段もご利用いただけます」と言ってにっこり笑った。そこで初めてキツネは紹介状に「108」という部屋番号が書いてあることに気がついた。
 エレベーターで他の宿泊客と一緒になって嫌な顔をされるのも気分が良くないと思い、キツネは階段を上がることにした。部屋番号「108」は廊下の一番奥まったところにあったが、それ以前にキツネはその階の部屋数の少なさに驚いていた。それは、一つ一つの部屋がとてつもなく大きいということを意味する。
 「108」の扉の前で、キツネは一つ深呼吸をした。ラーヂャから渡された合言葉はチェコ語だった。もちろんキツネには理解できない。「お前、物真似は得意だろ?そのノリで試してみろ」とラーヂャに言われ、訳も分からずとにかく丸暗記してきた。
 キツネがインターホンを押すと暫くして、柔らかな印象の声が聞こえた。
「Heslo?」
「Náhlý déšť v Japonsku.」
「Slunce?」
「Svítí.」
「Nevěsta je?」
「Liška.」 (注1:訳は最後の絵の下)
 最後の一語を発した瞬間、さっとドアが開き、
「ようこそおいでくださいました」
と部屋の主が言った。キツネはこのままチェコ語が続いたらどうしようかと思っていたが、相手から聞こえてきたのはキツネの母語であるフランス語だった。
 長く廊下に突っ立っていては人目に付くであろうと、キツネは素早く部屋の中に入り、ドアを閉めた。そして改めて部屋の主を見た。
 キツネはそこに立つ人物が、女なのか男なのか、分からなかった。若い女のようにも見えるし、十代の少年のようにも見える。長身のキツネよりは背が低いが、それでも女性としては高めの身長に、小さな頭が乗っかっており、ほとんど白く見える金髪を短く刈り上げている。目は角度によっては緑に見える灰色で、肌は抜けるように白かった。痩せた体に真っ白なノースリーブの丈の長いシャツを着ており、その下にはやはり真っ白な幅の広いスラックスを穿いている。その姿は人間離れしており、宇宙人だと言われても信じてしまいそうだった。
「ふふ、あなたの考えていることは分かりますよ。答えはどちらでもない、です。私に性別はありません。フランス語でもチェコ語でもそうですが、一人称で話す時にも自分の性別を無視しては表現できない文法の言語では男性形で話します」
と部屋の主は朗らかに笑ってそう言うと、キツネを部屋の奥へ促した。
 部屋のインテリアなどに興味を持ったことのないキツネでも、その部屋の豪華さは充分認識することができた。まるでこの部屋に滞在する人物に合わせて作られたかのように、白を基調としたデザインで統一されており、ホテルの一室としてはあまりに大きいその部屋の窓からは屋外大浴場とその向こうに広がる大自然が見渡せた。
 キツネは勧められるままに、部屋の主と向かい合うようにソファに腰を下ろすと、まず
「あの、貴方のことはどうお呼びしたらよろしいでしょう?」
と聞いた。自然と丁寧に話している自分に驚いたが、この人物相手にはそうあるべきであるという気がした。部屋の主は嬉しそうに口を開いた。
「お客様は皆、テンゲルと呼んでくださっています。ハンガリー語で海を意味する言葉なんですよ。私はこうやって療養地でホテル住まいをして、心の病を癒す仕事をしているんです」
という返事を聞いて、キツネは「ラーヂャのやつ、俺が精神的に病んでるとでも思っているのか」と顔をしかめた。テンゲルはそのキツネの考えを読み取ったかのように
「違います。ラーヂャからはあなたへ渡すよう、お仕事に必要なものを預かっています。私は一度、ラーヂャに命を救われました。彼のおかげで、今私はこうしてここにいられる。だから必要に応じて、彼の仕事に協力しているのです」
と言って、柔らかな笑みを浮かべた。
 テンゲルは立ち上がると部屋の隅のテーブルに置かれているピッチャーからグラスに水を注ぎ入れ、キツネに渡した。
「キツネさん、あなたに今必要なのは心よりも体の癒しですね。ここの温泉、本当によく効くんですよ。あなたのために一番おすすめのお湯を予約しておきました。きっと今夜から痛み止めの服用は必要なくなりますよ」
そう言うとテンゲルはキツネに温泉の予約チケットと鍵を渡し、キツネがグラスの水を飲み干すのを待って
「これはこの部屋の鍵です、もう合言葉は必要ありません。お戻りになったら、食事の用意が出来ています。一緒にいただきましょう」
と言って、キツネを送り出した。

 その日の夜、キツネはテンゲルの用意したクロアチアナンバーのSUBARUのSUVに乗って、次の目的地へ出発した。この温泉地に着く前までの疲労感も痛みも嘘のように消えて、まさに「狐につままれた」かのような心地だった。


その名はカフカ Kontrapunkt 11へ続く


『Károly』 DFD 21 x 29,7 cm、鉛筆、色鉛筆


注1)合言葉の訳です。
「合言葉は?」
「日本で突然の雨」
「太陽は?」
「照っている」
「花嫁は?」
「キツネ」



【あとがき】
今回はかなり本編に関係ない事柄を詰め込みました。
「ドアの向こうには怖えオッサン」ばかりを書いていたら、ちょっと違うものを書いてみたくなりまして。
中休みのようなものだと思っていただければ。

【おまけその①】
地図です。


【おまけその②】
モラウスケ・トプリーツェ、ちょこっとドライブで連れて行ってもらったことがあります。たぶん15年以上前の話。その時の写真はありませんが、友達のお父さんがお土産としてキーホルダーをプレゼントしてくれました。車用らしいですが。長いこと家の鍵を付けるのに使っていたのですが、今は寝かせてあります。

彫り込まれている二行目がMoravske、三行目がTopliceなのですが…
見えにくいですね…


日本帰省に使わせていただきます🦖