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その名はカフカ Kontrapunkt 22

その名はカフカ Kontrapunkt 21


2014年7月ゲルリッツ

 ポーランドとの国境に隣接するドイツの街ゲルリッツは、規模としては小さな街ではあるが、十九世紀から残る美しい町並みは1950年代から多くの映画人を惹きつけ、撮影も盛んなことから、「Görliwood」という造語もこの街を表す名称として使われるようになって久しい。この日はよく晴れて、街の散策には持って来いの日だったが、レンカは「そんなに映画撮影が盛んなのなら、どこかで背景として映ってしまうのではないか」と心配になった。
 対岸は既にポーランドだというナイセ川を横目に、レンカは歴史的な街並みに足を踏み入れ、待ち合わせに指定されたカフェを探した。そのカフェはすぐ見つかって、テラスの席に一人、洒落たサマースーツを着込み、組んだ足の上で新聞を垂直に立てるように広げて座っている男を見つけた。新聞で顔を隠しているつもりなのだろうか、足だけでもいやに目立つ男だな、と思いながらレンカは男に近づき
「来たわよ」
と言った。
 ヴァレンティンはすぐさま新聞を下ろし
「面白い挨拶だ。良識ある人間は普通、"こんにちは"とか、"やあ"とか、最初に言うものじゃないのかい?」
と楽しそうに言った。レンカは、今更取って付けたように「こんにちは」とは言えないな、と思って黙っていたが、ヴァレンティンは気にする様子もなく、新聞をたたむとテーブルの上に置いて立ち上がり、
「疲れていないのなら、少し歩こう。今日は車で来たのかい?」
と言いながら、街の中心に向かって歩きはじめた。レンカは
「ライプツィヒから来た依頼に話をつけて来いって言ってたでしょ?昨日アダムと顔を出しに行って、そこから今朝来たの」
と言って、ヴァレンティンの横に並んで歩きだした。
「それで、今アダムは何をしているんだい?カーロイの真似をして、花束でも買いに行っているんだろうか?」
「あなたが私に話があるって言うから、一人で来たんじゃない。あとで迎えに来てくれるわ」
 ヴァレンティンは楽しそうな笑顔を崩さずレンカを横目で見て
「アダムともあろう男が、既婚者に手を出すとはね」
と言った。レンカもヴァレンティンを横目で見て
「嫌らしい言い方するのね」
と返した。
「だが、事実だ。ところで君は、僕を睨むのをやめたようだね」
「その必要がないことが、分かったから」
 ヴァレンティンはレンカのほうへ顔を向けた。
「思い出したのか?」
 ヴァレンティンの問いに、レンカは小さく笑って頷いた。
「へえ、いつ?」
「あの日クロムニェジーシュのキッチンで、お皿を洗ってるときに。あ、ここで前にもお皿を洗ったことがあるなって思ったら、そのまま全部、記憶が戻ったの」
「それは興味深い。まるで13年前、僕が二日間君に皿洗いばかりさせていたように聞こえる」
「全部思い出したって言ってるでしょ。お皿を洗ってただけじゃないことくらい、分かってるわよ。……お礼を、言うべきかしら」
「お礼なら、あの時既に言ってもらった」
「じゃ、謝るべきかしら」
「どうして?」
「今更だけど、失礼極まりない小娘だったんじゃないかなって思って。あなた、今もそうだけど、実年齢より若く見えるし、カーロイたちの仲間だって分かって、ますます気を使う必要がない気がしちゃったんだと思うんだけど」
「僕は上辺だけのわざとらしい礼儀作法が嫌いだ。あれで良かった。それで、記憶が戻ったことで……怖い、ということはないのか?」
「それは、あまり感じてないみたい。今振り返ると、その後乗り越えなきゃいけなかったこととか、この13年間で遭った危険なこととかのほうが、ずっと経験としては重いから、だと思う」
「そうか。そんなものかもしれないな」
 そう言うと、ヴァレンティンはまた前を向いて黙って歩いた。その横を、レンカも何も言わずに歩いていたが、さほど遠くないところに映画の撮影に来ているらしい団体を見かけ、再び口を開いた。
「あんなに撮影が行われていて、心配にならないの?あなた、できるだけ隠れているべき存在なんじゃないの?」
「ちょっと考えてみなよ。本当にカメラを回し始めたら、関係者以外は撮影現場から立ち退かされるに決まっているだろう」
「でも、この街での人の出入りが激しいってことを意味することには変わりないんじゃないの?」
「僕たちが警戒すべきは裏社会の人間で、映画関係者ではない。しかし面白いことに、君が言ったような理由で、この街は裏社会に敬遠されている。おかげでゲルリッツは僕の隠れ家になった。映画人なんて、変に目立つ奴らばっかりだ。それに紛れていれば、過ごしやすいことこの上ない」
「つまり、犯罪組織に関係している人は、この街であなただけだって言いたいの?」
「僕と、僕の手のうちの人間しかいない。よって、君も盗聴だとかを怖れず何を話しても構わない」
 ヴァレンティンの表情を見る限り、冗談でもなさそうだ、とレンカは心の中でつぶやいた。小さい街だから、管理がしやすいのかもしれない。出入りする人間の種類が限られているのも安全性を保ちやすい要因だろう、そんなことを思いながら、レンカは再びヴァレンティンに
「それなら今ここで、今日私に何の話があるのか、聞かせてくれる?」
と話しかけた。ヴァレンティンはレンカのほうに顔を向けると、微笑んで
「ねえ、13年も君のことを放っておいた僕が、なぜ急に君の前に現れることにしたと思う?」
と聞いたが、答えを期待しているようでもなかった。ヴァレンティンは歩調を緩めて、言葉を繋いだ。
「僕は、そろそろ僕たち五人の活動の仕方を変えてもいい時期に来ていると考えている。別に僕はICTYに協力し続けるのが、僕たちの在り方だとは思っていない。実際、旧ユーゴとは関係ないことのほうが、仕事としては多いだろう?あの頃僕は、優秀な人間をスカウトするのが目的でICTYに行った。あの機関で働いていた上層部とも繋がりができたけど、それも定期的に入れ替わる。それは全然構わない。そういう人間たちは、別の機関に動いても、たいてい利用価値のあるポジションにいる。それに、あと数年でICTYも閉廷されるだろう。先月の仕事は、あの機関のための、僕たちの最後のご奉仕になるのだと思う」
 そこまで話すと、ヴァレンティンは一旦言葉を切って立ち止まり、そこからあまり遠くないところにそびえ立つ聖ペトロ・パウロ教会のほうを見やった。そして「あれは時間があったら、中を見ていくといい」と言って、また歩き出し、話を続けた。
「僕は、これから僕たちはもう少し前面に出てもいいんじゃないかと思っている。98年から暫くは僕たちはあの世界で少々騒がれる存在になったが、2001年からは幻の存在となり、今では外部ではほんの一握りの人間しか、僕たちのことを把握していない。別にカーロイやティーナに今の仕事をやめろとは言わない。彼らの職業は、あれはあれで利用価値がある。裏社会で表に出る、と言うのもおかしな表現だが、とにかくあの頃から現在に至るまでカフカの名を背負って表立って活動しているのは僕と、そして君だ。もちろん君とカフカを関連付けて見ている人間はほとんどいない。しかし、放っておいても噂というのはどこにでも立つし、たまに真実を突いていたりする。レンカ・ハルトマノヴァーはカフカのために存在している、と言うのがその最たるものだ。君は2006年にその名を手に入れて以来、まさに僕たちを隠すために存在していた。その在り方を今、変えてもいいんじゃないかと、僕は思う」
 ヴァレンティンが立ち止まったので、レンカも立ち止まって、ヴァレンティンの顔を見た。二人は小さな噴水のある広場まで来ていた。
「君が僕たちを隠すために存在している、のではなく、僕たちを代表して表に出る人間として活動する。わざわざ吹聴しなくてもいいが、僕たち五人の存在をひた隠しにする必要もない、そういう形に移行できないか、と僕は考えた。そうなると、こんな大切な任務を与える君から隠れ続けているわけにもいかない。君が、この仕事に就いてから相当な時間が経っても、あの四人がリーダーとしている人間に興味を示さないのもおかしな話だ、という思いもあったけど、とにかく君に近づいてみることにした」
「それ、普通にアダムやカーロイに言えばよかったんじゃないの?バレエ公演で脅迫者のふりして現れる必要性、全然見えないんだけど?」
「それは無理だ、特にカーロイは。彼は13年前、僕が可愛い義妹に何かいかがわしいことをしたのではないかと疑っている。口には出さないけどね」
「言っていいことと悪いことがあるわ。カーロイがそんな品のないこと、考えるわけないじゃない。カーロイに失礼よ」
 レンカの言葉に、ヴァレンティンは呆れた顔をして腕を組んだ。
「君のそのカーロイ崇拝には、昔から少し異常なものを感じる。まあ、カーロイ自身も苦しいところではあっただろうね、可愛い君には自分のところで働かせておきたいが、会わせるわけにはいかない仲間がいる、なんてね。君から言っておいてよ、僕は潔白だと」
 ヴァレンティンはまた少し歩を進めると、人が集まっている噴水からは距離を置いたベンチの近くで立ち止まり、レンカに座るよう目で促した。レンカが座ると、ヴァレンティンも隣に腰を下ろした。
「どうあれ、僕が君の前に姿を現すとなると、なくしてしまった記憶を刺激することにはなるだろうし、それを解決しないことには一緒に仕事はできない。そこでカーロイにもアダムにも断りを入れずに、あのような登場の仕方をしてみた。案の定、僕の行動は君を混乱させ、君は迷走した。しかしこれも乗り越えるべき山の一つだったんだろう、と言ってしまえば、勝手な都合のいい解釈に聞こえるだろうか。何にしても、僕はまたこうして君と話せるのが、純粋に嬉しい」
「あの頃の私と、今の私じゃ、かなり違っているけど」
「どうだろう?先月スロヴェニアから帰って来た時点で、君の表情は随分と柔らかくなったと思うけどね。だいたい、13年も経っているんだ、変わらないほうがおかしい。と言うよりも、君はあの時、一気に深い穴に落ちてしまって、13年の間、そこから這い上がろうとしなかった。そして今、その穴から一足飛びに放り出されたんだから、今から急速に13年分の成長を取り戻すことになるんじゃないだろうか。それに、深い穴の中での経験も、何の無駄にもならない。それも全部合わせて、君はきっと自分でも想像がつかないくらい、強くなるんだと思う」
 それまで噴水の周りで戯れる子供たちを眺めていたレンカは、ヴァレンティンのほうに顔を向けた。
「随分と、いいことを言ってくれるのね」
「思ったことを言ったまでなんだが、どうか期待を裏切らないでくれたまえ。僕は優秀な人間しか使いたくないんだ。もちろん、君が僕を自分の上司として認めてくれることが前提での話なんだけど」
 ヴァレンティンの言葉に、レンカは小さく微笑んで
「今のところ、転職する予定はないわ」
と言った。ヴァレンティンも満足げに笑うと
「色よい返事が聞けて本望だ。早速僕の計画の一部を話しておきたいんだが、僕は遠くない将来、サシャを現状から解放し、こちらに呼び戻したいと思っている」
と言いながら、視線を噴水の向こうへ移動させた。
 レンカは
「そんなことが、可能なの?」
と聞きながら、ヴァレンティンの視線の先に目をやり、二人に向かって歩いてくるアダムを見つけた。
 ヴァレンティンはニヤリとして
「恋に落ちたアダム、というのはなかなか新鮮な光景だな」
と言うと立ち上がった。レンカは呆れた顔をして
「その表現は、今のあの人をあまり的確には言い表していないと思うけど?」
と返して腰を上げた。
「この間までの、心配性のお父さん然とした雰囲気よりずっといい」
とヴァレンティンが言ったところで、アダムが二人の前に到着した。
 アダムは二人を訝しげに見据えると
「お前ら、俺の話をしていただろう」
と言った。ヴァレンティンは
「君は最近ますます男前になったと話していたんだ。ついて来なよ、僕にお昼を奢らせてくれるくらいの時間はあるんだろう?」
と言って、レンカとアダムの先に立って歩きだした。



その名はカフカ Kontrapunkt〔了〕



その名はカフカ Disonance 1へ続く



『V souladu s Kavkou』 Bamboo (Hahnemühle) 22 x 30 cm、水彩


『その名はカフカ Kontrapunkt』の解説記事を書きました。

番外編も書きました。



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