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その名はカフカ Kontrapunkt 17

その名はカフカ Kontrapunkt 16


2014年6月リエカ

 キツネがクロアチアの国番号から始まる番号と通話した後検索した住所は、何度か綴り間違いをしてやり直してはいるものの、一カ所に特定できた。それは午後八時にやっと営業を開始するバーだったが、エミルはキツネがそのバーに赴く前に誰かと接触する可能性も考えて一人の協力者に監視に当たってもらっていた。しかし監視役からは定期的に「キツネは海辺をふらふらしているだけで、約束まで時間潰しをしているようだ」という報告が入るだけだった。
 エミルはキツネが今回は単身で送り込まれた、というのにも驚いていたが、レニを始末するのに失敗した罰ゲームか何かかもしれない、と思った。そもそもキツネが所属する組織がこの盗難騒ぎに興味を持つということ自体が不思議だった。どうあれ、キツネが海辺で遊んでいる間は邪魔される心配をせず工作ができる、とエミルは今回のアジトにしている宿屋を用意してくれた二人の協力者と共に件のバーに急いだ。
 今回、作戦の主導者になるにあたって、エミルの大きな心配事の一つに金銭管理があった。これまで回数は多くはないものの、アダムに「交渉してこい」と札束を持たされ、買収に走らされたことがある。これに慣れるには時間がかかった。今回はそういった策が必要になるかどうかも分からずリエカに送り込まれたため、細かい相談もしておらず、バーとの交渉はどうなることやら、と考えていると、一人の協力者が「旦那、心配なさらず。銭のほうは、ジャントフスキーさんから任されてるんで」とエミルにニヤリと笑いかけた。エミルも笑い返してみたが、このような年長者に「旦那」と呼びかけられるのは違和感以外何も感じないな、と心の中で独り言ちた。
 その後、一人でバーに入っていった協力者は五分と経たないうちに満面の笑みで外に出てきてエミルともう一人の協力者を手招きした。次いで協力者はバーの向かいの家にも交渉に行き、無事バーの入り口を見張ることのできる上階の部屋を借りてきた、と言った。あまりの手際の良さにエミルも驚いたが、「裏社会が存在する限り、現金という物質もこの世から消えはしないのだろうな」とも思った。
 バーの開店一時間前に計画した準備をすべて済ませ、エミルはバーの向かいの家の二階の窓際に陣取っていた。店の中には開店前からペーテルと協力者を一人座らせている。新たにカメラを仕掛けるよりも効率がいいだろうと、エミルは店の防犯カメラと自分のタブレット端末を連携させて、それで店内を見張ることにした。自分の右側にバイポッドで支えたライフルを置いているので、普段はベルトの右側に装着しているハンドガンは左に移動させていた。キツネが盗難物の所有者と何時に約束しているか分からないから、どれだけ待たされるか見当もつかないな、と思った矢先に、キツネの監視役から「キツネが移動を始めた」と連絡が入った。午後九時を回った頃だった。

 キツネが教えられた住所をもとにたどり着いたバーは、狭い路地の一角にあり、入ってみると狭い店内にはある程度の客が集まっていた。それでも交渉相手に指定されたカウンターの席は空いており、キツネはそそくさと席に着いた。
 ラーヂャが目的物を購入するのに充てるよう用意したと言ってテンゲルに渡された封筒の中には、キツネの予想をはるかに超えた金額が入っていた。ラーヂャはキツネがこれを持って逃げる、という心配はしなかったのだろうか、という考えが頭をよぎったが、それを見越してテンゲルのところに自分を送り込んだのかもしれないな、と思った。あのような人物に微笑みながら手渡されては、誰もそれを使って卑怯なことをしようとは画策できないだろう。
 しかし早く終わらせたいものだ、とキツネはだんだん気持ちが落ち着かなくなってきているのを感じた。このような薄暗い店で、夜しか営業していないというのだから、通っている客たちも闇で動いている人間が多いのではないか。そんなところでこんな大金を抱えて座っている、と思うと、キツネは自分がひどく危険な罠の中に落ちていこうとしているような気がしてならなかった。
 キツネが落ち着きなく腕時計で時間を確認していると、一人の男が入口のほうからキツネに近づいてきた。

 防犯カメラからは手元までは見えないが、エミルはこの数秒間で、盗難物の所有者がキツネと接触し、取引が終了したのだという確信があった。目的の物は今、確実にキツネの手中にある。そしてその取引を見届けた瞬間、誰かが自分の座っている部屋のほうに向かってくる気配を感じ、左手をベルトに装着したハンドガンに伸ばした。協力者は全員配置についていて、エミルのところに顔を出している暇はないはずだった。タブレットからは目を離したくはないとは思ったものの、エミルは銃を抜き取ると同時に後ろを振り返った。
「君、エミル君だね?」
と部屋の入口に立つ人影が言った。右肩にライフルを下げた小柄でショートカットの中年女性だった。ダークブラウンの髪の一部だけが金髪で、照明を使っていない薄暗い部屋の中でも光っているように見えた。エミルは一瞬考えるような顔をして
「もしかして、ティーナさん?」
と言った。ティーナは大きく微笑むと
「あら、嬉しいわね、そういう反応されると有名人になった気分になっちゃう。初めまして」
と言いながら顎をしゃくってタブレットを示した。エミルは急いで視線を防犯カメラが映し出す映像に戻した。
 ティーナは足早に窓際に座るエミルに近づいてくると肩からライフルを降ろしながらエミルのライフルに一瞥を投げ
「いいなあ、Schmeisserなんか使ってるのか。なんて世間話を君としたらきっと楽しいんだろうけど、ちょっとお預けだね。エミル君、今すぐカーロイの坊やを店から撤退させてくれるかな?このままだと、見たくないものを見ることになるわよ」
と言った。エミルはタブレットを見つめながら
「あ、ちょっと、遅いかも、です」
と答えた。

 この夜、ペーテルはバーの入口から向かって右手の奥に座っていた。その席は裏口への通路も近く、カウンター客を正面から観察できる位置だった。店内の対極になるカウンターの後ろの奥の角には協力者が一人座っていて、事前には分かっていなかったものの、ちょうどキツネを正面と後ろから見張れる態勢となった。
 作戦は簡単だ。キツネが盗難物の取引を終えたら、エミルの合図を待ってキツネに近づいて声をかけ、隣に座る。相手の隙を突いて盗みを働くのはペーテルの得意とするところで、内心楽しみにしていた。エミルはペーテルの演じる小生意気な女の子が気に入らないみたいだったが、大人しい女性を演じていたら、それはそれでこんな時間に一人でこんないかがわしい場所に来ているのを訝しく思われるのではないか。でも昼間よりは素直になってみようかな、キツネが油断してくれれば何でもいいのだ。そんな風に考えを巡らせながら、ペーテルはキツネを観察していた。
 目に見えてそわそわと落ち着かないキツネに一人の男が近づき、カウンターの下で何かが交換されたのが見て取れた。男が受け取ったぶ厚い封筒が一瞬目に入り、明日男が目覚めたら封筒の中には札束の代わりに木の葉が詰まっている、という情景が頭に浮かび、ペーテルは笑いをこらえた。しかし目の前のキツネには、そんなずる賢さを披露する余裕は全くなさそうだった。キツネはこちらが心配になるほど神経質になっている。取引は終わって、目的物は手に入ったのいうのに、彼のこの落ち着きのなさは何なのだろう?
 男が店から出て行き、エミルの合図はまだかな、と思っていると、また違う男が店内に現れた。日が沈み外の空気は涼やかになっているものの、狭い店内は人いきれで気温も湿度もまだ高かった。それにもかかわらず、新たに現れた男は帽子を目深にかぶって革の手袋をしていた。
 男がキツネに背後から近づくと、キツネの腹部に手を回すのが見えた。次の瞬間、キツネの頭ががくりと垂れ下がった。キツネは一声も上げなかった。男はキツネのジャケットの内ポケットから大きめの封筒を抜き取ると踵を返し、出口へ向かった。照明を最小限に落とした暗い店内でも、ペーテルには男の手が何かの液体でてらてら光っているのが見て取れた。ああ、キツネの血なんだな、と思った瞬間、ペーテルは鼻孔の中いっぱいに血の匂いが広がるのを感じた。
 すべてが一瞬の出来事だったのに、ペーテルの目には皆がスローモーションで動いているかのように見えた。

「ここは私がやるから、今すぐ坊やを迎えに行ってあげて」
とティーナは半ば叫ぶように言ってエミルを追い立て、無線に向かって
「今出てくるのが持ってるから。武装してるわ。いい?目的はあくまで物を手に入れることだからね」
と指示を出すと、エミルの座っていた位置から椅子を除け、膝を立てて窓の外に向かってライフルを構えた。
 エミルは部屋を飛び出すと階段を駆け下りながらペーテルに話しかけた。
「ペーテル君、まだ店内では僕たち以外は気がついていないね?事前に教えた裏口から今すぐ外に出られるかな?表には回らないで。今ちょっと、店の前は取り込み中だから」
 ペーテルは何も言わなかったが、エミルはイヤホンの向こうの空気から、ペーテルが移動を始めたのを感じた。
 バーの向かいの家からの出口は表玄関しかない。エミルが外に出ると、ティーナの連れてきた協力者たちがキツネから盗難物を奪い取った男を取り押さえているのが目に入ったが、エミルは速度を緩めることなくバーの裏口へ向かった。
 裏口から出てきたペーテルはエミルを見つけると、エミルに向って一足飛びに走ってきてエミルに抱きついた。
「ねえ、あれ、あいつ、死んじゃったのかな」
と興奮気味に言うペーテルに、エミルは
「うん、きっと、助からない」
と答えて、ペーテルの背中に手を回した。外から見たら、すごい綺麗なお姉さんに抱きつかれているように見えるんだろうなあ、と思いながらエミルはペーテルの背中に手を置き、やっぱり触り心地は男だな、と頭の片隅でぼんやり考えた。

 ティーナが協力者たちを引き連れてアジトの宿屋にやってきたのは午前零時を過ぎた頃だった。一足先に戻ってきていたエミルは一行を出迎え、ティーナを自分が借りている部屋に案内した。
 ティーナが何を好むか分からなかったので、とりあえずキッチンにあった紅茶を入れて勧めると、ティーナは嬉しそうな顔をして
「ありがとう」
と言った。そしてエミルが向かいの席に座るのを待って
「坊やはどうしてる?」
と聞いた。
「さっきまですごい興奮状態だったんですけど、アルコールを入れた白湯を飲ませたらやっと眠ってくれました。本当はこんなもの、こんな精神状態の人に飲ませちゃいけないのかもしれないけど。あと一時間くらいでカーロイさんから迎えが来ることになっているので、あとはあちらに任せます」
「あの子、今いくつだっけ?」
「ええと、十九かな。今年二十歳になるんじゃないですかね」
「そうか、大きくなったねえ。私が初めて目の前で人が殺されるのを見たのも、同じくらいの時だったなあ」
 やはり反省すべきは自分なのだろうか、とエミルは思った。ペーテル自身に危険が及んだわけではないものの、結局起きてほしくないことが起きてしまった。
 暫くエミルの表情を追っていたティーナは
「全然、君が後ろめたく思うことじゃないんだよ。あの子がレンカの周りを勝手にうろちょろし始めたときに止めなかったカーロイの責任だわ。カーロイは全て計算ずくだろうから、遅かれ早かれこういうことにはなってたの。きっとずっと前から自分の息子の才能を見抜いてて、こっちの世界に引き込もうと思ってたのよ。エミル君はカーロイに利用されたんだと思えばいい」
と言って、エミルの淹れた紅茶をすすった。
 エミルは気を取り直して、ティーナに話しかけた。
「あの、ティーナさんは今日、アダムさんから僕の応援を頼まれて、こちらに?」
「違うわ。私たちは最初にベオグラードで証拠品を盗み出した一味の一人を追って来たの。そいつ、かなり危険って言うか、いかれた奴だっていう話だったから、リエカに向かった君と接触するかもしれないっていう心配もあったのは確かだけど。アダムのエミル君への信頼は絶対だから、他に応援を頼むっていう考えはなかったと思う。それから、その盗人も購入者とは連絡が取れなくなってたらしくて、私たちもリエカに入ってからその盗人を見失ってた。だから最終的に、すべての仲介地点になってくれたのがあのキツネ面だった。殺されたあいつだけが、購入者と連絡を取れていた」
 エミルは思わず顔をしかめた。つまりはキツネがいなかったら、誰一人として盗難物の所有者も、盗難物自体もどこにあるのか分からなかったのだ。考えれば考えるほど、キツネの背景にいる人物が謎めいた存在に思えてくる。
「その盗人は、キツネと交渉しようとは思わなかったんですね」
「頭に来てたんじゃないの。自分たちは約束された額を手にしてないのに、未払いの購入者は他に売り払って大金を手にしたって言うんだから。手っ取り早く奪い返して、他に売りつけようと思ったんでしょうね」
「それで盗難物を取り上げた後、ティーナさんはその盗人、というか殺人犯をどうされたんですか?」
「物を奪った時、うちのが奴の頭を強く殴りつけちゃったから、私たちが立ち退いた時は道端で伸びてたわ。警察が来る前に目を覚ましちゃったら、ちゃっかりずらかるんでしょうね」
 エミルは何も言えなくなって、ティーナの顔を見つめた。ティーナは腕組みをすると椅子の背に身を任せ、エミルを見返した。
「あのねえ、私たちは警察でも軍隊でも正義の味方でもないのよ。あの店だって、合法的に営業してるかどうかは分からないから、キツネに関して通報したかどうかも怪しいところだわ。ましてや殺されたのは、ついこの間、レンカを始末しようとした奴なのよ?私たちが気を回すところじゃ全然ないの。分かる?」
 結局、自分はまだまだ甘い、ということなのだろうな、とエミルは思った。弾薬庫の側でキツネの後ろに控えていたのが自分ではなくティーナだったら、キツネはあそこで終わっていたのかもしれない。
 黙ってしまったエミルに構うことなく、ティーナは話を続けた。
「私が連れてきた武装した連中はもう帰らせたわ。私ももうちょっと休ませてもらったら出る。さっきアダムに電話して決めたんだけど、ここで奪い取った証拠品は、私が預かる。君が一人でリュブリャーナまで運ぶのはちょっと危険だと思うから。ただね、一つだけコピーを持って行ってもらうと便利だと思うものがあるの」
 そう言うとティーナはシャツの胸ポケットから四つ折りの紙を出し、エミルの前に広げた。
「下の事務室でコピーを取ってもらってもいいけど、君みたいな人だと、紙のコピーなんていらないのかな?」
「写真撮らせてもらいます。物理的な貴重品は少なければ少ないほどいいので」
 ティーナはエミルが書類を写真に収めたのを見届けると、それを胸ポケットにしまって、エミルに微笑みかけた。
「ねえ、レンカ元気?私、最近会ってないの」
 突然レンカの話を始められて、エミルは何を言っていいのか分からなかった。レンカには一日半、会っていない。その間に何かがあったことは感じていたが、自分はそれが何なのか具体的には把握していない。しかしティーナのこの問いかけは、挨拶なのだ。なぜ自分は瞬時に「元気ですよ」と答えることができないのだろう?それとも、ティーナは意図的に不意打ちをかけたのだろうか。
「アダムさん、何か言ってませんでした?」
「やっぱりアダム、何か変だったよね。私も聞けなかった」
 暫く二人は見つめ合っていたが、ティーナが先に笑った。
「アダムのところにいるはずなんだから、レンカは、大丈夫なのよね?」
「ええ、きっと」
 ティーナはエミルの目を見つめたまま、話したくてしょうがないといった表情で身を乗り出した。
「レンカね、私が初めて会った時はもっと違った雰囲気の子だったの。大人しいと思ったら、慣れてくるとけっこう話すの。しかも頭いいんだな、あの子。私たちなんてかなり年上なのに、一緒にいてすごく楽しそうだった。それがある時を境に急に表情が硬くなっちゃったの。私が久しぶりにプラハに戻ってみたら、なんて言うか、醸し出す空気が違っちゃってる感じだったわ。あの時は異常なくらい痩せちゃってたし。私ね、レンカがアダムと一緒にいるからこんなに無表情になったんだって、よく冗談言うんだけど、本当は逆だと思うんだよね。こんな風になっちゃったから、アダムはレンカを自分のところに置いとくことにしたんじゃないのかって」
 エミルはティーナの言葉の勢いに、「この人は本当にレニのことが好きなんだな」と圧倒された。ティーナは一呼吸おいて、エミルに尋ねた。
「エミル君から見て、レンカってどんな人?」
 エミルは笑いながら即座に
「初めて会った時、レニは"眠れる英雄"だと思いました。今でもそう思ってます」
と答えた。
「へえ、眠り姫じゃなくて、英雄なんだ」
「レニは良くも悪くもお姫様の印象じゃないですね」
「じゃあ、エミル君は英雄が目覚めたら、どうするの?お役御免になるかもよ?」
 エミルはティーナの質問に得意げに伊達眼鏡を押し上げて
「それでも、どこまでもついて行きます。そして僕は目覚めた英雄にも有効活用してもらえる自信があります」
と答えた。
 ティーナは満足げな笑みを浮かべると
「私、君のこと気に入っちゃったわ。また今度、遊びに行くね。今日はこの辺で退散するわ」
と言って立ち上がり、部屋の隅に置いてあったライフルを掴んでドアのほうへ向かった。
 エミルも立ち上がったが、ティーナの背中が「見送りはいらない」と言っているかのようだったので
「お気をつけて」
とだけ言って、暫くそのまま立っていた。


その名はカフカ Kontrapunkt 18へ続く


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