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カフカを広げて図書館、秋初め。


2004年9月プラハ

 九月も中旬を過ぎて最高気温も二十度を下回る日が続き、プラハは順調に秋らしくなってきた。レンカはつい先日まで在籍していた大学から旧市街広場に向かって五分ほど歩いたところにあるプラハ市立中央図書館に来ていた。在学中から、学校の図書館よりもこの市立図書館のほうが好きだった。大学の図書館もそれなりの大きさがあったが、常に収容できる人数よりも多くの学生がひしめいており、空気が悪かった。あんな環境で勉強できる人間の気が知れない、とレンカはいつも思っていたが、今の自分はあの場所に属していないのだな、と思うと感慨深かった。
 外気は涼やかだったが、この日は快晴で、大きな窓から差し込む日の光が暖かだった。上下階が吹き抜けで繋がっていて、より開けた空間を作り出しており、それに伴って窓が大きく造られているのも、レンカがこの図書館を気に入っている理由の一つだった。
 単に「休みたい」という理由で図書館に足を踏み入れたレンカは、特に読みたいものもないな、と思いながら『フランツ・カフカ没後八十周年』の特集コーナーから『城』の原書を手に取り、螺旋階段で上階へ上った。
 階下が見下ろせるお気に入りの席に腰を下ろし、本を広げたものの、レンカは初秋の暖かな日差しを楽しもうと、顔を上げて図書館を見渡した。暫くそうしていると、自分のほうへ近づいてくる気配を感じた。相手は気配を消せないのではなく、私に気がついてほしいのだな、と思って首を回すと、既にアダムがレンカの目の前に立っていた。
 アダムはいつもの無表情で、何を思っているのかは読み取れない。つい数日前まで半袖のシャツばかり着ていたアダムも、この日はレザージャケットを羽織っていた。レンカは「ああ、秋が来たんだな」と思った。
 アダムはレンカの向かいの席に座ると
「電話がかからないから心配したぞ」
とだけ言った。レンカは驚いて隣の椅子に置いてある鞄から携帯電話を取り出した。確かに「圏外で着信一件」という事後通知が表示されている。
「ちょうど地下鉄に乗ってたのね。早く地下鉄内でも電波が届くようにならないかしら」
「まだ時間がかかるんじゃないか」
 そう言いながらアダムはレンカの鞄から少し頭を出している細長い筒を見つめた。レンカはその視線に気がついて
「ここに来る前に学生課に寄って来たの。卒業式に出ないから、卒業証書だけもらって来た」
と言って、更に
「どうしてここが分かったの?」
と聞いた。聞いてから少し視線を動かして、おかしな質問をしてしまったな、と思った。下の階の本棚の間で司書のクルチモヴァー女史が、素知らぬ顔で本の整頓をしていた。彼女はアダムの協力者の一人だ。どおりでレンカの近くには誰も座っていないわけだ。三年前、アダムがレンカを傍に置いておくと決めた時、アダムはレンカにプラハ市内でよく行くところを挙げさせた。この図書館は問題なくアダムから許可が下りた場所の一つだった。
 もともとレンカは、本が読める環境が整っていて、時々映画館や美術館に行ければ満足して生活できる人間だった。体調を崩してからはバレエ鑑賞には通っていなかったため、アダムには「よく行く場所」として報告していなかったが、このまま教えないままでもいいかな、と思っていた。
 レンカはアダムに視線を戻し、卒業証書の入った筒の先を片手で弄びながら
「学校に近いからここにもよく来てたけど、それも終わりね」
と言った。アダムは表情を変えず
「よく頑張ったな」
とだけ返した。
「何を?私なんて、先生たちのお情けで卒業させてもらったようなものよ」
「だが、卒論は一人で書ききっただろう?しかも仕事をしながらだ。二年前よりずっとマシだ」
 二年前、レンカが学士課程の卒業論文を仕上げていた頃は、まだレンカは心身ともに不安定で、アダムに「一緒にいてくれないと書けない、一人になると何をしでかすか分からない」と言って、アダムの傍に座り込んで書いていた。確かにその状況と比べたら、「マシだ」と評価されてもおかしくはない。
「ティーナは体が辛いならやめちゃいなって言ってたけど。サシャはきっと喜んでくれるね。修士号は絶対取っといたほうがいいって、ずっと言ってたから」
「あいつはインテリ志向だからな。そのうち博士課程まで行け、と言い出しかねん」
「私にはそんな時間も実力もないわ。これからはやっと仕事に集中できるのが嬉しいの」
「そう急にあくせく働かなくてもいいだろう。実家には連絡したか?」
「卒業試験に合格した時、父さんに電話したけど、帰省するつもりはないわ」
「卒業の記念に、何か欲しいものとか、やりたいことはないのか」
 アダムの問いかけに、レンカは少し驚いた顔をして、それから微かに笑った。
「誕生日にも何もしてくれないのに、そんなこと聞くの?」
「誕生日っていうのは、毎年あるじゃないか。だが、これからもう一回大学に入る気がないなら、大学卒業はこれっきりだ。別に俺は祝い事が嫌いなんじゃない。お前は難しいからな。旨いもん食わせてやるって言っても、喜ばないしなあ」
 レンカはアダムの言葉を聞きながら、アダムから少し目を逸らした。
「来週は、一週間ブダペストに行くの。もちろん、それくらいプラハを空けてもいいのなら、だけど」
 レンカの言葉にアダムは意外そうな顔をして
「そうか、カーロイは何も言っていなかったが、それなら行ってこい。盛大に祝ってもらえ」
と返した。レンカは複雑そうな表情をしながら再びアダムのほうへ視線を戻した。
「違うの、私の卒業とは関係ないの。カーロイ、今月四十歳になるでしょ?そのお祝いに呼ばれてるのよ。親戚一同揃えたいらしいわ」
「ハンガリーにもあるのか?切りのいい年齢の誕生日は盛大に祝うっていう習慣が」
「知らないわ。アダムには分からないわよね、私がどんなに気が重いのか」
「そんなに嫌か?お前はカーロイをこの世で一番尊敬しているんだと思っていたが?」
「カーロイじゃなくて、その他全員が嫌でしょうがないのよ。私、小さい子供って大嫌いなの。下の甥と姪には今度初めて会うんだけど、四歳と二歳なのよ?どうやって接したらいいのか、まるで分からない」
「お前はカーロイの一番上の坊主は、随分と可愛がっていたらしいじゃないか」
 アダムの言葉に、レンカはきょとんとしてアダムを見つめた。
「あの子は、全然別なの。ペーテルは、生まれた時から大人みたいだったの。生意気だけど、すごく賢い。そっか、アダムは会ったことないのか」
「今、いくつなんだ?」
「九歳かな?今年十歳になるんだと思う。そう言えば、アダムは姉さんと会ったことあるの?」
「ああ、93年だったかな、あいつらが結婚する直前じゃないか、休暇でチェコに戻って来た時に一回だけ会ったことがある。お前の姉さん、俺を見て嫌そうな顔してたなあ」
 レンカはアダムの最後の一言に恥ずかしくなって下を向いたが、それと同時に、その頃のアダムに会ったことのある姉が羨ましくなった。
「姉さんは、カーロイのお洒落な雰囲気が好きになったのよ。だからカーロイにアダムを友達だって紹介されて、びっくりしたんじゃないのかしら」
「そうだな、あの小洒落た男の友人としては、俺はゴツすぎるな」
「全然気にすることないのよ、姉さんは人の表面しか見れない人なんだから」
 レンカが姉を好いていないことに以前から気が付いていたアダムは、返事をせずに腕を組んでレンカを見つめた。ここで「きょうだいは大切にすべきだ」などという説教をしたところで、あまり意味はないのだろう。レンカ自身もそんなことは分かっていて、湧きおこる感情には抗えない、といったところか、とアダムは思った。
 黙ってしまったアダムのほうにレンカが顔を上げると同時に、アダムはまた話し始めた。
「話が逸れたな。つまり、ブダペスト行きはお前の卒業祝いじゃないんだな?何かないのか、普段やらないことで、俺がしてやれることは」
 レンカは一瞬、考えるような顔をしてから、ささやくように
「サシャに会いたい、かな」
と言った。アダムは眉を少し上げたが、さほど驚いた様子もなく
「じゃ、会いに行くか?」
と答えた。
「いいの?そんなに簡単に言っちゃって」
「向こうは勝手には動けない身だが、こっちから会いに行くのはそんなに問題じゃないだろう。お前がブダペストから帰って来たら、すぐ出発できるようにしておいてやる。それを楽しみにしていれば、カーロイのクソガキどもにも耐えられるだろう」
 レンカは反射的に声を立てて笑い始めたが、自分は今、図書館の中で座っているのだということを思い出し、口を押さえた。アダムは「最近レンカは少し笑う回数が増えたな」と思い
「いい傾向だ」
と口に出して言った。
「何が?」
「独り言だ。俺はそろそろ行かなきゃならんが、一人で帰れるか?」
 アダムの質問にレンカはわざと顔をしかめて
「そういうのは、もう大丈夫だって言ったでしょ。もうこの世界の誰一人として、私を尾行できる人間はいないわ」
と自信たっぷりに言った。
 レンカの返事にアダムは満足げに笑うと席を立って、螺旋階段のほうへ向かった。
 レンカは立ち去って行くアダムを目で追わないようにしながら、窓から差し込む西へ傾き始めた秋の日の光をぼんやりと見つめた。そして再び手元の本に視線を戻し、アダムはレンカが何の本を広げているのか気が付いただろうか、もっと早くサシャに出会っていたら、ロシア語を勉強して大学の専攻も違ったものにしていただろうな、と思いながら、静かに『城』を閉じた。


『Lenka 2004』 DFD 21 x 29,7 cm、鉛筆、色鉛筆



【解説】
つい最近まで半年以上に渡って長編を書いていたワタクシ、なんだか「noteを開いたら小説の続きを書く」習性が身についてしまったようで、ここまで書き上がっている長編の整理整頓もままならないというのに、我慢できずに番外編を書いてしまいましたよ。

長編『その名はカフカ』をお読みになった方しか分からない上に、長編を完読した方にも面白いかどうかは分からないという番外編……。
いいんです、自己満足なんだから。笑

この番外編に少し解説を付け加えておきますと、1980年生まれのレンカは2004年時点で二十四歳。
チェコは小学校は基本的に日本と同じ「この学年度で七歳になる子」が通い始め、義務教育も十五歳で終わりますが、高校が四年制なので、順当に行って十九歳で高校卒業、大学進学、となります。
大学は学士課程が三年、修士課程が二年。ということで、レンカは浪人も留年もせず、大学卒業に至った、と言うことになります。

チェコの義務教育については一度noteでも書いています。

もう一つ解説しておきますと、アダムが「切りのいい年齢の誕生日は盛大に祝う習慣」と言うくだりがありますが、チェコでは一の位に0のつく年齢の誕生日は他の誕生日より重要視されているので、こんなことを言っています。

あと2004年に関して。
この後、すごく寒い秋がやって来たのを覚えています。10月下旬にプラハでも雪が積もって、そのタイミングでストックホルムに旅行に行った私。どこを見ても雪・雪・雪、でした。


もし本記事で私の『カフカ』に初めて出会った方がいらっしゃいましたら、どうぞこちらから↓


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。