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その名はカフカ III

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長編小説『その名はカフカ』の収納箱その③です。その②はこちら→https://note.com/dinor1980/m/m6b45cf0fa711
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カフカを広げて図書館、秋初め。

2004年9月プラハ  九月も中旬を過ぎて最高気温も二十度を下回る日が続き、プラハは順調に秋らしくなってきた。レンカはつい先日まで在籍していた大学から旧市街広場に向かって五分ほど歩いたところにあるプラハ市立中央図書館に来ていた。在学中から、学校の図書館よりもこの市立図書館のほうが好きだった。大学の図書館もそれなりの大きさがあったが、常に収容できる人数よりも多くの学生がひしめいており、空気が悪かった。あんな環境で勉強できる人間の気が知れない、とレンカはいつも思っていたが、今の

その名はカフカ Disonance 1

その名はカフカ Prolog その名はカフカ 第一章第一話 その名はカフカ 第二章第一話 その名はカフカ 第二章最終話 2014年3月プラハ  射撃場全体の安全確認を終えて、ヤン・ザトロウカルが休憩所に戻ってきたのは午後十一時を回った頃だった。ヤンがこのプラハの北の端にある一般の銃器による武装免許保持者のための射撃訓練場に勤め始めたのは五年ほど前のことだ。大病を患い、手術後の体力の低下は著しく、この先も警察官として勤めていく自信を失って、退職を決心した。まだ四十代も半ばの

その名はカフカ Disonance 2

その名はカフカ Disonance 1 2014年8月クラクフ  ティーナが会議室のドアを開けると同時にカーロイは素早く立ち上がり、ティーナが後ろ手にドアを閉めるのを見届けてから、いつのも朗らかな笑顔を浮かべて彼女を抱擁した。ティーナも嬉しそうに笑って、カーロイの背に手を回した。 「ご足労様だわね」 「移動した距離から言えば、君も私も大した違いはないだろう」 「あなたのほうが百キロくらい長いわ。それに国境を二つも跨いでる」  そんな言葉を交わしながら、二人は大きくOの字を

その名はカフカ Disonance 3

その名はカフカ Disonance 2 2014年9月プラハ  レンカが仕事においても単独行動を許されたのは、六月にスロヴェニアから戻ってきた直後のことだった。アダムはレンカに「どのような状況で誰と行動すべきかの判断は自分でできるだろう」とだけ言った。実際、レンカが常にアダムかエミルのどちらかを伴わなければならない環境よりも、ある程度レンカが一人で動けたほうが、あとの二人が並行して別の仕事ができるという意味でも効率がいい。レンカ自身も「一人になるな」と制限されているよりも

その名はカフカ Disonance 4

その名はカフカ Disonance 3 2014年9月ハンブルク  北海に流れ込むエルベ川に河川港を抱くドイツ北部の街ハンブルクでは、日々大小様々な船が行き来している。そのうちの一つ、クルーズ客船としては小さめの、しかし贅沢な造りをした旅客船の一室で、サシャは一人の初老の男と向かい合って座っていた。男と会うのはいつも船上で、指定された場所に泊まっているのは毎回違う船だった。  サシャがその男と知り合って既に二十年以上経つが、男の外見は髪に白いものが増えたくらいしか変化が見

その名はカフカ Disonance 5

その名はカフカ Disonance 4 2014年9月プラハ 「二年後、というのは、ちょいと早すぎやしないか」 というのが、レンカがハルトマン病院長が約束してくれた契約解消の話を伝えた時のアダムの最初の反応だった。レンカの今の境遇を一番嫌がっているのはアダムだろうと思い込んでいたレンカは拍子抜けしたが、確かにこの契約はアダムが下げたくない頭を下げてレンカの身の安全と地位の強化のために獲得したもので、そんな風に勝手に解約の話を取り決められても易々と承諾できないのは当然だろう

その名はカフカ Disonance 6

その名はカフカ Disonance 5 2014年9月プラハ  レンカは仕事の後、帰宅する前にカレル橋のすぐ側にある国立図書館へ予約しておいた本を受け取りに行った。プラハの中心部から離れた場所にある事務所からわざわざ国立図書館まで行って、またプラハの片隅にあるマンションに帰るのは非効率的な帰宅ルートではあったが、この日を逃すと予約した本を受け取りに行ける日がないので図書館の閉館時間が来る前に事務所を出なければいけない、という理由付けがなければなかなか腰を上げられなかった、

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その名はカフカ Disonance 6 2014年9月フランクフルト・アム・マイン  ラーヂャはヨーロッパ内にいくつかの工房を抱えていたが、本拠地としている最大の工房はドイツ西部に位置する世界的な金融都市フランクフルトに置いていた。最大の工房、と言っても、街はずれの古い家屋の地下に構えており、そこで使っている従業員は六人ほどだった。  ラーヂャは工房ごとに専門分野を分けていて、フランクフルトの工房では主に身分証明書の偽造を扱っていた。もともと紙幣の偽造にはあまり興味がなか

その名はカフカ Disonance 8

その名はカフカ Disonance 7 2014年9月プラハ  ナイトテーブルの上に置いてある時計がきっかり午前四時二十五分を表示した瞬間、エミルは両目を見開いた。既に十分前くらいには覚醒していたが、動き始めるのは四時二十五分と決めていて、その動きには目を開けるという行為も含まれていた。  隣で寝ているアガータは常に眠りが浅く、エミルの僅かな動きでも目を覚ましてしまいそうだったが、暫く観察するうちに、アガータはいつも朝四時半頃は比較的深く眠っているらしい、ということに気が

その名はカフカ Disonance 9

その名はカフカ Disonance 8 2014年9月ブダペスト  まぶたを閉じたままでも、窓から陽の光が燦々と降りそそいでいるのが感じられる。つまり、既に日は高く、夜間勤務者でない限り、良識ある人間の起床時間というものはとっくに過ぎているということなのだろうな、と思いながら、ペーテルは寝返りを打った。それと同時に、室内にうっすらと人の気配を感じた。きっと自分はまだ半分夢の中にいるのだろう、昨日一緒に飲んだ連中はみんな楽しい奴らだったが、さすがに自分の住処にまで連れてきて

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その名はカフカ Disonance 9 2014年9月ブカレスト  早朝にプラハを発ち、ブダペストに立ち寄ったレンカがルーマニアの首都ブカレストの郊外にある国際空港に降り立った時には、腕時計の針は午後二時数分前を指し示していた。しかし離陸したハンガリーとは一時間の時差があるのだから、現地時間は既に午後三時前、ということになる。出口へ向かいながら時計の時間調節をしようとしたレンカの視界の隅に、出口の近くに立っているヴァレンティンの姿が映り、レンカは今自分が何をしていようとし

その名はカフカ Disonance 11

その名はカフカ Disonance 10 2014年9月ブダペスト 「社長、ご来客です。お約束はしていないそうですが」 と言って守衛のゾルターンがカーロイの事務室に顔を出したのは、午後四時半を過ぎた頃だった。ちょうどカーロイはデザイナーの一人と彼の新しい企画の製図を前に討論をしていたところで、「今、面白いところなんだが」と思いながらゾルターンに 「お名前はいただいたのかい?」 と聞いた。ゾルターンは 「名乗っていただけませんでしたので。あ、外国の方です。身なりはちゃんとし

その名はカフカ Disonance 12

その名はカフカ Disonance 11 2014年9月プラハ  射撃場の駐車場は数本のオレンジ色の街灯に照らされて、夜でもうっすらと明るい。エミルは駐車場の片隅に止めてあるアガータのバイクのできる限り近くに車を止めた。車を降りると、事務所を出た時よりも更に空気が冷たくなっているのが感じられた。  エミルは以前からもっと遅い深夜か、夜明け前に練習に来ることが多かった。だから今年の一月くらいにこの射撃場に通い始めたアガータと顔を合わせる機会は、三月にたまたまエミルが予約の時

その名はカフカ Disonance 13

その名はカフカ Disonance 12 2014年9月ワルシャワ  既に午後六時を過ぎ、辺りは薄暗かった。ただでさえ初めて来た街で不案内なのに、目的が果たせるのか疑問だな、と思いながら、ハンスは隣を歩くフリッツのほうを見た。フリッツも少し心もとなげな顔をしている。街はずれの小径を歩く二人の周囲に人はいない。それでもハンスは辺りを警戒しながらフリッツに話しかけた。 「なあ、ポーランドなんかで女一人脅したところで、大佐の居場所なんて分かるのかな」 「どう転ぶかな。アントンも