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その名はカフカ Kontrapunkt 20

その名はカフカ Kontrapunkt 19


2014年6月リュブリャーナ

 イリヤは職場の自分の仕事部屋の隣に物置のような小部屋を持っていて、金庫や金庫に入りきらない貴重品、重要書類などをため込んでいた。その小部屋だけは通常の清掃員ではなく、常に信用ある組織のメンバーに掃除をさせるよう努めていたが、側近などの上層部にさせるわけにもいかず、かと言って信用ならない新入りにもさせたくないので、自然とその小部屋の掃除はスラーフコの仕事となった。
 この日、スラーフコが小部屋の掃除を済ませ、時計を見ると、午後四時を回った頃だった。その小部屋から出るにはイリヤの仕事部屋を通過しなければならないため、掃除が終わるとイリヤが仕事部屋にいる限り、顔を合わせるのが常だった。この日も小部屋から出ると、イリヤが書斎机の近くに不機嫌な顔をして立っていた。彼特有の世界を小馬鹿にしたような笑みはすっかり影を潜めている。
 普段は言葉を交わすこともなくスラーフコは出て行くのだが、イリヤの落ち着かない表情が気になり、ゴランが連日欠勤していることを報告すべきか、新入りの下っ端のことなどイリヤの耳に入れなくてもいいのか、という迷いもあったことから、イリヤの傍で立ち止まり
「ドリャン、何かあったのか?」
と尋ねた。
 イリヤはまるでスラーフコがいることに今気がついたとでも言うようにスラーフコのほうを振り向くと
「なぜそのようなことを聞く?」
と苛立った声で言った。イリヤの言葉が終わるか終わらないかのうちに、書斎机の上の電話が鳴った。守衛からの内線だった。
 イリヤはいつもの癖でスピーカー機能で内線に応えた。
「どうした?」
「ボス、来客です。先週いらっしゃったお二人で。ええっと、お国はどちらでしたっけね?……ああ、そう、チェコね。約束はないそうですが、どうされます?」
 イリヤは意外そうな顔をすると
「しつこいな、一体何をしに来たんだ。出すものは何もないぞ」
とつぶやいた。
 スラーフコは自分が口を出すことではないとは思いつつも
「門前払いをする理由はないんじゃないか?もう一度、お探しの物はございません、と言って帰ってもらえばいいじゃないか。お前も言っていただろう、下手なことができない相手だと」
と言った。イリヤはスラーフコをじろりと見据えた。
「部屋の準備ができてない」
「守衛の向かいの応接室を使ったらどうだ。玄関の隣だから奥まで案内せずに済む」
 イリヤはまだ暫く迷っているようだったが、守衛に来客を応接室に案内しておくように指示を出すと、スラーフコに
「先にヴクをやれ。俺はもう少し時間を置いてから行く」
と言い、スラーフコがドアの外のヴクに指示を伝えてまたイリヤのところに戻ってきたのを怪訝そうに見つめた。
「マヴリッチ、お前も来るつもりか?」
「今日は側近がいないようだからな。誰かがついていた方がいいんじゃないのか。前回のように追い出されれば、それまでだが」
 イリヤはスラーフコの返事を聞いて「勝手にしろ」と言ったが、確かに一人であの嫌味な女に会うと思うだけで気が滅入るな、と思った。

 レンカとアダムが通された玄関のすぐ脇の簡易な応接室は、ある程度の広さはあるものの、中央に大きな丸テーブルとその周りに椅子が置いてあるだけで他には何の調度品もなかった。明かりもついていなかったが、庭に面した窓からは西に傾き始めた日の光が入って室内は明るかった。レンカとアダムは立ったままドアの横の壁を背にして待つことにした。最初にやって来たボディガードの若い男は、必要以上に話さないよう教育されているのか、話すのが苦手なのか、二人が応接室内にいることを確認しただけで何も言わずドアの外に待機した。
 暫くして、イリヤ・ドリャンがスラーフコ・マヴリッチだけを連れて入ってきた。レンカは「なんでまたこの男なのだ」と思いながらスラーフコに一瞥を投げたが、今のレンカにはスラーフコの同席は些末なことのようにも思えた。イリヤは部屋の奥まで進み、ちょうどドアの横の壁の前に立つレンカとアダムとの間にテーブルを挟むような位置に立った。スラーフコはドアを閉めると、ドアの前に留まり、レンカたちの右に少し距離を置いて並ぶような形になった。
 イリヤは随分と余裕のない表情をしていた。遣いに出した側近も秘書も戻らない、売りに出した盗難品は行方不明、となれば、来客を前にしてもこんな表情になってしまうのは当たり前かもしれないな、とレンカはイリヤを観察した。
 イリヤは
「どうぞ、お座りになって」
と椅子を勧めたが、レンカは
「このままで結構。時間は取りません」
と返した。そして、前回のように変に威圧的になることはないが、この男相手に馬鹿丁寧な話し方をする必要性も感じないな、と思った。
 イリヤは
「そうですな、貴女のお探しの盗難物はここにはないのですからな」
と言った。レンカはイリヤの引きつった笑いを見つめながら
「イリヤ・ドリャン、もう嘘をつく必要はないわ。私たちは前回の訪問時点であなたが盗難物を所有していたことを知っているし、数日前売りに出した盗難物が全てではないことも知っている。一つだけ、あなたが手元に残したものがある。そうでしょう?」
と冷静な声で言った。イリヤの顔から作り笑いが消えた。
「何を根拠に、そんなことを言っているんだ?」
「あの盗難物は、随分と几帳面な盗人に盗み出されたようで、彼らは盗難物の一覧表なんてものを作っていたの」
「そんなもの、信用できるか」
「一覧に載っている他の物はすべて揃っているのに、一つだけ欠けている。変でしょう?」
「……あんたらが、盗ったのか」
「約束を守ってもらえなかったからよ。私はあなたに支払うって言ったのに」
 レンカは一呼吸置くと、イリヤの目を見据えて続けた。
「念のため言っておくけど、今ここで私たちに危害を加えたとしても、あなたの手に盗難物は返らない。こちらの手に落ちたものは既にこの街から運び出されているわ」
「それで、あんたの言う最後の一つが俺のところにあったとして、どうしたいんだ?またいくらでも払う、とでも言うのか?」
「言わない。だってその証拠品は、あなたにとってお金とは引き換えにならない価値があるから」
 イリヤがレンカを睨み、レンカがそれを見返した。レンカはイリヤの目の中に失望の色を感じ取った。
「言っている意味が分からん」
「私に言わせたいの?それが何であるのか?言ってあげましょうか。それは内戦下で盗聴された電話の録音テープでしょう?そしてそこで話している二人のうちの一人はイリヤ・ドリャン、あなたよね。違う?」
「ヴクを呼べ」
 イリヤはレンカが話し終わるか終わらないかのうちに小さく叫び、スラーフコが動く前にボディガードの若い男が室内に姿を現した。しかしそのヴクという名の若い男は後ろ手にドアを閉めるとスラーフコの右隣に並んだだけで、何もしなかった。アダムはそれまでイリヤに向けていた警戒の目をヴクとスラーフコのほうへ移動させた。
 レンカはイリヤを見据えたまま再び口を開いた。
「ちょっと言わせてもらうと、今日私たち、ここに入った時に武装点検を受けていないの。それから運よく大きな窓のある部屋に通してくれたものだから、うちのスナイパーも喜んでるわ。あなたの背中が丸見えだって」
「はったりもいいところだな。あんたがお抱えスナイパーをリュブリャーナまで連れてきたという報告は入っていない。ヴク、何をしている、そいつらをどうにかしろ」
「動かないで。あなたは私たちが盗難物を頂戴したことも知らなかった。私たちが二人だけだって保証がどこにあるの?」
 これまでのレンカだったら、ここで皮肉っぽい笑みを演じていたのだろうが、今のレンカにはそんな演出も面倒だった。本物の笑顔で敵を打ち負かすというのは、そうとうな訓練を要するもののようだな、とハルトマン病院長とのやり取りを思い出しながら心の中でつぶやいた。
 レンカは表情のない目でイリヤを見つめながら言葉を続けた。
「あなたが隠している証拠品は、しかるべきところに提出したからと言って、それだけであなたが訴えられたり逮捕されたりすることはないと思う。差し詰め、変なところに渡って脅されるのが怖いのでしょう?それとも他の証拠品と合わせたら、どうなるか分からないってところなのかしら。グラーツの買い手も、あなたが当時サラエヴォで繋がっていた人らしいわね」
「戦犯の証拠としては取るに足らないものを、あんたはどうしてそんなに欲しがるんだ?」
「私たち、完璧主義者なの。手に入れると決めたものは、すべて手にしたいのよ。イリヤ・ドリャン、あなたはもう逃げられないの。出しなさい」
「ナスターシャ・フィリポヴナ、それは私が持っている」
 いきなり割り込んできたスラーフコの言葉に、室内の全員がスラーフコのほうを振り返り、彼を凝視した。自分が隠していた証拠品を持っていると主張されたイリヤか、13年前の女子大生だとは気が付かれていないと高をくくっていたレンカか、どちらがより驚いた顔をしていたのか、レンカには判断がつかなかった。そして今更ながら、美貌のヒロインの名前を偽名として選んだことを悔いた。
「マヴリッチ、お前、頭がおかしくなったのか?」
と呆然と尋ねるイリヤにスラーフコは
「私は賢くはないかもしれないが、頭は通常の人間と同じように機能しているつもりだ」
と答えた。イリヤは更に
「だが、ありえないだろう?」
と食い下がったが、スラーフコは
「くそ真面目なだけが取り柄の人間も、報われることもあるのだとだけ言っておく」
と至極真面目な顔で返した。
 スラーフコにマーヤから電話がかかってきたのは昨日のことだった。イリヤの金庫は古いダイヤル錠のもので、イリヤはマーヤの目の前で金庫を開錠したことはないものの、マーヤが隣の仕事部屋にいるときには何度か開閉していた。マーヤはそのダイヤルの回転する音で、暗証番号を覚えてしまっていた。マーヤはスラーフコに金庫の合鍵の隠し場所と暗証番号を教え、最後の盗難物を持ち出して渡すべきところに渡してほしい、真面目なあなたなら、きっと実行してくれる、と言った。スラーフコが「ドリャンがまだ盗難物の一部を残しているということを、どうやって知ったんだ」と聞くと、マーヤは笑って、「ボスが盗難物の購入者と電話で話しているのを聞いたの。ボスは私のことを目も耳も頭もないお人形さんだと思っているから何の警戒もしていないの」と答えた。
 スラーフコはジャケットのポケットから素早く小さな包みを取り出すと、レンカのほうに近づき、彼女の右手を取って
「さあ、ナスチャ、お持ちなさい」
と微笑みながら、レンカに包みを握らせた。レンカはあっけにとられて、スラーフコの顔を見つめた。
 呆然と立ち尽くしていたイリヤは、我に返ると
「ヴク、この木偶の坊、そいつらを何とかしろ」
と叫んだ。次の瞬間、ヴクとアダムがピストルをホルスターから抜き取ったのはほぼ同時だったが、ヴクが構えたピストルの銃口は、レンカでもアダムでもスラーフコでもなく、イリヤのほうを向いていた。イリヤは、口を大きく開けたまま、言葉を失ったようだった。
 スラーフコはドアを開けると、レンカとアダムを
「さあ、お急ぎなさい」
と言って促したが、レンカがドアの外に一歩出たところで、彼女の肩に触れ
「ナスチャ、やはり演じていない貴女がいい。どうか、そのままの貴女でいてください」
と言った。レンカは一瞬驚いた顔を見せたが、小さく微笑んで軽く会釈をすると、彼女の腕をつかんで引っ張っているアダムに続いて出口へ急いだ。
 スラーフコは、イリヤに向かって銃を構えたままのヴクに
「あと十五分くらい、その体勢で頑張れるか?客人がリュブリャーナを離れるにはそのくらいで充分だろう。私は先に出るが、お前も後で追いつけよ」
と言って、出ていこうとした。
 呆然と目の前の光景を眺めていたイリヤは、スラーフコがドアの外に片足を踏み出したところで、
「マヴリッチ、お前が……俺を、裏切るのか」
とかすれた声で、絞り出すように言った。スラーフコはイリヤのほうを振り返ると
「いくら私のような間抜けな人間でも、ここまで馬鹿にした使い方をされれば、いいかげん気が付く。私は十五年間、ひたすら雑用をし続けた。今回の盗難物の件も、お前は名誉挽回だ何だと言って私を起用したが、要は私のように勘の鈍い人間を置いて、お前が盗難物を持っていることが漏れないようにしたかったんだろう?これも、今日で終わりだ、ドリャン」
と答えて、その場を後にした。

 レンカは彼女の肩を抱えたまま大股で歩くアダムに小走りでついて行きながら、アダムは何か怒っているのではないかと心配になったが、エミルが待つ車が見えてくると、アダムはニヤリとして
「あの優男も、なかなかやるじゃないか」
と言った。
 運転席に座るエミルは、二人が車に近づいてくるのを見て即座にドアのロックを外した。アダムは助手席に座ってレンカがエミルの後ろの座席に座ったのを確認すると、エミルに
「出していいぞ。オーストリアに入ったら交代してやる」
と言った。
 エミルが車を発進させると、アダムはサイドミラーで外を見張りながら
「ナスチャ、とは、また随分と可愛らしい呼ばれ方をしていたものだな」
とぼそりとつぶやいた。レンカが口を開く前に吹き出したのはエミルだった。
 アダムはエミルをじろりと睨むと
「何がおかしい?」
と聞いた。エミルは満面の笑みで
「アダムさんの、そのあからさまな焼きもち、嬉しいなあと思って」
と答えた。アダムは再び外に視線を戻し、鼻をふんと鳴らした。
「お前はそんなことで喜べるのか、おめでたい奴だな。それならもっと喜ばせてやろうか。今日レンカはな、事もあろうにヴァレンティンから、主人公が自分のほうから惚れて結婚話までこぎつけた女を裏切るという凄まじいストーリーの小説を借りて戻って来たんだ」
 レンカは驚いて顔をアダムのほうに向けた。
「あなた『春の水』、読んだことあるの?」
「もう三十年以上前だがな。純真な十代の少年だった俺は主人公にひどく失望させられたのを今でも覚えている。そんなものを握りしめて戻って来るもんだから、俺はお前がとうとう俺を見捨てるつもりで最後の挨拶に来たのかと思って、危うく腰を抜かすところだった」
「よく言うわ。自信満々で一生俺と一緒にいろよ、みたいなこと言ったくせに」
 レンカが最後の言葉を言い終わるや否や、エミルは間髪を容れず
「もう結構です、お腹いっぱいです。続きは僕のいない時にしてください」
と言い放ち、一気に速度を上げた。


その名はカフカ Kontrapunkt 21へ続く


『Jarní vody v němčině』 DFD 21 x 22 cm、鉛筆、色鉛筆



【地図】


【おまけ】
こちら、私の所有するツルゲーネフ著『春の水』チェコ語版。

この本、六年くらい前にプレゼントしてもらって読みました。
贈り主(カーロイと同い年の人。笑)は、ツルゲーネフは『猟人日記』だけ読んだことがあるらしく、この小説もきっと似たような内容だろうと思って「KaoRu、ロシア文学好きだよね」と選んでくれたのですが、読後にあらすじを説明したら「ほえ~」ってなってました。笑


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。