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その名はカフカ Disonance 1

その名はカフカ Prolog
その名はカフカ 第一章第一話
その名はカフカ 第二章第一話
その名はカフカ 第二章最終話


2014年3月プラハ

 射撃場全体の安全確認を終えて、ヤン・ザトロウカルが休憩所に戻ってきたのは午後十一時を回った頃だった。ヤンがこのプラハの北の端にある一般の銃器による武装免許保持者のための射撃訓練場に勤め始めたのは五年ほど前のことだ。大病を患い、手術後の体力の低下は著しく、この先も警察官として勤めていく自信を失って、退職を決心した。まだ四十代も半ばのことで、次の勤め先として知人に紹介してもらったのが、この「今までの経験をある程度活かせて体力を必要としない」射撃場の管理の仕事だった。
 銃器武装免許取得試験には厳しい精神鑑定も含まれている。免許保持者はほぼ全員、常識ある人間で、この職場で警察官としての経験を活かせているか、と問われれば何とも言えなかったが、日常的に火薬の匂いを感じていられる環境は、転職前の自分を保っていられそうで嫌いではなかった。
 ヤンの勤める射撃訓練場は二十四時間予約可能で、そのような射撃場はプラハ市内でも他にはなく、安定した人気を保っていた。それでも午前零時も近くなれば練習に来る人間は少なく、この日もヤンが見回りをした時には二、三人残っているだけだった。
 練習に来た客のために設けられた休憩所は五台の丸テーブルとその周りに置かれた椅子、壁際のベンチと三台の自動販売機が設置されている簡易なものだったが、そこには管理担当者の詰所となっているカウンターも設けてあり、予約の少ない日にはその場で追加料金を払って訓練を延長する客も多かった。警備員たちとの打ち合わせも兼ねた見回りを終えて、ヤンが休憩所に足を踏み入れると、そこでもまだ二人、若い男女が座って談笑していた。延長したくてヤンを待っていた、というわけでもないらしく、二人は話を続けている。ヤンは黙ってカウンターの後ろの自分の席に座った。
 見回りに行く前までタブレット端末で観ていたアイスホッケーの親善試合の特集番組は終わっている。カウンターに同僚が残していった新聞はなぜか昨日のもので、一日経って新鮮味を失ったニュースには興味がそそられなかった。自然と、ヤンの視線は休憩所に座っている二人の客に吸い寄せられた。
 二人はどちらも二十代かと思われた。女のほうは数ヶ月前からこの射撃場に通っていたが、仕事が不定期なのか、昼間に予約を入れたり夜間に現れたりしていた。それでもヤンが顔を覚えてしまうくらいには熱心に通っている。男のほうは、ヤンがここで働きはじめた頃には既に通っていた常連で、深夜か、下手をすると夜明け前の早朝に予約を入れることが多かった。ヤンはこの日初めてこの二人が話しているのを見た。普段訓練の時間帯が違う二人は今日ここで初めて会ったのだろう。
対位法kontrapunktって、分かる?私も音楽のことなんて全然知らないんだけど、聞くのは好きなのね。従妹が音楽学院を目指してて、対位法の説明してくれたんだけど、話を聞いてるだけじゃ理解できなくて」
 ヤンは女が挨拶以外の言葉を発するのを初めて聞いた。女はスロヴァキア人らしい。男に対してもスロヴァキア語で話しかけている。普段は愛想笑いもしない女が楽しそうに話しているのは、新鮮な光景だった。
「そんなに複雑なんだ?僕は単に同じメロディーをタイミングをずらして奏でて一つの曲を作ることを意味するんだと思ってたけど?」
「それで一つの曲が成り立つって、不思議じゃない?」
 男は一瞬考えるような顔をして
「確かに、素人には理解できない世界だ」
と言って笑った。男のほうは普段から朗らかな表情で挨拶をするので、彼の笑顔はヤンにとって珍しいものではなかったが、やはり誰かと会話を楽しんでいる時はまた違った表情になるものだな、と観察した。
「ラヴェルの『クープランの墓』、知ってる?組曲で二曲目がフーガなんだけど、試しにそのフーガの楽譜をネットで見つけてプリントアウトして、指でなぞってみることにしたの。視覚で認識したら、もうちょっと分かるんじゃないかと思って。三声のフーガなんだけど、最初の一声の主題メロディーを左手の人差し指、二声目の主題が入ったら右手の人差し指、っていうふうに」
 ヤンは女が話している内容がさっぱり理解できなかったが、こんな訳の分からない話を初対面の男に話している、という事実はもっと理解できなかった。相手の気を引きたかったら、もっと別の話題にすべきじゃないのだろうか。要は女は自分が理解できないことについて、いかに理解できないかを男に聞かせているのだ。そんな話をよく知らない他人から聞かされて面白いと思う人間がいるだろうか。それとも、女は相手を試しているのだろうか。
「それで、理解は深まった?」
「私程度の知識じゃ、楽譜を見たってそうそう簡単には頭の中で音が響かないってことが分かっただけ。途中で対主題が入るなんて言われたら全く歯が立たないの。だからその後、演奏を聞きながら、また両手の指先で楽譜を追ってみることにしたの」
 女はそこで一旦言葉を切ると、大きく微笑んだ。
「そしたら、ますます分からなくなっちゃった。楽譜のどの部分を演奏してるのか、すぐに見失っちゃったの」
「そう。話を聞いているだけじゃ、どれだけ複雑なのかは想像するしかないけど」
 ヤンは、男がまるで「楽譜と音源さえ与えてくれれば、自分にとっては理解は容易いかもしれない」とでも言っているかのような印象を受けた。先ほどの話し方からすると、男も音楽に関しては門外漢だ。普段の彼の謙虚な態度からすると意外だったが、同年代と話していれば態度も変わるのだろう。
 女は再び口を開いた。
「最初は悔しかったわ。作曲家っていうのは素人には理解しえない法則を操って作品を生み出して、私たちが訳も分からず鑑賞しているのを見て悦に入っているんだわって。でもね、きっとそうじゃないんだって、そのあと思ったの。音楽を聴く立場になったら、それが好きか嫌いか、美しいか耳障りか、そういった感じ方とか印象とかしか重要じゃないじゃない?踊らされているのは、作曲家のほうなのよ。作曲家はいろいろな音楽形式を神様から与えられて、それを頭を使って駆使して頑張って作品を生み出すの。私のようなド素人の耳を楽しませるために。どんな形式が聞いている音楽に使われているのかなんて、私が理解する必要はないのよ」
 女の話が終わるか終わらないかのうちに、先ほどまで射撃場で熱心に練習をしていた中年の男が休憩室に現れ、ヤンに近づいてきた。
「すみません、もう一時間延長、お願いできますか?」
 ヤンは「もちろんですよ」と言いながら、見回りに出る前に電源を切ってしまったカウンターの内側にあるデスクトップパソコンを立ち上げた。この管理用のパソコンも年季が入ってきていて、作業ができるようになるまでには数分を要する。ヤンはパソコンが完全に目を覚ますまで何もできないな、と思いながら休憩所の二人に目を戻した。
 先ほどまで談笑していた若い男女は、既にそこにはいなかった。立ち去り方が妙に玄人っぽいな、と頭の隅で考えながら、ヤンはやっと準備が整ったパソコンに視線を落とした。


その名はカフカ Disonance 2へ続く


『V hledání kontrapunktu』 水彩紙、20 x 27,5 cm、水彩



【追記】
「第二章Kontrapunktの挿絵になぜ手をモチーフとして描きまくっていたのか」の解説みたいな第三章のスタートとなってしまいましたが。
実はこの第一話は8月22日に書き始めていたのですが、きちんと連載していける自信がなかったため、今ごろの公開となりました。では今は連載をしていける自信があるのか、と問われても「はい」とは答えられない状態ではありますが。
この度も、見切り発車でございます。

第三章Disonanceも、ゆるりとお付き合いいただければ幸いです。


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。