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その名はカフカ Disonance 2

その名はカフカ Disonance 1


2014年8月クラクフ

 ティーナが会議室のドアを開けると同時にカーロイは素早く立ち上がり、ティーナが後ろ手にドアを閉めるのを見届けてから、いつのも朗らかな笑顔を浮かべて彼女を抱擁した。ティーナも嬉しそうに笑って、カーロイの背に手を回した。
「ご足労様だわね」
「移動した距離から言えば、君も私も大した違いはないだろう」
「あなたのほうが百キロくらい長いわ。それに国境を二つも跨いでる」
 そんな言葉を交わしながら、二人は大きくOの字を描くように楕円形に並べられたテーブルの傍らに隣り合って腰を下ろした。
 首都のワルシャワからは三百キロメートルほど南下した位置にあるポーランド南部の街クラクフは歴史ある街として知られ、歴史的建造物が立ち並ぶ旧市街がユネスコの世界遺産に登録されていることもあり、多くの観光客を集めていた。しかしこの日、旧市街の一角にある、昔は市の施設だったという建物の中の会議室に集まったティーナとカーロイに、観光をしようなどという考えは微塵もなかった。
 まだ八月下旬ではあったが、朝から雨が降り続き気温も上がらず、午後二時を回ったところだというのに、窓の外は薄暗かった。ティーナは左手に椅子を回してカーロイのほうへ体を向け、口を開いた。
「お義兄さんとしては、どんな心境なのかしら」
「君はその話題から始めるのかい?」
 カーロイの返事に、ティーナは勢いよく身を乗り出した。
「当ったり前じゃない。アダムったら、本当に羨ましいわよね。この歳で十五歳も年下なんて、そうそう落とせるもんじゃないわよ」
「君も品性を疑われかねない表現をする人だね。他に言い方があるだろう。レンカの幸せを一番に願っているのは君だと思っていたんだが」
 笑顔を崩さず話すカーロイに拍子抜けしたのか、ティーナは再び椅子の背もたれに上体を戻した。
「なんだか、おかしな話になっちゃったわよね。あの子をハルトマンと結婚させたのは、当のアダムでしょう?」
「君には何度も説明したはずだ。あれは地位の獲得に過ぎない。”病院長の配偶者”という役職をもらい受けただけのことだ。より仕事を安全にするためにね。病院長自身も、レンカと結婚した気は毛頭ない」
「その辺のことは、とっくの昔に理解したつもりだけど。それなら、なんであの二人は今頃そういうことになるのよ。もう十三年もずっと一緒にいるのよ?」
「レンカのほうは、私も理解不足だから何とも言えないが、アダムは、そうだね、誰かさんに気を使っていた、と言ったところだろうか?」
 そこまで言うと、カーロイは一旦言葉を切り、視線をティーナから少し逸らした。
「そろそろ出てきたらどうだね。盗み聞きとは趣味が悪い」
 カーロイがそう言うと同時に、二人の背後から音もなく人影が現れ、ティーナの右隣のテーブルの上に軽やかに腰を下ろして、椅子に座る二人を見下ろした。
「君がこのあと何を言うのか、胸を高鳴らせて待っていたんだけどね。カーロイに感づかれるなんて、僕もまだまだ修行の余地がある」
と楽しそうに言うヴァレンティンに、カーロイも笑いながら
「君の気配を感じたわけじゃないよ。君が私たちを呼び出したって言うのに姿を現さないから、もう来ているに決まっていると思ったまでだ」
とヴァレンティンの顔を見上げて言った。
 ヴァレンティンはテーブルの上の、カーロイがティーナへの土産として持ち込んだトカイワインに目を落とした。
「君は、ティーナには花束を贈らないんだね」
「喜んでもらえないものを贈ってもしょうがないだろう」
「こんなもの、ポーランドでも手に入るんじゃないのか」
「本場で買ってきてもらうってところに、意味があるのよ」
 軽口をたたいた後、三人とも黙った。一瞬の沈黙を置いて、ヴァレンティンが最初に口を開いた。
「世間話に花を咲かせたい君たちには悪いんだが、早速本題に入ってもいいかな?」
「アダムとレンカの話は単なる世間話とは言い難いけど」
「いや、同じだ。同じどころか、話し合ったところで君たちには何の解決すべき問題も残っていない。彼らは君たちの気遣いなんて必要としていないし、大きなお世話だろう」
「同感だ。では、その本題というのを聞かせてくれるかね?」
 そうカーロイが言うと、ヴァレンティンはテーブルに両手をついて、体を少し二人のほうへ傾けた。
「では、始めさせてもらう。君たちはサシャの言うことを、どのくらい信用している?」
「ちょっと、いきなり変なこと言わないでよ。仲間割れさせようとでも企んでるんじゃないでしょうね?」
 ティーナの反応に、ヴァレンティンは方眉を上げると同時に上体を起こし、腕を組んだ。
「ティーナ、君は時々アダム以上のせっかちだ。いくつになっても血の気が多すぎる。君は六月のリエカの件でも、当初あの証拠品の購入者を自分たちの手で始末してしまおうと計画していたんだろう?」
「あなたが言ったのよ?あの男がレンカを片付けろっていう指示を受けて私たちの周りをうろうろしてるって。だから、始末するかどうかは別として、店から引きずり出して痛い目に遭わせてやろうと思っていたのは事実だけど。私たちが手を出す前にベオグラードのあいつがひょっこり現れるなんて、こっちとしても想定してなかったわ」
「君のペーテルへの心遣いには感謝しているよ」
 そうカーロイが言うと、ティーナはカーロイをじろりと睨み
「嫌味な言い方ね。間に合わなくて申し訳なかったわ」
と言い放ち、ヴァレンティンに視線を戻した。実際、六月のリエカでは、ティーナがエミルのところに出向いた時には「ペーテルの目の前で自分が連れてきた協力者とキツネの間で暴力沙汰になるかもしれない」という注意をするつもりだった。まさか自分たちが見失っていたベオグラードの盗人に先を越されるなど、想像もしていなかったし、その盗人がどのようにしてキツネに辿り着いたのかも、未だに謎だった。既に二ヶ月以上経っているが、ティーナはカーロイに自分から積極的にその話を始めることができないでいた。
 ヴァレンティンはティーナの表情を観察しながら、再び話し始めた。
「話が逸れたね。僕は別に君に反省してもらいたくて言ったわけじゃない。結局目的のものは手に入ったんだ。改めて言うまでもなく、僕は君たち四人の各々のやり方を尊重しているし、信頼している。いろいろと環境が許さない中、動いてもらえて感謝している」
 ヴァレンティンの言葉にティーナは表情を和らげ
「それで?サシャの話を、したかったのよね?」
と言った。ヴァレンティンも小さく微笑むと両手の指を組んで片膝に回し、話を続けた。
「率直に言うと、サシャは僕たちに真実を伝えていないと思う。伝えていないと思う、と言うか、伝えていないはずなんだ。それは決して僕たちを騙すためではなく、僕たち、特に君たち三人を危険に晒さないためなんだろう。そうやって、僕たちに”おかしな気”を起こさせない予防線を張っているんだ」
「おかしな気、というのは、私たちがサシャ救出大作戦だとかそういった類のものを企てることをサシャが怖れている、ということかい?」
 そうカーロイが聞くと、ヴァレンティンは更に大きな笑みを浮かべた。
「まさに、それだ。十三年前、サシャが僕たちと一緒にいられなくなって以来、彼の状況を僕たちはどう把握している?」
「2001年、昔GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)の一員だったサシャを頼った反体制派の活動家の国外脱出を手助けしたことにより、サシャ自身もロシア国内では罪人となり、サシャはイギリスに亡命。しかし依然、ロシアから命を狙われるという危険に晒されている。……君はこの中に嘘が含まれている、と言うのだね?」
「それどころか、僕らがまだICTY(旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷)で働いていた頃にサシャが言っていた”元GRU”というのも真実ではない。95年時点で、サシャは二十八歳だ。そんなに若くしてGRUを”卒業”してICTYで働く?そんなこと、あの機関が許すだろうか?彼は現役のGRUメンバーでありながらICTYで働いていたんだ」
「……つまり、サシャはGRUの仕事の一環として、つまりはICTYの中でスパイ行為を働くため派遣されていた、と言いたいの?」
 ティーナは大きな目をますます大きく見開いて、ヴァレンティンを見据えた。にわかに信じがたいが、ヴァレンティンがサシャに関してこんなひどい冗談を言うだろうか、と判断に迷っているかのような表情だった。
 ティーナとは対照的に、カーロイは落ち着いた顔のまま
「私は、サシャには直接聞いたことはないが、そういうことではないかとは思っていた」
と言った。ティーナは勢いよくカーロイのほうを振り返った。
「どうして何も言わないのよ」
「言ってもしょうがないじゃないか?この世の誰一人として他人の人種や国籍、それまでの経歴に文句をつけたり中傷したりする権利はない。ましてや件の組織はれっきとしたロシアの国家機関だ。それに、どこで誰のために働いていたとしても、サシャが素晴らしい人物であるという事実に、変わりはない。所属している組織の名を教えてくれていただけでも評価すべきだと思う。そして、サシャが私たちと共にICTYを辞職し、共に歩んでいくことを選択した、それは事実であり、彼の気持ちにも偽りはない。そうだね?」
「もちろんだ。サシャがGRUの一員でなくなったのは、まさに98年のICTY辞職の時点であるはずだ」
「それでは、君はサシャの現状の何を疑っている?」
 カーロイの質問を聞きながら、ヴァレンティンは少し悲しそうな笑みを浮かべた。
「なぜ、サシャは生き続けているのだろう。参謀本部のやり方としては、甘くはないか?サシャは98年時点で抹殺されていてもおかしくなかった。実質、GRUにとっては裏切り者なのだからね。しかし、サシャは2001年まで僕らと行動を共にしていて、その間に彼個人を狙ったような危険な事件は起こらなかった」
「つまり、サシャは、あちらとは切れていなかった、ということなの?」
 ヴァレンティンは目を見開いたままつぶやくように尋ねるティーナに視線を移すと
「サシャは、手放してしまうには、あまりに優秀な人材なんだ。その後、反体制派の活動家を助けるという一大事を起こしても、それでもまだ『戻って来てくれ』と懇願されるほどに」
と優しく言った。
 カーロイはヴァレンティンの表情を追いながら
「そして君には今、この件に関して何か計画があるんだろう?」
と尋ねた。ヴァレンティンは再びカーロイのほうに視線を戻し、話を続けた。
「僕は、サシャに百パーセント僕のために働く存在になってほしい。今までも、困った時の神頼みと言わんばかりに、君たちはサシャに頼ってきた。つまり、サシャ抜きでは僕たちは完璧ではないし、逆にサシャが完全にこちらの人間になれば、僕たちは怖いものなしだ。そして、サシャをこちらに呼び戻すことが実現できれば、君たちの働き方だって、変わるかもしれない」
「別に私は『サシャなしでは中途半端な仕事しかできないから転職しよう』などという考えで今の事業を始めたわけではない」
「カーロイ、お洒落な君は自分を誤解しているんだ。君は家具屋のオヤジとしてだけで満足して生きていける人間ではない」
「君の失礼な物言いには慣れているが、あれも冗談半分で成功できる分野ではないことくらい、分かっていてほしいものだね」
「それに関しては十分理解しているつもりだし、僕は君に会社をたためと言っているわけじゃない。もう少し、そっちの事業の活用方法を探ってみてもいいんじゃないかと提案しているんだ。それは、ティーナ、君に関しても同じことで、表の顔は保ち続けていてほしい。サシャがこちらへ戻ることで、君と君の家族の安全は、より保障されたものになるのではないかと思う」
 そう言うと、ヴァレンティンはティーナのダークブラウンの髪の間で光る一握りの金髪に目を落とした。
「君は何かと覚えられやすいからね。正直、あまり表立って危険なことをさせたくない」
「これでも何度か染めてみようとは思ったのよ。でも全然色が乗らなかったの」
 ティーナはそう言いながら口の端で笑った。そして
「カーロイと違って、私の場合は仕事を辞めるのは難しくないわ。アカデミックな世界で上に昇って行こうっていう野心もないし、学校側としても私の代わりくらいならいくらでもいるって思っているんじゃないのかしら」
と続けた。ヴァレンティンは少し困ったような顔をして
「ティーナ、今まで僕は何度も君の役職を利用させてもらった。より安全に生きていくためにも、今のポジションが君にとって最善の選択のように思えるが、もちろん最終的には君が決めることだ」
と言った後、また楽しそうな笑みを浮かべた。
「それに、今の僕たちは五人だけじゃない。僕たちの顔として外に出て行ってくれる人間が、もう用意されているじゃないか」
「話が読めない。一体、何を考えている?」
「君たちが愛してやまないハルトマノヴァーは、僕の直属の部下として活動することに同意してくれた」
 ヴァレンティンの言葉に、ティーナとカーロイはほぼ同時に眉を上げた。
「今までだって、あの子の仕事の大半はあなたからの指示だったでしょう?今更何を言っているのよ。もっと危険な目に遭わせてやろうとでも思ってるの?」
「貴公子君、君はレンカを名前で呼べないのかね?それとも、彼女にはハルトマン家の人間としての利用価値しか、見出していないということなのかな?」
 ヴァレンティンはティーナとカーロイが口々に反応するのを見て満足げに微笑むと
「面白いね、君たちは彼女のこととなると必死だ。しかし、君たちは彼女を誤解している。あれは君たちの保護が必要なほど弱い存在でもなければ、指示通りにだけ動いてもらう単なる駒でもない。君たちが過保護になればなるほど、本人は正当に評価されていない気持ちになるんじゃないかな」
と答え、続けて
「そして、僕という人間を認識して僕の仕事をする、と言うのは、彼女にとって、今までとは全く違う状況を生み出すのだと思う」
と付け加えた。
 ティーナはヴァレンティンの言葉を聞きながら、雨が降り続く窓の外を見やった。十三年という年月が過ぎるのはあっという間だった気もするが、この年月の間に慣れきってしまった、裏社会でのそのまた裏の存在としての自分たちの活動を、ヴァレンティンは変化させようとしているのだな、とぼんやり考えた。なぜ、今なのだろう?この男のことだから、今思い立ったような顔をして、実はずっと前から準備を進めていて、タイミングを見計らっていたのだろう。そう思いながら、ティーナは再びヴァレンティンに視線を戻した。あのハーグでの事件の後、自分はカーロイ、アダム、そしてサシャと共にヴァレンティンについて行くことに、つまりは人生を賭けてみることにしたのだ。その決断を後悔したことは一度もなければ、考えを変えたこともない。今、ヴァレンティンが変化を起こすべきだと考えたのなら、それが自分にとっても正しい選択なのだろう。そんな思いを巡らせながら、ティーナは話の続きを聞きたいという意思表示をすべく、ヴァレンティンに微笑みかけた。


その名はカフカ Disonance 3へ続く


『Po dešti, přes sklo』 DFD 21 x 27,9 cm、鉛筆

第三章はキャラの肖像よりイメージ画を優先していこうかと思っています。現在、第一章・第二章の加筆修正をオフラインで進めているのですが、あまりに挿絵に頼り、登場人物の文章による外見の描写を怠っていたことが判明。いたく反省しております。 



【地図】


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