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その名はカフカ Kontrapunkt 21

その名はカフカ Kontrapunkt 20


2014年6月モラウスケ・トプリーツェ

 テンゲルはこの日の最後の客を見送ると、そろそろ次の滞在先を決めなくては、と候補の温泉地に思いを馳せた。毎回、何となく「今度はここだな」と思うところに決めるのだが、事前にラーヂャにも彼の仕事に都合の良いところはあるかと聞くようにはしていた。しかしラーヂャの返事はいつも同じで、「お前はいつも俺の役に立つところを勝手に選んでいる。好きにしろ」というものだった。
 テンゲルが滞在するのは決まって温泉の名所にある高級ホテルだったが、移動の前日に連絡を入れても、即座にテンゲルのために一番良い部屋を用意してくれるホテルばかりだった。テンゲルの客たちは、もちろんテンゲルに心を癒してもらうためにやって来るのだが、ついでに温泉でも金を落としていくという事実が、どのホテルでもテンゲルが歓迎される主な理由だった。テンゲル自身は、「経済的に余裕のある人しか自分の治療を受けることができない」というこの構図が必ずしも良いことだとは思っていなかったが、病院等の施設で働ける学位や資格があるわけでもなく、ところ構わずテンゲル自身の安全が確保できない場所で治療する、というのにはラーヂャがいい顔をしなかった。
 とりあえず次の移動に向けて少し荷物の整理を始めようか、ホテルがプレゼントしてくれたボトル詰めの湧水は自分では飲まないから次の滞在先で誰かに贈ろうか、と部屋の中を見渡していると、何者かが部屋の入口のほうに近づいてくるのに気が付いた。どんなに訓練され、気配を完全に消し去ることができる人間でも、テンゲルの前では隠れることはできなかった。テンゲルは人の気配を感じるのではなく、その生命体がそこに在るのか、無いのか、それを見る。実際は目で見ているわけではないが、「感じる」というより「見る」感覚に限りなく近かった。暫くして、部屋のドアが開けられ、その何者かが入ってきた。テンゲルの許可なしにテンゲルの部屋に入れる人間は、この世で一人しかいなかった。
 ラーヂャは「よう」と言いながら、テンゲルが立っている中央の部屋に入ってきた。テンゲルは微笑んで
「お疲れさま、ラーヂャ。飲みます?」
と言って湧水の入ったボトルを示した。
「そんなもの、不味くて飲めたもんじゃねえよ」
と言いながらラーヂャは真っ白なソファの真ん中にどかりと腰を下ろした。
「皆さん、不味ければ不味いほど効能があると思われるようですから」
とテンゲルは答えて、ラーヂャに向かい合うように腰を下ろした。
 テンゲルはラーヂャが帽子を取り、額の汗を拭うのを見守りながら
「キツネさん、お亡くなりになったのですね」
と言葉を続けた。
 ラーヂャは眉を上げて
「分かるのか?」
と聞いた。テンゲルが
「治療の後は、少なくとも数日間、お客様の心と繋がっているのが常ですから」
と答えると、ラーヂャは苦笑した。
「そうだよなあ、お前だよなあ、やっぱり。温泉なんて、所詮気休めだろ?俺も何を抜かしてんだキツネの奴、って思ったんだ。あいつ、お前のところを出た後、わざわざ電話してきて「あんたの藪医者の痛み止めはもういらん、温泉で完治した」って言ってきたんだ。そんな温泉、あるかってんだ、なあ」
「キツネさんの、痛みと疲労を感じている意識を閉じてみました。お体のほうは、もう手遅れなくらい傷んでいましたから」
 テンゲルの返事を聞いて、ラーヂャは膝の上に肘を置き、手を組んでその上に顎を乗せて、空を見つめた。
「俺が、殺したんだな、やっぱり」
「直接の死因は、リエカでの襲撃でしょう?」
「俺が垂れ込んだんだ、物はキツネが持ってるって、そのキツネを殺した奴に。そうでなけりゃ、その殺し屋はキツネまでたどり着けなかった」
 テンゲルはただ、ラーヂャを見つめた。優しい眼差しだった。
「ラーヂャは、その人がまさかキツネさんを殺してしまうとは思っていなかったのでしょう?」
「どうだかな。あり得る、とは思っていた」
 ラーヂャの返事に、テンゲルは少し困ったような笑みを浮かべた。
「ラーヂャはいつも、すべてを計算し尽くしている。ラーヂャが意図的にキツネさんを犠牲にしたと言うのなら、それは何か考えがあってのことなのでしょう」
「俺は、つまりはあの女を、優先したんだ」
 テンゲルは「続けてください、聞いていますから」と表情で伝え、席を立つと、部屋の隅に置いてあるピッチャーからグラスに水を注いでラーヂャのほうに持って来て手渡し、また同じ位置に座った。
「お前は、キツネの心の中を覗いた時、見えたりしたか?ハルトマノヴァーという女が」
「私がキツネさんの心の中で触れたのは、その女性に対する恐怖だけでした。私は透視能力があるわけでもなければ、世界の全てを映し出す水晶玉を持っているわけでもありません。お客様の心の中に植え付けられた思い以上のものは、受け取れないのです」
 ラーヂャは少し顔をしかめてグラスの水を一気に飲み干し、また話し始めた。
「死んだ奴のことをこう言うのは何だが、キツネが怖れていたのはハルトマノヴァーの上っ面だけだ。キツネはその後ろに隠れるものに気づく能力に欠けていた。あの女は、そりゃ怖ろしい目でキツネを睨んでたが、あれは所詮、演技だ。本人も演技だと思ってないくらい手の込んだ芝居だ。敵を前にしたら自分の全世界に対する恨みを全部かき集めて目の前の奴にぶつける、それを繰り返してたら本人もそれが自分自身だと勘違いするくらいに習得できた、そんな感じがした。だが、あの女はそんな張りぼてだけで出来てるわけじゃない。あの見せかけだけの強さが削げ落ちた時が、一番怖いんだと思う」
 ラーヂャはそこで一旦言葉を切ったが、テンゲルは表情一つ変えず、黙ってラーヂャの話の続きを待っているようだった。
「五月に俺たちが仕掛けた爆弾を爆破した時、俺は「あの距離ならキツネは助からんかもしれんが、女は助かる」、そう思ったんだ。あのまま放置するわけにはいかんかったしな、どうせ爆破するなら証拠の一部になりうるキツネがいなくなれば都合がいい、くらいの考えもあった。ひでえだろ?やっぱり、俺が殺したんだ。外傷がなかったから本人も分かってなかったんだろうが、お前の言う通り、体の中は爆破の時点でズタボロだったんだろ」
「ラーヂャ、私には、あなたが後悔しているふりをしているようにしか見えません。爆破の前にキツネさんに麻酔銃を撃った人に、罪は一切ないと思いますか?そもそも彼にその女性の殺害を命じた上司は?」
 ラーヂャは空を見つめたままだった視線をテンゲルに移した。
「ラーヂャは、このような結果になって、良かったと思っているのではないのですか?計画通りだ、と」
 今度はラーヂャが困ったような笑みを浮かべた。
「女を殺らずに済んで、良かったとは思っているが、キツネが死んだことを喜んでいるわけでもない」
「ラーヂャの生きている世界では、よく人が亡くなるのでしょう?」
「別に俺たちは戦争をやってるわけじゃない。そうそう人は死なない」
 テンゲルはラーヂャの手から空のグラスを優しく取り上げると、次の一杯を注いで、今度はラーヂャの前のテーブルの上に置いた。ラーヂャは笑うのをやめて、テンゲルの目を見た。
「俺は基本的に自分の興味に従って動く。面白そうだと思ったことしかやらない。ハルトマノヴァーの話はちょくちょく聞いてたし、キツネの付き添いを頼まれた時も、その女見たさに行ってみたんだ。実際見て、面白そうな奴だと思った。裏社会の連中は、あの女の裏に隠れるでかい組織が何であるのかって、その話しかしないし、それを怖れているが、俺はそっちにはあまり興味がない。姿を現せば、それはそれで面白いのかもしれないが。俺はあの女を観察し続けたい。キツネの死因を一言で言うなら、俺の興味本位だ。俺が女を面白そうだと思った。それでキツネは死んだ」
 テンゲルはラーヂャの目を見つめたまま、優しく微笑んだ。
「ラーヂャが興味を持ってくれたから、私はこうして生きているのですね。私にはあなたのように強い人格を持つ人の心を癒す能力もないし、大抵そういった強い人は心の中を覗かせてはくれないけれど、こうして私がラーヂャのお話を聞くことでラーヂャの心が少しでも軽くなるのなら、命を救ってもらった甲斐があるというものです」
 そう言いながら、テンゲルは立ち上がると備え付けの固定電話のほうに向かった。
「せめて食事を一緒にできるくらいの時間はあるのでしょう?二人分、注文してもいいですか?」
「おう、ホテルもお前には上等なものを用意してるんだろう。楽しみだな」
 ラーヂャはそう返事をしながら、「テンゲルの瞳は、最近ますます色が薄くなったな」と思った。それが良い傾向なのか、その反対なのか、ラーヂャには判断がつかなかった。テンゲルが一度命を落としかけたのが、どのように作用したのかは分からなかったが、ラーヂャがテンゲルを救い上げて以来、テンゲルの髪も爪も伸びなくなった。もう十年以上経つのに、外見も何の老化も見られない。食事も睡眠も摂ってはいるようだが、どちらも習性で続けているだけで、本当は必要ないのかもしれない。しかしラーヂャには、テンゲルを医者に見せるという選択肢は考えられなかった。珍獣扱いされて、研究者の間をたらい回しにされて終わりだ、というのがラーヂャの見解だった。
 テンゲルはレセプションとの電話を終えると、ラーヂャのほうを振り返り
「どうかしましたか?」
と柔らかな口調で聞いた。
 ラーヂャは笑って
「どうもしねえよ。お前が生きてて良かったって、改めて思ってただけだ」
と答えた。


その名はカフカ Kontrapunkt 22へ続く


『Tenger, per sempre』 Agave (Hahnemuhühle) 20 x 27 cm、水彩


テンゲルは、ここから来たのかもしれない↓。笑



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