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その名はカフカ Kontrapunkt 18

その名はカフカ Kontrapunkt 17


2014年6月リュブリャーナ

 カーロイから遣わされた迎えの一行にペーテルを託し、諸々の処理を協力者たちと済ませ、エミルがやっとリエカからリュブリャーナへ向かって出発できたのは午前四時頃になってからだった。エミルは一睡もしないまま車を走らせ、午前六時頃、事前にルツァに指定されたリュブリャーナ郊外の空き家の横に車を乗り捨てると、バスでリュブリャーナの滞在先のマンションに向かった。
 このマンションに滞在したのは五日ほど、そして空けたのはたったの二晩だというのに、自分の家に帰ったかのような安心感を覚えながら、エミルは玄関のドアを押した。マンションの中央の大部屋では、やはりアダムが一人でエミルを待っていた。
「ご苦労だったな。お前、寝てないんだろう、すぐ休むか」
と聞くアダムに、エミルは首を横に振って
「寝れません。昨夜はちょっと僕でも、さすがに重かったです」
と答えて荷物を置くと、シャワー室に行き、手と顔だけ洗って、また大部屋に戻り、ダイニングテーブルに座るアダムの向かいに座った。
「結果的にティーナさんに助けてもらっちゃったし、あまり役には立てませんでしたね」
と言うエミルに、アダムは
「何を言ってるんだ、お前がキツネをいち早く見つけ出して奴に目を付けていたからこそ、この結果なんだ。99%はお前の功績だ」
と主張した。
 エミルは、アダムさんはなんだかんだ言って優しい人なんだよなあ、と思いながら話を続けた。
「ティーナさん、お忙しくてご本人はあまり協力はできないって話じゃありませんでした?」
「六月に入って、仕事のほうもけっこう時間の融通が利くようになったと言っていた」
「仕事って、何されてるんですか」
「あいつ、ワルシャワの防衛大学の教員なんだ。今、大学は試験期間なんだろう」
 アダムの真面目な顔を見る限り、冗談ではなさそうだ、とエミルは心の中でつぶやいた。犯罪組織の重役であろう人物が、将来ポーランドという国家を守るために研鑽を積んでいる若者を指導している、という構図に、エミルは呆れたらいいのか笑ったらいいのか分からなかった。
 アダムはエミルの顔を観察しながら続けた。
「レンカはどうしたのか、聞かないんだな」
「昨日電話した時点で、アダムさんと一緒にいないのは分かってました。レニには電話がかからないし、僕がアダムさんに電話するといつも途中でレニと話したり、レニがアダムさんに何か言ったりするでしょう?それがなかった。でも、アダムさん本人が言いたくないことは、僕は基本的に聞かないことにしています」
 エミルの返事に、アダムはしばし考えるような顔をしたが、再び口を開いた。
「お前、寝られないと言ったな。ちょっと長い昔話をしてもいいか?これはお前が俺たちのところで働くにあたって、最初から知っておくべき話だったにもかかわらず、俺が怠慢だったせいで話さなかった話だ」
「アダムさんが怠慢だというのには賛成しかねますが、僕が知っておくべき昔話には多いに興味があります」
「この昔話は俺がもともとチェコの警察官だったというところから始まる。面白くなさそうだろ?」
「いえ、ものすごく面白そうです」
 エミルの返事に苦笑したアダムに、エミルは「どうぞ始めてください」と言いながらキッチンからグラスだけを二つ持って来て、ダイニングテーブルの上のピッチャーからアダムが朝淹れたのであろうアイスティーを注いだ。
 アダムはエミルの動きを目で追いながら、話し始めた。
「俺が就職したのは1989年の秋で、その後すぐにビロード革命だった。共産政権っていうのは、国家が最大の悪人だということだとも言える。つまりそれがなくなって民主主義だ自由だ、となると増えるのは民間の犯罪だ。国外からのマフィアも急増して、それまでにはなかった殺人やら強盗やらのオンパレードで、くだらない理由で起こる残虐な事件の山を前にして、俺は自分の仕事に意義が見いだせなくなった。そんな中、91年に始まった旧ユーゴスラヴィアの内戦に興味が湧いた。それで92年にUNPROFORの要員に志願したんだ」
「UNPROFORって、国連保護軍(United Nations Protection Force)でしたっけ?それってつまり軍隊ですよね?警察の人が志願できたんですか?」
「軍人だけじゃなく、一般からの応募もやってたんだ。一般、とは言え誰でも採用されるわけじゃない。軍人じゃなけりゃ、警察の人間が多かったんだろうな。とにかく俺は採用されて、チェコ警察に籍を置いたまま、内戦まっただ中のボスニア・ヘルツェゴヴィナに派遣された。そこでカーロイと知り合った。あいつもあの頃、ハンガリーの警察官だった。きっと違う環境で出会っていたら仲良くなりっこないほど趣味は違うんだが、まさかサラエヴォまで来て婚約者がチェコ人でチェコ語を話すハンガリー人に会うなんて思わないじゃないか。国連の作った軍だから、やはり英語圏の人間が一番多かったが、俺はカーロイと一番仲良くなった。そして、そこでティーナにも会った。あいつは本物の軍人だ。ポーランド軍から派遣されていた。軍人ではない俺たちとは仕事も配属も違ったが、やはり鼻が利くんだろうな、俺たちから"東"の匂いを嗅ぎつけたのか、暇があれば俺たちのところに来てくだらない話をしていくようになった」
 そこでアダムは一旦言葉を切ると、エミルが注いだアイスティーに口をつけ、また続けた。
「内戦を和平に導くために発足したUNPROFORだったが、やはり犠牲者も多く出たし、国連も維持費の工面に苦労しているという話をよく聞くようになった。そんな中、93年にハーグに旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷(International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia、以下ICTY)が設置された。本格的に機能し始めたのは94年だが、カーロイがそっちに動かないか、と言い出したんだ。警察官の俺たちはICTYで検察官として仕事をした方がより使い物になるんじゃないかと言うんだ。そこで願書を出してみたんだが、志願者は山のようにいたんだな、簡単には採用されない。それでもカーロイは採用されたんだ。あいつは何でもやりたいと思ったことがいつでも問題なく実現できる、そういう人間なんだ。あとは簡単だ、あいつが推薦して俺も採用となった。それからティーナも誘った。カーロイも俺も、あいつなしではこの仕事はしたくないと思った。これが95年の一月ぐらいのことだ。そこで俺たちは完全にICTYに雇われる身となり、三人とも国での仕事は辞職した」
 エミルはアダムの話を聞きながら、昨夜聞いたティーナの「私たちは警察でも軍隊でも正義の味方でもない」という台詞を思い出していた。ここまでの話の流れで行くと、三人とも立派な「正義の味方」だ。
「ICTYの検察官はいくつかの班に分けられたが、俺たち三人は同じ班に一緒にいた。そこで出会ったのがサシャだ。奴はGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)出身で、それだけ聞くと軍人の中の軍人みたいなのを想像すると思うが、サシャはあれだ、文化人っていう印象だな、会ってみると。とにかく別の環境下では全く接点のなさそうだった四人が出会って意気投合したわけだ。俺たちは歳も近い。カーロイが64年生まれで、俺が65年、ティーナが66年、サシャが67年で、ちょうど一年ずつ違う。検察官の仕事は主にハーグでの戦犯証拠品の分析と、現地での証人の尋問だ。証人は戦地だったバルカンにだけいるわけじゃない。当時戦地に派遣されていて今は他で働いているという場合はヨーロッパ内である限り、直接話を聞きに行った。いろいろゴタゴタしたが、クロアチア紛争もボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争も95年内に終結したから、その後は現地での調査が一番目玉の仕事となった」
 そこでアダムはまた少し間を置いた。エミルは「きっといかに簡潔に話すか、考えているのだろうな」と思った。淡々と話してはいるが、その行間に想像できないほどたくさんの出来事が起きていたのだろう。
「96年に入って、班は違ったが、新しい検察官が加わった。ドイツ人だが、幼少期に両親と一緒にルーマニアから西ドイツに亡命した人間で、名はヴァレンティンと言った」
「その人は、初めて聞く名前ですね」
「言わないようにしていたんだ、お前にも、レンカにも」
「レニにも?」
「それが、今なんでレンカがここにいないのか、という話につながってくる」
 エミルは「一体今から何を聞かされるのだろう」と少し緊張し始めた。
「ヴァレンティンはとにかく目立つ奴だった。遠くにいても、その人間自体が発光している感じだ。特に目が光を受けなくても光っているように見える。だから俺たちの目にもすぐついて、カーロイとティーナはまだ話したこともないあいつのことを貴公子だ、王子だ、金星の使者だ、と言って笑い物にしていた。そうしているうちに、ヴァレンティンのほうが俺たち四人に近づいてきた。話してみると、そうとう頭の切れる奴だと分かった。頭の良さはお前と同じくらいかもしれないが、あいつは性格が悪い。だから冗談もきついが、話していると飽きない。そして、そう時間を置かないうちに、あいつは俺たちを勧誘しはじめた」
「勧誘?」
「あいつは、自分はもともと検察官として真面目に働くためにICTYに来たんじゃない、優秀な人間を見つけて自分の仲間にするためにやって来たんだ、と言うんだ。俺たち四人が揃っている時はたわいもない話をするだけなんだが、勧誘はまず一人一人別々に始めた。最初は誰か一人でもなびいてくれればいい、と思ってたんだろうな。奴の主張はこうだ、善とか正義を実現するには正面から行くだけが手段じゃない、ICTYだって、常に資金不足が悩みの種だ、それなら社会の裏に回って手っ取り早く大金を動かして最終的に世界のためになることに活用すればいい」
「それで、皆さんはその話に乗ったんですか?僕、アダムさん見てると、すごく納得いくんですよ、最初警察官になって国連保護軍に入ってその後ハーグの検察官になるっていう流れが。でもその後、オーラのある人に勧誘されて犯罪組織に入りましたって言われても、ちょっと信じられない。って、今の僕がそんなこと言える立場じゃないけど」
 エミルの反応にアダムは苦笑し、また続けた。
「俺たちだって、最初は取り合わなかった。また冗談を言っているんだろうとしか思わなかった。ただ、ICTYもいくら金があっても足りなくらいの状態だったのは事実だ。ああいう機関は参加国がどれだけ資金提供するかにかかっているからな。それに、仕事はかなりの精神力が必要で、俺たちは常に疲弊していた。現地で戦争を体験した人間に聞き取り調査をするっていうのは辛いものがあるしな。ジェノサイドの証拠収集としての集団墓地の掘り返し調査は、言葉にできないものがある。終わった後も、調査した人間はそうとう長いこと死の匂いをしょい込むことになる。消えないんだ、死臭が。俺はあれで家族に決定的に嫌われたんじゃないかと思っている。娘が生まれた92年から国外にばかりいたから、それだけが原因とは言えないかもしれないが」
 エミルはアダムの表情を観察しながらふと、失踪した両親を思った。一瞬黙ったアダムは、気を取りなおしたように続けた。
「ヴァレンティンも、常に自分の正論を押し付けてきてたわけじゃない。ある時、俺のところに来て言うんだ、俺たち四人には中心が欠けてるって。何を言い出すかと思ったら、奴の言い分はこうだ。Károlyカーロイの頭文字はK、AdamアダムはA、ティーナの本名はKrystynaクリスティーナでK、サシャの本名はAlexandrアレクサンドルでA。全部並べると「K、A、K、A」で中心にValentinヴァレンティンのVが入れば「カフカ」になる。だから自分をあんたら四人のリーダーにしろ、と。それで俺は「おいおい、俺たちは鴉かよ」って言ったんだ」
「あ、あの頭のほうが黒い鴉ですよね、kavkaって」
「あいつ、間違えたんだ。あいつはスラヴ語圏のいくつかの言語であの鴉がkavkaカフカという名前だということを知らなかった。あいつが思ってたのは作家のKafkaカフカのほうだが、きっと俺と話してるうちに思いついて考えながら言ったんだろうな。あいつは発音のほうに気を取られていた」
「ドイツ語は外来語でない限りVは〔f〕の発音ですからね」
「後にも先にも、これだけだ、あいつが俺の前で間違いを披露したのは。それで俺はあいつのことを時々嫌味ったらしくエフと呼ぶようになった。しかしヴァレンティンはその自分の間違いが気に入ったようだった。「いいじゃないか、僕たち五人は鴉だ、夭逝した作家よりしぶとく生きていける」と言ってな」
 アダムは楽しそうな笑みを浮かべた。
「屁理屈もいいところだな、しかも俺たちよりだいぶ若いのに俺たちのリーダーになる、と言い出す。生意気な奴だが、俺たちがすぐにあいつのことを気に入ったのも事実だ。そして、いつの間にか俺たち五人のことをカフカと呼び始める同僚も出てきた」
 エミルは話を聞きながら、五月に弾薬庫の側でキツネがレンカに向かって言った台詞を思い出していた。「レンカ・ハルトマノヴァーはカフカのために存在している」。あの時はエミルも何を意味しているのか理解できず、さして重要視していなかった。
「相変わらずなかなか先の見えない仕事に疲弊しながらも俺たちはICTYで働き続けた。ヴァレンティンも俺たちを落とすまでは粘る気になったんだろう、そのまま残っていた。そして97年末、ティーナが襲われたんだ」
 急な話の展開に驚いたエミルは瞬時に顔を上げ、アダムの目を見つめた。
「しかもバルカンではなく、ハーグでだ。道端で何者かにガソリンか何かを浴びせられ、火を付けられた。ヴァレンティンが最初に気がついて助けた。それでも背中は大きく火傷を負って、お前も気がついただろう、頭皮の一部も焼けたのか、そこから生える髪は未だに色が違う。犯人は捕まらなかったし、大して調査もされなかった。まるでここでは犯罪は起こらないことになっている、とでも言うかのようにうやむやにされて終わった。それで、俺たちも、何て言うんだろうな、今まで張りつめていた神経の糸がぶっつり切れてしまったような感じになって、順々に辞表を出した。そして、ヴァレンティンについて行くことにしたんだ」
 ピッチャーの中の氷は全て溶けてしまって、残りのアイスティーも既に冷たくはなかったが、エミルは氷を足すのも面倒で、そのままアダムと自分のグラスに注ぎ足した。
「ICTYを出る前に、ヴァレンティンは一部の上層部と交渉してきた。自分たちはこれから裏社会に降りると明言した上で、これからもICTYのために裏で動くことを約束した。だから、こちらの活動の邪魔はするな、と。俺たちは公的機関の後ろ盾のある犯罪組織のようなものになった。俺たちは非合法なことはするが、非人道的なことはしない、という方針で活動を始めた」
「確かに僕たち、薬と人は売ってませんね」
「98年からはとにかく信用ある人間に連絡を取った。昔の部下だったり同僚だったり、バルカンでいくと調査で協力的だった証人だったり、いろいろな人間に。声をかける基準は俺たちの考えに賛同しているか、そして秘密が守れるかだ。そいつらが今、協力者と言ったり情報屋と言ったりしている奴らだ。ヴァレンティンは未だに"部下"という言い方が抜けないが。サシャの場合は特殊だが、たいていは本業を他に持つ人間だから、俺は部下という言い方はあえてしない。もしそういう連中全員を組織の一員と見做したら、お前は約五千人のメンバーを抱える組織の中枢部で働いているということになる」
「僕は未だにレニとアダムさんとしか一緒に働いてない気がしてるんですけどね」
 そこでエミルはふと気がついたかのように
「それで、レニはどこまで知っているんですか?そのヴァレンティンさんのことは、知らないんですよね?」
と聞いた。アダムは一つ大きなため息をついて答えた。
「あいつは俺たちがどういう経緯で今の仕事をしているかも知っているし、俺たち四人にリーダーがいることも、五人が裏社会のごく一部でカフカと呼ばれていることも知っている。ただ、その俺たちの中心人物が誰なのかも、その名前も知らない……ことになっている」
「アダムさん、その言い方、理解できません。つまり知ってるんですか?」
「ヴァレンティンはとにかく目立つ。あいつは完全に気配を消すこともできれば、盗人顔負けの技術でどこにでも侵入できる。ただ、姿を現すとなると、話は別だ。あいつは公的なところにも交渉に行かなきゃいけないこともあるから、顔を売るのは本当に必要最小限に留めておきたい。レンカはもともとカーロイが用意したバイト生だった。だからレンカには姿を見せない、ということで合意したんだ。しかし、あの二人は、あの頃会っているんだ。レンカが覚えていないだけで」
「その説明でも、よく分かりません。質問を変えます。レニはアダムさんと本格的に仕事を始めた時、自分の上司が誰だか、知りたいとは言わなかったんですか?」
 エミルの質問に、アダムは少し悲しそうな目をして
「言わなかった。あの時のあいつには、そんなことはどうでもよかった。生きて、呼吸をしているのに、必死だったんだ」
と答えた。エミルはそれ以上そのことに関して尋ねることができなくなって、手元のグラスに目を落とした。そしてゆっくり立ち上がると
「やっと眠くなってきました。ティーナさんから宿題があるけど、起きてからでいいですか?」
と聞いた。アダムは
「もちろんだ。寝たいだけ寝ろ。今まで起きてたのがおかしいくらいだ」
と答えた。


その名はカフカ Kontrapunkt 19へ続く


『Kavčin střed』 Bamboo (Hahnemühle) 21,5 x 30 cm、水彩



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