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その名はカフカ Modulace 9

その名はカフカ Modulace 8


2014年11月プラハ

 明日から全員移動なんだから今日は早く切り上げようとアダムが言って、それならちょっと練習に行こうかなとエミルが言って、あんまりジョフィエとおばあ様に寂しい思いをさせないでねとレンカが言って、この日は三人とも普段よりずっと早めに事務所を出た。それからレンカはアダムの車に乗って自分のマンションに寄ってもらい、移動のための荷物をまとめると、またアダムの車に乗ってアダムの自宅へ向かった。
 そして今、レンカはソファの上でアダムの左肩と左の脇腹を背もたれにして読書をしている。レンカの隣に腰を落ち着ける前に、暫く帰れないから冷蔵庫の中を片付けると言ってアダムは日持ちのしなさそうな食材を冷蔵庫から引っぱり出すと適当に切って適当に味付けをしてオーブンに突っ込んだ。つまり今この家の中で働いているのはオーブンだけで、だから自分は誰に遠慮することなくアダムに体を預けて好きなことができる、そうレンカは思ってみたものの、アダムがレンカの隣で広げているパソコンのモニターが表示しているものは仕事に無関係とは言い難かった。しかし自分が口を出せる余地はなさそうだ、とそのモニターに並んでいるロシア語を見て判断したレンカは本を読むことにした。アダムも何も言わない。
 アダムのこの家は離婚した後アダムが自分一人のためだけに建てたもので、当初はもっと小さい家にする予定だったらしい。だが、アダムが欲しがった地下のガレージの広さに対して地上に見えている家の大きさが見合わないと言って設計士が譲らず、この大きさになったという。それでも地下のガレージよりも地上の家ほうが占める面積はずっと小さいらしい。しかしこの家にいる時はほとんどアダムの傍にしかいないレンカには二人でも大きいかな、という印象だ。
 背もたれのあるソファの上に陣取っているのだからソファに背を預けて座ればいいのだろうなと思いつつも、レンカは昔身に付けた習慣のせいか、隣にアダムがいると何らかの体勢でアダムに体を預けてしまう。
 2001年にアダムの前で倒れた後の数年間、レンカは頻繁に「アダムに触れていないと狂い出しそうな衝動に駆られる発作」を起こしていた。どうしてアダムでなくてはいけなかったのだろう。アダムしか自分の傍にいなかったからか、アダムは何があっても自分を拒否しなかったからか。いくら考えても明確な答えは見つからないが、とにかくあの時のレンカの心を宥めるのはアダムでなくてはならなかったのだ。カーロイも目に見えて衰弱しているレンカを見て心配はしてくれたが、レンカはただ「大丈夫だ」と言っていた。心の中で、アダムがいるから、と付け加えながら。それ以前もそれ以後も、カーロイには精神的に少なからず依存していたというのに、一番辛かった時期はカーロイに頼ろうとは思わなかった。自分はどこまでもカーロイに「格好悪い自分」を見せたくないのだろう。
 しかしそのような「アダムに触れている必要性」も十年ほど前からほとんどなくなった。だから、自然とレンカはアダムに触れなくなった。もったいないことをしたな、とレンカは今、アダムの体温を感じながら思う。きっと自分はずっとこうしていたかったのだろう。しかし、もう自分はそのような形でアダムに頼らなくても自分の足で立っていられるのだから必要のなくなったことは続ける意味がないと自分に言い聞かせ、自分にとって正しい選択をしているのだと思い込もうとしていた。
 さっきから膝の上に広げてある本の字面を追っていても内容が全然頭に入ってきていない、アダムのことばかり考えている、とレンカは我に返り、そんな自分に呆れた。そしてすぐに「それはアダムが私のことを考えているからだ」と気が付いて、アダムのほうへ顔を向けようとした瞬間、
「レニ」
とアダムが呼んだ。
 レンカが栞を挟んで本を閉じてからアダムのほうを向くと、少し戸惑ったような顔をしたアダムがレンカを見ていた。
「どうしたの?」
「ちょいと聞きたいことがあるんだが……答えたくなかったら、答えなくていいぞ」
 珍しく遠慮がちに言うアダムにレンカは笑って
「何、その言い方。気になるじゃない、何を聞いてくれるの?」
と返した。
「お前、十三年前の忘れてた二日間のことは、全部思い出したって言ってたよな?そもそもヴァレンティンがお前の前に現れなきゃいけなくなったきっかけは、何だったんだ?」
 レンカはアダムの質問に一瞬きょとんとして、それから笑い出しそうになった。自分はまた何だか古いことを考えているなと思ったら、アダムも似たようなことを考えていたのだ。
「それは、ちょっと答えるのが難しいって言うか、あんまり答えらしい答えがないの」
「どういう意味だ?」
「私あの日、事務所を出るのがけっこう遅くなって、他には誰もいなかったからカーロイに言われた通りに施錠して外に出たの。十分くらい歩いてからだったから、事務所からはけっこう離れた場所で、夏だったから外は夜でもそんなに暗くなかったけど、とにかく私が何が起きたのかをちゃんと認識する前に、すごく怖い思いをしてその瞬間に気を失ったんだ、と思う。……あの頃の私なんて、今の百万分の一も肝が据わってなかったものだから、一瞬で意識がなくなっちゃったのよ。それで、気が付いたらプラハじゃないところにいて、ヴァレンティンがいて、自分が誰なのか説明しないと私が怖がると思ったんでしょうね、あなたたちの仲間で隠れてた五人目だって教えてくれて。……あなたの質問は、最初に何が起きたか、よね。えっと、だから、私に言えることは何もないの。記憶が戻ったって言っても、もともと意識のなかった部分は、取り戻しようがないでしょう?」
「……その後あいつは二日間も俺たちに何も言わずにお前を囲っていたのか。図々しい奴だな」
「質問したあなたが論点をずらしてどうするのよ。ヴァレンティンには聞いたの?」
「あいつの説明も同じようなものだ。ビビってぶっ倒れそうになってるお前を発見して、そこからお前を拾い出すのに精一杯で、襲った奴らの外見もほとんど記憶にないらしい」
 と言うことは、相手は複数だったのだ。そんなことも自分は覚えていない。そう思いながらレンカは視線を宙に泳がせた。
「大人一人を抱えて逃げるって、やっぱり大変だったでしょうね」
「お前は女の中では身長があるからな、大変じゃないと言えば嘘になるだろうが、ヴァレンティンは見た目からは想像もつかないくらい体力がある。身体能力でいくと、ちょっと人間離れしてるしな」
 レンカはアダムに視線を戻すと
「ねえ、どうして今更そんなこと、聞くの?」
と言った。言ってから、すぐに後悔した。
「やだわ、私そんな変な顔してる?」
「何の話だ?」
「私、あなたの顔を見ると自分がどんな表情をしているのか、だいたい分かるのよ」
 レンカは一呼吸分の間を置いて、アダムの顔を覗き込んだまま言葉を続けた。
「もしあの時私があんな風に体調を崩してしまわないで、心も体も健康なままだったとして、私のバイト期間が終わる前にあなたが私をデートに誘ってくれたりとか、したと思う?」
「……それは、ないな」
 アダムの返事にレンカは楽し気な笑みを浮かべた。
「やっぱり、こればっかりはサシャの勘違いだわ」
「あいつ、何を言ったんだ」
「教えてあげない。サシャと私の秘密だもの」
 レンカは微笑んだままアダムの膝の上に跨るように座ると、アダムの首に両腕を回してアダムの顔を正面から見つめた。
「もしあなたが十三年前のあの時私を助けていたら、なんておかしな後悔のし方はしないで。その場にいなかったんだもの、しょうがないじゃない。私の記憶がなくなってしまったのが襲われた時のショックのせいなのか……他のこととの相互作用だったのかは分からないし、その後自分で自分を死に追いやるような行為を抑制できなかったこととかその頃の精神状態を思い出すと、もちろん辛いわ。でも私、これで良かったと思うの。起こったことのどれか一つでも欠けていたら、私は今、ここであなたとこうしていなかったんだもの。だから、あの時誰が私に危害を加えようとしたのかとか、なんであんなことになったのかとか、今更知る必要も知る意味もないのよ。今の私が、あなたと一緒にいられて幸せなの。それ以上に意味のあることなんて、少なくとも私にとっては、ないの」
 アダムはレンカの言葉を聞きながら、ただレンカの目を見つめていた。レンカが最後の言葉を言い終わってもアダムから何も聞こえてこないので、レンカはさらに大きな笑みを浮かべて
「何も、言ってくれないの?」
と尋ねた。アダムはやっと口を開くと
「感動しすぎて、言葉が見つからん」
と言ってレンカを抱き寄せ、レンカの髪に鼻先をうずめた。
「もう、俺から逃げるなよ」
「……六月の話を蒸し返されると、未だに顔から火が出そうなくらい恥ずかしいわ」
「お前はあれが俺にどれだけでかい打撃を与えたのか分かっていない」
「私だって、五分走ったくらいの時点で本当はUターンして戻りたかったわ」
「意地っ張りだな」
「しょうがないじゃない、あの時行くべきところに行って聞くべき話を聞いてきたから、今の私があるんだわ。……キッチンのほうは、大丈夫?」
「タイマーがかけてある」
 そう言いながらもアダムはレンカの体を離すと立ち上がってオーブンの様子を見にキッチンへ向かった。
 残されたレンカはアダムが開きっぱなしにしているノートパソコンの画面の上のキリル文字の羅列を眺めた。今更だけど、サシャにも自由に会えるようになったんだし、ロシア語の勉強でもしてみようかな、さすがに仕事で使えるレベルにはならないかな、とぼんやり考えた。カフカの全員がロシア語もドイツ語も堪能だが、五人が揃った時に使う言語は基本的にドイツ語だ。アダムによると、サシャはロシア語に関しては厳しく、サシャに合格がもらえるレベルのロシア語の使い手はカフカの中ではカーロイだけらしい。ティーナは既にUNPROFOR時代にアダムとカーロイが話すチェコ語を聞いてすぐにポーランド語との共通点と相違点を理解したらしく、レンカともチェコ語で話す。アダムは誰に強制されたわけでもないのに、「使えると便利そうだったから」という理由でボスニア・ヘルツェゴヴィナに派遣されてすぐにセルビア語を習得したと言っていた。
 レンカが自在に使える外国語は大学で専攻したドイツ語だけで、他に解する言語は仕事で使うには支障がない程度の英語と、一度「交渉で必要だ」と言われ短期間で頭に詰め込まざるを得なくなったイタリア語だけだというのに、どうして私が飼うことになった鴉さんはこんなに器用なのかしら、と少し憤り、ソファの上に投げ出してあったポーランド人作家のエッセイ集『Bukareszt. Kurz i krew(ブカレスト。埃と血)』に目を落として、「どうしてまた、こんなものを苦労してポーランド語で読もうなんて気を起こしたのかしらね」と思いながら拾い上げた。


その名はカフカ Modulace 10へ続く


『Ten pocit, že jsem tenkrát měl křídla』 22,5 x 29 cm 水彩



【補足】
Margo Rejmer著『Bukareszt. Kurz i krew』(2013)のチェコ語訳『Bukurešť. Prach a krev』が出版されたのは2015年11月。当初このチェコ語訳をレンカが読んでいる、という設定で本話を書き始めたのだが、奥付を確かめたところ拙小説のほうが初版の一年前の設定だったので、レンカには急遽ポーランド語の原書で読んでもらうことに。汗


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