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その名はカフカ Kontrapunkt 16

その名はカフカ Kontrapunkt 15


2014年6月クロムニェジーシュ

 チェコ南東部のズリーン地方にあるクロムニェジーシュは小さな街ではあるものの、1998年に大司教宮殿とその庭園、そしてその近くに開設されている花の庭園がユネスコの世界遺産に登録されたこともあり、国内や近隣諸国から多くの観光客を集めていた。素晴らしい観光地だと褒めたたえられているのにもかかわらず、レンカは幼い頃の家族旅行で来たこともなければ、学校の行事等で訪れたこともなかった。この日レンカが電車を乗り継いで小さなクロムニェジーシュ駅に着いた時には午後七時を回っていて、観光の名所は既に閉館している時間帯だった。レンカは「観光はお預けだな」と思いながら、自身の目的地に向かって歩き出した。
 目的地に向かって歩いている、とは言え、具体的に住所を知っているわけでも、手元に地図があるわけでもない。完全に自分の意識の深いところが「こっちだよ」という指示を出すのに従って歩いていた。レンカは物事がどのように展開するのか分からない時、よく自分の直観を頼ったし、それはレンカを裏切ることはなかったが、エミルに一度、「レニは直観が危険を知らせてくれると、その危険のほうに吸い寄せられてしまうから、それなら頼らないほうがましかもしれない」と笑われたことがある。
 庭の広い住宅、と言うよりも邸宅が並ぶ一角に差しかかり、さらに進むと他の家々とは少し距離を置いた、敷地自体はあまり大きくないものの、上品な造りの一軒家にたどり着いた。
 ああ、やっぱりここを知っているな、と思いながらレンカはところどころに花を咲かせた蔦の這わせてある柵の向こうの家を見上げた。窓が開いていて、誰かが在宅なのは分かったが、それが自分が会いに来た人物だったら、自分にとって良いことなのかどうか、分からないなとも思った。ただ、大きな不安は感じていなかった。リュブリャーナでの仕事が始まって以来続いていた不安定な気分は、この日の昼過ぎにハルトマン病院長の事務室を出た時、かなり軽くなっていることに気がついた。
 家を囲む柵と同じ木材を使った門扉まで回って、インターホンを押す前にレンカは深呼吸をした。その深呼吸が終わらないうちに、門扉が開錠された音がした。もう逃げられないんだな、と思いながら、レンカは門扉を押し、後ろ手に閉め、庭の中の玄関までの小径をゆっくり進んだ。玄関の前まで来るとドアは内側からひとりでに開き、まるで「さっさと入れ」と催促されているみたいだ、とレンカは思った。
 レンカはドアの隙間から家の中に入り、ドアを閉めて顔を上げた。広めの玄関ホールは明るさを押さえた照明がついていて、レンカの立つ位置から二メートルほど奥に、昨日グラーツに現れた、琥珀色の瞳を持つ男が腕を組んで立っていた。
 男は笑ってはいなかったが、怒っているわけでもないようだった。
「昔カーロイが、義妹はすごく勘のいい子なんだと自慢していた。ここまでたどり着けるとは、さすがだね」
「嫌味のつもり?これ見よがしに、バレエのチケットをクロムニェジーシュの消印で送ってきたくせに?」
「13年前、君はこの家に来た時も出た時も、意識を失っていた。そして滞在中は敷地の外には一歩も出なかった。やはり称賛に値する」
 男は言葉を切ると、レンカの顔を見つめた。
「今君は、いつも敵を目の前にしている時とほとんど同じ顔をしている。僕に会っても、ここに来ても、何も思い出せないってことなのかな」
 男の言葉に、レンカはただ首を横に振った。
「そう。何にしても、僕は君にあのとき何が起こったのかは教えるつもりはないし、君に悪いことをしたつもりはさらさらない。どうせ僕が何を言っても、君は信じないだろうけど。僕に何か非があるとしたら、最後に君を意図的に眠らせてしまったことくらいだろうか」
「……それは、記憶を消してしまうような催眠術かなんかなの?」
 レンカの言葉に、男はおかしそうに笑いを浮かべた。
「面白いことを言うね。残念だけど、僕は魔術師でも何でもないんだ。睡眠薬を飲ませただけなんだけど、まさかそのままあの二日間の記憶がなくなってしまうなんて、僕だって予想していなかった」
「どうして、そんなもの飲ませたの?」
「君が僕にすごく良く懐いてしまって、帰りたくないって言いだしそうだったから」
「嘘よ」
そう言って、レンカは男を強く睨みつけたが、あまり効果はなさそうだな、と思った。
 男は笑ったまま、再び話し始めた。
「あの件に関しては、アダムもカーロイも責めないでもらいたね。彼らはほとんど何も知らないんだ。君も覚えていると思うけど、ちょうどあの頃からサシャもティーナもプラハを空けることが多かった。カーロイは大抵いたけど、あの二日間はたまたまブダペストに帰っていた。僕が眠っている君を、あの頃僕らがプラハで借りていた事務所に送り届けた後、玄関でプラハに戻って来たカーロイと鉢合わせしたんだ。例のごとく僕は何も言わずに消えた。そしてカーロイは事務所で眠っている君を発見した。可哀そうなのはアダムだね、自分はプラハにいたって言うのに、君の"誘拐事件"に関しては何も知らずに過ごしていたんだから」
「その後、誰もその話をしなかったの?カーロイも、アダムも……あなたも?」
「僕からはもちろん何も言わなかった。僕が何も言わないから、彼らも聞かなかった」
 信じられない、レンカはそう言いたかったが、言葉にならなかった。男はレンカの表情を観察しながら続けた。
「僕たちは、忙しいんだ。悪いけど君の個人的な心理状態に付き合っている暇はない。君はあの2001年のバイトで仕事をした気になっているのだろうけど、あれは僕らにとっては骨休めだった。プラハならアダムのおかげでかなり安全だし、これからの自分たちの身の振り方を考えようって言ってね。だからもともと、僕は単なる短期バイト生の君には、一切姿を見せない予定だった。君と僕が会ったのは、まさに事故だったわけなんだけど、なんとも都合よく、君は忘れてくれた。アダムが君を傍に置きたいって言いださなければ、そのまま終わっていたはずだったんだ」
「私、アダムがいなかったら、死んでたのよ?どうしたら……そんな言い方ができるの?」
 レンカが微かに震える声で絞り出した言葉に、男の顔からは笑いが消えたが、それで表情が優しくなったわけでもなかった。
「知っている。ねえ、ストレス社会の先進国において、どれだけの割合の人間が摂食障害に陥っていると思う?君はその中の一人だったんだ。もしかすると、原因はあの二日間ではないのかもしれない」
「話を変な方向に持って行かないで。関係があるに決まっているじゃない。それからもう一つ言わせてもらうと、チェコがEUに加盟したのは2004年、EUに入る前のチェコが世界で先進国扱いされていたとは思えないわ」
「君は屁理屈のこね方も話の腰の折り方も僕に似ている。似た者同士はそりが合わない。どんなに話し合っても迷走するばかりだ」
 レンカは、ただ男を見つめた。もう睨み続けようという努力さえもしなかった。自分は意識の深い部分でこの人が敵ではないことを知っている、と思うと同時に、それが悔しかった。五月のオペラ座でも、昨日のグラーツでも、男の登場に関しては、直観も何の警告も寄こさなかった。
「私、あの四人があなたのような人をリーダーにしているのが、まったく信じられない」
 レンカが悔し紛れにそう言うと、男は再びうっすらと笑った。
「君はあの四人が大好きだからね。実際、彼らは素晴らしいよ。僕は本当に運が良かった、彼らのような仲間を手に入れられて。確かに僕の人格は君には受け入れがたいものだろうけれど、彼らと違って僕には君を可愛がる理由がない。君はあの四人が僕のために働いているのが信じられないって言うけど、一体君に何が分かるって言うんだい?僕らがあの頃あそこバルカンで何を見たか、何を体験したか、君に想像がつくだろうか。僕らがなぜ今もこんなに団結していられるのか、甘えん坊の君に、理解できるだろうか」
 男は一旦言葉を切ると、レンカを見据えた。レンカは、まるで品定めするかのような目だな、と思った。
「そして僕が長いこと理解できないのがアダムだ。彼は君の何を見ている?」
「……アダムは、私が可哀そうなのよ」
 レンカのつぶやくような言葉に、男は一瞬、レンカから目をそらしたが、再びレンカに視線を戻して続けた。
「繰り返すようだけど、13年前、僕が君をここに連れてきた時、君が意識を失っていたのは僕のせいじゃない。もし君が記憶を失ったのが、僕の飲ませた薬との相互作用だったのなら、半分は僕の責任だ。しかし、君がいつまでもあの出来事に留まって先に進もうとせず、アダムのお荷物であり続けようとするのなら、僕は君にアダムの傍から今すぐ消えてほしい」
 言葉の責めるような強さとは裏腹に、男の目は優しい表情をしていた。レンカは「一体あの時、何があったんだろうな」と初めて本気で知りたいと思った。むしろ「思い出せないなら思い出せないで、それでいい」と思い続けていた13年間は、結局自分に嘘をついていただけなのかもしれない、とも思った。
 レンカはおもむろにジャケットの右ポケットに手を入れると、IMCOのライターを取り出した。そして男のほうに差し出し
「これ、あなたのでしょ?あの後、目が覚めたらスカートのポケットに入ってたの」
と言った。男は呆れた顔をして
「君は後生大事にこんなものを残していたのか?」
と聞いた。
「持ってたら、何か思い出せるかもしれないと思ったの。使う機会もほとんどないから、新品同様よ。返すわ」
「君は何か誤解しているようだ。それは僕が君にあげたわけでも貸したわけでも、ましてや押しつけたわけでもない。君が僕から取り上げたんだ。タバコは体に良くないって言って。おかげで断煙に成功した。それに関しては感謝している」
 男の返事に、レンカは口を開けたまま男の顔を見つめた。
「……こんなもの、いくらでも買えるじゃない」
「その辺の使い捨てライターと一緒にしてもらっては困る。君は知らないかもしれないが、その色とデザインは既に廃版になっている」
 レンカは、当時の自分が出会ったばかりの大人にそんな図々しい態度を取ったということが信じられなかった。あの頃は確かに今とは比べ物にならないくらい気楽な人生を送っていた。しかし近しくない人への礼儀は心得ていたし、当時も人に心を開くのに時間のかかる人間だった。
「さっきも言ったけど、僕たちは似ているんだ。屁理屈をこねたり、人の揚げ足を取ったりして会話を楽しむ、そんなところが。それとも君はそんな自分も忘れてしまったのかな。あれ以来、あまり話さない人になってしまったみたいだからね。あの時の君は、僕とくだらない話を延々とし続けるのが、すぐに気に入ってしまったようだった」
 人が覚えていないと思ってからかっているのだろうか、と思いながら、レンカはライターを握って差し出したままだった右手を下ろした。
 男は微かに微笑んでレンカに近づき、彼女の左腕に軽く右手を回して
「おいで。疲れただろう」
と言うと、家の奥へ連れて行こうとした。
「いいわ、私、そんな迷惑をかけようと思って来たんじゃない」
「あのね、こんな時間に訪ねてきた君を玄関先でお説教しただけで追い返したなんてアダムに知られたら、彼に叱られるのは僕なんだ」
「……やっぱり、誰かに私をつけさせてるの?」
 レンカの言葉に、男は笑って
「ああ、すごいのが来ている。サシャに頼み込んだみたいだね。何にしても、アダムが目の前の仕事を放り出して自ら君を追うほど盲目じゃないことが分かって安心した」
と楽しそうに言った。そして
「僕はこの家には一年に一回立ち寄ればいいほうで、ほとんど使っていないから何もないけど、休んでいってもらうには不自由はないだろう」
と言いながら客間の扉を開いてレンカを中へ促した。
 レンカは男の横顔を見ながら、ためらいがちに
「ねえ、あなた、名前は?」
と聞いた。男は更に楽しそうな笑みを浮かべると
「君はアダムにそんなことも聞かずに飛び出してきてしまったのかい?」
と聞いた。そしてレンカのほうへ顔を向けると
「あの四人は本当にたくさんのあだ名を僕につけてくれたんだけどね。アダムは皮肉を込めて、僕をエフと呼ぶことがある」
と笑いながら言った。


その名はカフカ Kontrapunkt 17へ続く


『Agnus Dei』 Bamboo (Hahnemühle) 21 x 29,5 cm、水彩



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