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その名はカフカ Modulace 10

その名はカフカ Modulace 9


2014年11月ワルシャワ

 昼間は晴れていたのに、雨が降りだしてしまった。週末もずっと雨の予報が出ている。普段から家を空けることが多いティーナは週末だからと言って郊外へ飛び出して行って休日を楽しむ習慣はなく、どこか屋根のある所で訓練でもするかな、その時間が取れればの話だけど、と思いながら窓の外を見やった。
 今ティーナが座っている大学の研究室は彼女一人に与えられた一室で、ティーナは「私程度の軍階級と学位で個室なんて、やっぱりICTYの七光りよねえ」と常々思う。ティーナの後ろでは助手のカズィが学生の提出物を整理していた。紙をまとめて机の上で揃えた音がしたので「もう終わったのかな」と思い、ティーナはカズィのほうへ椅子を回転させ
「お疲れさま。金曜日だっていうのに遅くまでごめんね。もう、いいわよ」
と言った。
 カズィは机の上にかがめていた細身の体をふわりとティーナのほうへ向けると
「では、お言葉に甘えて私はこの辺で」
と返して微笑み、
「降りだしてしまいましたね、走りに行こうと思っていたのに……雨の中で走る訓練というのもいいかもしれませんね」
と続けた。
「馬鹿げたことして大事な時に体調を崩すようなことはしないでね」
「九月にあの不審な男性を逃してしまったのが未だに悔しいのです」
「あら、あなた、本気で捕まえるつもりだったの?あれで良かったのよ、人払いをしたかっただけなんだから。相手が何を隠し持ってるかも分からなかったんだし」
「あの走り方は、武装している人間のものではありませんでした」
 カズィがそう言うのだから本当に武装はしていなかったのだろう、目的は一体何だったのかしらねえ、と思いながらティーナはカズィに微笑みかけ、
「さ、もう行きなさい。若い子の金曜の夜なんて、きっと忙しいんでしょ」
と言った。
 カズィは長く伸ばしたブロンドに近い淡褐色の髪を肩の後ろに払って音もなく立ち上がり、笑いながら
「ティーナは私が金曜の夜を金曜の夜らしく過ごす人間ではないことくらい、よく分かっていらっしゃるでしょう?」
と返し、ドアの側に掛けてあったコートを手に取って素早く羽織ると
「何かあったら、いつでもご連絡くださいね。私は他の協力者の方々と違って、ティーナのためにしか働いていないのですから」
と付け加え、「楽しい週末を」と言って研究室を後にした。
 カズィのすらりとした体がドアの向こうへ消え、ドアが閉まった次の瞬間、ドアが再び音もなく開き、カズィとは別の細身の人物が現れた。
「なかなか可愛い子を使っているじゃないか、君も隅に置けない」
と言いながら、ヴァレンティンは後ろ手にドアを閉めた。
 ティーナは椅子に座ったままヴァレンティンの顔を見上げ、
「おかしなこと考えないでね。あの子、すごいとこのお嬢だし、私の秘蔵っ子なんだから」
と返した。ヴァレンティンは肩をすくめて
「一体君はどこで僕がそんな助平心を常時引っ提げて徘徊しているという先入観を身に付けたんだい?君は僕が必要以上に顔は売らないことくらい、よく分かっているだろう」
と言いながらティーナの傍まで来ると、先ほどまでカズィの座っていた椅子に腰を下ろした。
 ティーナは「どこから侵入したんだなんて、聞いてやらないんだから。どうせ『正面玄関から』って答えるんだから」と思いながら
「あなたのその軽口があなたに対するイメージを作ってるのよ。自業自得よ」
と言ってから、椅子を自分のデスクのほうへ半回転させ引き出しを開け、一封の封筒を取り出すと、またヴァレンティンのほうへ向き直り、ヴァレンティンにその封筒を差し出した。
「どうぞ。書いといたわよ、お願いされたもの」
「相変わらず仕事が早いね、さすが先生だ」
「これを受け取りに来たんでしょ?出来てなくてどうするのよ」
「機嫌が悪いのかい?ま、君のような美しい人は機嫌が良かろうが悪かろうが観賞者の目の保養になることに違いはない」
「だから、そういう台詞があなたに対するイメージを作っちゃってるって言ってるの。四十八のおばさん捕まえてよく言うわ」
 ヴァレンティンは差し出された封筒をジャケットの内ポケットに収めながら
「君は似たようなことをサシャに言われても嬉しそうな顔しかしないじゃないか」
と笑った。ティーナは「サシャは同じようなことを言っても言い方が違うのよ」と思ったが口にはしなかった。ヴァレンティンはティーナが返事をしないのを気にする様子も見せず、話を続けた。
「ベルリンの偏屈おじさんのわがままを聞いているうちに十一月にずれ込んでしまったけど、サシャに保管をお願いしていた物はそろそろ動かせる、と言うか、もう動かさないといろいろ面倒なことになりかねない。君はどの程度時間の融通が利くんだろう?」
「この時期はかなり難しいわ。クリスマス休暇まではほとんど週末しか動けないから遠出はまず無理よ」
「ワルシャワはどこからも遠いからなあ。防衛大の先生だったら武装していても飛行機に乗せてもらえないかな」
「面白い冗談ね。サシャは戦闘機とか輸送機とか持ってないのかしら」
「それも充分面白い冗談だ。君は正規軍に撃ち落とされたいのかい?」
 ティーナが「どうせ私もサシャも元々は陸軍士官なんだってことを弁えろって言われてる気分になってくるわ」と返そうとしたところでティーナのスマートフォンが鳴った。ティーナは電話を手に取って電話をかけてきた人物を確認してから、ヴァレンティンの顔に悪戯っぽい一瞥を投げた。ヴァレンティンは「僕にどんな面白い話を聞かせてくれるんだい?」とでも言うかのような顔をしてティーナを見返した。
 ティーナが通話ボタンを押し、電話を耳に当て
「どうしたの?何かあった?」
と聞くと、ルツァは
「ドリャンがまたリュブリャーナに戻った。長居するつもりはないらしいが、いつまで見張っていればいい?奴が何を考えてるかは分からないが、何のアクションも起こさずうろちょろしてるだけの奴に構ってる暇は俺たちにはない気がするのは俺だけか?……ティーナの指示に従いたくないと言ってるわけじゃないんだ。ただ、あいつを見てると正直、苛つく」
と言葉とは裏腹に落ち着いた口調で返した。
「辛抱強さにかけては右に出る者なしのあなたがそんなこと言うなんて珍しいわね。あの男、そんなに嫌な感じなんだ?うちの大事な子に殺し屋を送り込んできたのは許されないんだけど、こっちが奴を殺っちゃうわけにもいかないじゃない?本人が武装して乗り込んできたっていうシナリオにでもならない限り」
「それならそういうシナリオになるように工作したらどうだ?ティーナが『やれ』と言ってくれさえすれば、俺はいくらでもドリャンに落とし穴を用意してやれる」
 ルツァの言葉を聞きながらティーナはヴァレンティンに視線を戻した。それから
「もうちょっと我慢できるかしら。他と相談してからまた連絡するわ。心配しないで、そんなに待たせないから。あなたの言う通り、あんな奴に構いすぎるのは時間の無駄だわ」
と返すと電話を切った。
「聞こえた?」
「そんなボリュームで君が耳に押し当てていた電話の音声が聞き取れるわけがないだろう、僕はレンカの右腕君じゃないんだ。だが、話は分かった」
「それで?どうするの?リーダーに何か計画はあるのかしら?」
 ヴァレンティンはうっすらと笑うと
「そりゃ、あの男をこのまま泳がせておくつもりはない。ただ、君も言っていたように、こちらが手を汚してこの世から抹消してしまうわけにもいかないだろう?もう少し踊らせて自作の穴に自ら落ちてもらわなきゃならない。今のあの男を観察しているだけで虫の居所が悪くなる君の親衛隊員君の気持ちも分からないでもないが」
と返した。ヴァレンティンの言葉にティーナは呆れたように小さなため息をついた。
「何かもっと、違った言葉の選択肢ってないのかしら?ルツァが私のために動いてくれてるのは事実だけど、私としてはあんまり部下だとも思ってないのよね。ルツァは私のこと、上司だって言ってはいるけど」
「確かに誰にも守ってもらう必要がないくらい強い君に『親衛隊』は侮辱に当たるかな。失礼したね」
「別に、私だって一人でここまで生き延びてきたつもりはないわ。……今更あなたに言うことじゃないけど」
 ヴァレンティンは笑うのをやめ、ティーナの髪に視線を移すと
「最近僕は、一度救った命に対して『二度と危険な目に遭わせてなるものか』という奇妙な執着心が生まれることに気が付いた。せっかくの苦労が水の泡だ、という気分になるんだろうか。だから、君は僕のために二度と命を危険に晒すようなことはしてはいけないし、長生きをしてくれないといけない」
と静かに言った。ヴァレンティンの言葉にティーナは微かに微笑んだ。
「ごめんね、こんな髪してると常に思い出させちゃうわよね。カーロイくらい白いものが混ざってくれれば目立たなくもなるんだろうけど、それにはあと二十年以上待たなきゃいけない家系みたい。祖母も七十まで白髪が二本しか生えてなかったのよ」
「では、君の白髪頭を楽しみにこれからの二十年余りを過ごすことにする。僕は何度か、君が今の役職に留まることが君にとって一番安全だという言い方をしたが、君自身がそうは思わないのなら、いつだって別の道を選んでもらって構わない。きっと、ギリギリまで利用させてもらうことになるとは思うけど」
 そう言いながらヴァレンティンは先ほどティーナから受け取った封筒の入ったジャケットの上を指先で弾くと立ち上がった。そして座ったままのティーナに近づいて身をかがめ、ティーナのダークブラウンの髪の間の一束の金髪に口づけをすると素早くティーナの傍を離れ、ドアのほうへ向かいながら「スロヴェニアのおじさんの件に関しては次の動きが決まり次第連絡するよ」と言い残して出て行った。
 ヴァレンティンがドアを閉めて五秒も経たないうちにドアをノックする音がして、カズィが入ってきた。
「申し訳ありません、また戻って来てしまって。守衛さんのところに寄ったらティーナへの郵便と、研究室まで来る時間がなかった学生が預けていった提出物を渡してくれたので、お持ちしました」
「全然謝ることじゃないわ、ありがとう」
 そう言いながらティーナは立ち上がり、カズィに近づいた。そして「こんなことにはもう慣れきってしまったけど、このタイミングで鉢合わせしないって、本当に貴公子君は天井でも歩いているのかしらねえ」と心の中で独り言ちた。


その名はカフカ Modulace 11へ続く


『Saša』 21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆



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