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その名はカフカ Kontrapunkt 19

その名はカフカ Kontrapunkt 18


2014年6月リュブリャーナ

 レンカがクロムニェジーシュからリュブリャーナまで約七時間かけて車で送り届けられたのは、正午を回った頃だった。運転手は終始必要最小限の発言しかしなかったので、道中レンカも何も話さず、昨日一日に起こったことを思い返していた。
 昨夜、ヴァレンティンはレンカを客間に案内すると「僕は仕事があるからこれで失礼するけど、この階にあるものは何でも好きに使ってもらっていい」と言って上階へ消えた。一人残されたレンカは客間の隣にシャワー室があるのを発見し、まずそこで汗を流すことにした。シャワーを終えて客間に戻ると、中央のテーブルに軽食が置いてあり、『アダムに叱られたくなかったら食べなさい』というメッセージが添えてあった。これでは小学生のお留守番ではないか、と少し憤りながらレンカは食事を済ませ、玄関ホールを挟んだ客間の向かいのキッチンで皿を洗い、それでも手持ち無沙汰なので、客間の本棚を物色した。本棚は大きく立派な造りで世界の名作が揃っており、ドイツ語に翻訳されたものが大部分を占めていた。ドストエフスキーはほとんど揃っていたが、今はもっと軽いものを読みたいと思い、更に背表紙に目を走らせると、ツルゲーネフの『春の水』が目に付いた。チェコ語訳では読んであるが、ドイツ語訳で読んでみるというのも面白いかもしれないと思い、手に取った。アダムとエミルが働いているであろうこの時に何を悠長なことを、という思いも頭の中をよぎったが、その思いを振り払い、読書に集中してみることにした。案の定、外国語での読書はすぐに眠気を誘い、そのままソファに横になって眠りに落ちた。
 ふと人の気配を感じて目を開けると、耳元で「今から一時間後に君を送る車が家の前に来る。サシャからの護衛は昨日のうちに帰した。僕は今すぐここを出るけど、玄関の鍵は気にしないでいい。本は気に入ったのなら持って行っていいよ」というヴァレンティンの静かな声がした。レンカは瞬時に起き上がったが、既にヴァレンティンはいなかった。時計を見ると、午前四時だった。
 無口な運転手の運転するAudiの後部座席に座って物思いにふけっていると、七時間はあっという間に過ぎた。目的地にあまりに近い位置で降ろされるのも良くないかな、と思っていると、運転手はレンカのその思いを汲み取ったかのようにリュブリャーナの滞在先のマンションから二百メートルほど離れた細い車道の路肩に駐車した。
 運転手はぼそりと
「お気をつけて、ハルトマノヴァーさん」
と言った。レンカも
「ありがとう」
とだけ言って、車を降りた。
 車道から続く細い小道を通ってマンションの建物に入り、時間稼ぎをしたい時の常で、エレベーターを使わず最上階まで階段で上がった。そして玄関の鍵を開け、ドアをそっと押した。マンションの中央の大部屋にはアダムだけがいて、レンカを見ると立ち上がったが、近づいてはこなかった。
 レンカはアダムに会えた安心感で、思わず小脇に抱えた本を取り落としそうになったが、ドアを後ろ手に閉め、本を抱え直すと、数歩部屋の中へ進んで止まった。
 レンカはアダムに最初に何を言ったらいいのか分からなかった。まず謝ればいいのだろうか?怒ればいいのだろうか?白々しく仕事は首尾よく運んだのかと聞けばいいのだろうか?謝るとしたら何を?仕事中に飛び出して行ったことだろうか。怒るとしたら何を?アダムはレンカに最初に何を言うのだろう?やはりレンカが勝手な行動を取ったことを怒るのだろうか。もしアダムが謝るとしたら、一体何を?
 レンカは微かに口を開くと
「あの人に、どうして聞いてくれなかったの?あの二日間に、何か関係があるって知ってたのに」
と言った。言ってから、違う、私はアダムを責めたいんじゃない、と思いながら唇を噛んだ。
 アダムは少し困った顔をして口を開いた。
「お前とあいつの、デリケートな問題かもしれんと思ったからな」
「変なこと想像しないで」
「想像したくないから、聞かなかった」
 そんなこと言ってる時点で想像してるわ、と言いそうになって、レンカは黙った。アダムは困った顔のまま言葉を続けた。
「何が起こったとしても、あいつ自身はお前に悪いことをするわけがない、そう思ったんだ。それくらい、俺はあいつを信頼している。それじゃ、駄目なのか」
 レンカはうつむいた。確かに、自分自身が思い出せないことを他人に「あの時起こったのはこういうことだったんですよ」と説明されても納得しなかっただろうし、結局自分は同じ道に迷い込んでしまっていたのではないかと思う。ヴァレンティンに問いたださなかったからと言って、アダムがレンカの心よりもヴァレンティンとの関係を優先した、ということにはならないのだろう。
 レンカは僅かに顔を上げると、再び口を開いた。
「私昨日、一日中言われ続けたの。アダムみたいに素晴らしい人が私みたいな人間を保護して大切にしているのが信じられない、私はあなたの庇護を受けるに値しないって。私もそう思う」
「なぜお前は、言われたことを鵜呑みにするんだ?」
「あなたが最も信用している人たちが言ったのよ?」
「レニ、お前が昨日聞いてきたのは所詮、他人の意見だ。俺自身の意思がまるで無視されている。お前が俺に傍に置いてくれと言ったのは事実だが、俺がお前を心配し始めたのはそれより前だ。単に俺がお前を傍に置きたいからそうしている、とは誰も発想しないんだな。不思議なもんだ」
 レンカは再び本を取り落としそうになって、腕に力を入れ直した。そして、アダムの顔を正面から見つめた。アダムは落ち着いた表情をしていた。今自分はどんな顔をしているのだろう、アダムが不安にならないような顔だといいな、とレンカは思った。
 レンカは自分でも心配になるほど覚束ない声で再び話し始めた。
「私、今の自分のままじゃ嫌なの。外部の人に対してはすごく強い態度で、ほとんどそれが自分自身だって思い込んじゃってるけど、私、本当はすごく弱い。あなたに支えてもらってなきゃ、何もできない。もう、こんな自分は、終わらせなきゃいけないの」
 アダムはレンカの言葉を聞きながら、数歩レンカのほうに近づいて、また立ち止まった。レンカは、まるで「このくらいなら近づいても逃げられないかな」とでも思っているみたいだ、と少し悲しくなった。
 アダムはレンカの目を見ながら口を開いた。
「お前が外部の奴らに見せている横柄な態度は最初、俺たちが考えた作戦だっただろう?そういう演技でもしなけりゃ、お前はああいう奴らを前にして立っていられなかった。俺自身はお前のあの強気の態度は板に付いたし、外面としては悪くないとは思っているが、別にそれを永遠に続けなけりゃいけないとも思ってない。お前がそういう演技をやめても大丈夫なくらい強くなりたいとか、俺の支えが必要な自分が情けないから変わりたいとか言うのなら、それも悪くないだろう、やってみろ。その結果、俺のことが必要なくなったら、今度は俺をお前の傍に置いてくれ。いいだろう?」
そう言うと、アダムはニヤリと笑った。
 レンカは先ほどまで取り落としそうだった本をいつの間にか、まるでそうでもしていなければ倒れてしまうとでも言うように、両腕できつく抱きしめていた。
「どうして?どうして、あなたは、そんなに……」
そこまで言って、レンカは自分が何を言うべきか、何を言いたかったのか、分からなくなった。
 アダムは笑ったまま答えた。
「どうしてそんなに俺がお前の傍にいたいのか、と聞きたいのか?それはお前が俺にとって、この世で一番大事な人間だからだ。俺はお前のいない人生はもう考えられない。それにも理由がいるのか?悪いが俺がお前を大切に思う気持ちを解説できる理由はない。理屈っぽい奴が多いな、俺の周りには……おい、なんでそこで泣くんだ」
 アダムはぎょっとした顔をして、レンカの両目から溢れ出した大粒の涙を見つめた。レンカは涙を拭おうともせず
「知らないわよ。私はどんなに悲しくても辛くても、泣いたことがないから、きっと違う理由で泣いてるんだわ」
と吐き捨てた。そして、急に強くなった自分の語気に自分で驚いた。

 エミルは寝室のベッドに座って、二人とも僕がここにいることを忘れているのか、僕には聞かれても構わないと思っているのか、それとも僕に聞かせたいとでも思っているのか、と半ば呆れながら仕事をしていた。
 ティーナにコピーを持って行けと言われた書類は、今回の盗難品の全てを網羅した一覧だった。盗難者たちは律儀にもこのような一覧を作って、キツネが買い取ったほうの盗難物に混ぜていたらしい。アダムがグラーツから持ち帰ってきた盗難物は、一封の封筒に収まっていたリエカのものよりずっと量が多かったが、それでもレンカが帰ってくる一時間ほど前に目を覚ましたエミルは、その一時間の間に全てを点検し終わっていた。
 このまま別の雑用を続けるか、まるで何も聞いていなかったような顔をして大部屋に顔を出すか、と迷っていると、ベッドの端に転がしておいたタブレットの画面が何かの信号を受け取ったのが目に入った。引き寄せて見てみると、ルツァが裏口の防犯カメラに向かって手を振っている映像が映し出されていた。ルツァは「俺はこの建物に住んでいるわけじゃないから」と鍵を持ちたがらず、だからと言って正面のエントランスから頻繁に出入りして目立つのも嫌だという理由から、誰も使っていない建物の裏口に防犯カメラを設置し、そこに誰かが立つとエミルのタブレットが反応するように設定した。更にルツァとエミルはタブレット上で裏口の鍵を開閉できるシステムを作っていた。
 エミルはルツァを招き入れるべく裏口の鍵を開錠してから、思い切り息を吸い込むと
「レニー、アダムさーん、仕事です!」
と叫んだ。


その名はカフカ Kontrapunkt 20へ続く


『Lenka』 DFD 21 x 29,7 cm、鉛筆、色鉛筆



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