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その名はカフカ I

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長編小説『その名はカフカ』の収納箱その①です。
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その名はカフカ【ピリカ文庫】

 リンツで最後の乗り換えをし、窓際の席に腰を下ろした途端、どっと疲れが押し寄せてきた。コンパートメントには私の他には誰も座っていない。窓の外の景色は夕日に彩られ鮮やかだったが、もうすぐ夕闇に飲み込まれてしまうのだろう。それでもかまわない。オーストリアを抜けてスロヴェニアに入るまではどうせ山しか見えないのだ。  列車が走り始めてほどなくして 「お飲み物、軽食などはいかがですか?」 コンパートメントの扉がゴトゴト音を立てて開かれ、給湯ポットやペットボトル、サンドイッチ、菓子など

その名はカフカ Preludium 1

その名はカフカ Prolog 2013年11月プラハ  プラハの中心街からは七駅分も離れた地下鉄の駅の出口から500メートルほどの道のりを、まるで何かに急かされているかのような速さで歩いていたレンカ・ハルトマノヴァーは、自身の経営する事務所の入っているオフィスビルの前でしばし立ち止まり、最上階を見上げた。プラハの片隅の閑静な住宅街にあるその建物は周囲の家並みよりは幾分か背が高いものの、セセッションを愛してやまないという建築家が通りのすべての建築の設計を担当しただけあり、特

その名はカフカ Preludium 2

その名はカフカ Preludium 1 2013年11月ズリーン地方南部  森の中は静まりかえっていて、鳥のさえずりさえも聞こえなかった。空もどんより曇っていて、気温も街中と比べるとずっと低い。ズリーン地方南部のその森の中には約5平方キロメートルに及ぶ弾薬専用の貯蔵エリアがあり、長方形に横たわるエリアに約40棟の弾薬庫がそれぞれ一定の距離を置いて建てられている。周囲も数キロメートル以内には人の住む集落は造ってはならない規則となっている。レンカは助手のアダムと共にエリアの比

その名はカフカ Preludium 3

その名はカフカ Preludium 2 2013年11月ブダペスト  ブダペストに到着してから既に一日経っていたが、ペーテルは家に入るのをまだ躊躇していた。ドナウ川をはさんでブダとペストに分かれるハンガリーの首都のペスト側にあり、街の中心からも離れて建てられている邸宅は、自分たち家族だけで住むには大きすぎるよな、とペーテルは常々思っていた。門から玄関まで続く庭の真ん中でしばし立ち止まり、父の書斎の窓を仰ぎ見ると、明かりがついていた。結局、正面玄関から入るのは避け、庭から直

その名はカフカ Preludium 4

その名はカフカ Preludium 3 2013年12月プラハ  事務所の応接室の大きな窓からは、建物自体が周辺の家々より高く造られていることもあり、椅子に座っているとどんより曇った空しか見えなかった。12月も中旬に入り、寒さがより一層厳しくなってきていたが、応接室はもとより事務所全体に暖房が行き渡り、心地よい室温を保っている。その温かな応接室で、レンカは来客と丸テーブルを挟んで向かい合って座っていた。  来客は七十前後の白髪の紳士で、表情は落ち着いていたが常に哀愁を帯び

その名はカフカ Preludium 5

その名はカフカ Preludium 4 2014年1月ズリーン地方南部  午後10時を回っていた。真冬の森は日中でも冷え込みが激しいのに、このような時間帯では相当な防寒対策が必要である。珍しく晴れていて、空には満天の星がまばゆく光っていた。  まもなく弾薬を運び出す大型トラックが二台、到着するはずだった。この日は二回に分けて三台と二台、計五台のトラックが全ての買い上げ商品を運び出す手はずになっており、既に最初の三台は弾薬貯蔵エリアを後にしていた。運び出しは二日に分けること

その名はカフカ Preludium 6

その名はカフカ Preludium 5 2014年4月ウィーン  指定された住所にそびえ立つガラス張りの垢ぬけたビルを見上げて、アダムはため息をついた。それからまっすぐ前を向き、上着のポケットに左手だけ突っ込むとビルの一階に入っている洒落込んだレストランを尻目に業務用のドアのオートロックにコードを打ち込んで開き、上階に上がるべくエレベーターに向かった。  五階で降りて、エレベーターから右手の廊下を歩いて指定された部屋を探した。部屋はやはりコードでロックされており、事前に教

その名はカフカ Preludium 7

その名はカフカ Preludium 6 2014年4月プラハ  レンカの事務所は頻繁に来客があるわけではなく、大きなテーブルと座り心地の良い椅子がしつらえてある応接室は普段はレンカとエミル、アダムの会議室として使われていた。この日、レンカは来客用の椅子、エミルは接客の際レンカが使っている椅子に座り込み、テーブルの上に様々な書類や郵便物、ノートパソコンなどを広げて向かい合っていた。エミルは郵便物を開封しては、レンカに手渡したりパソコンにデータを入力したりしている。レンカは主

その名はカフカ Preludium 8

その名はカフカ Preludium 7 2014年5月プラハ  開演前のオペラ座のロビーは華やかに着飾った観客でにぎわっていた。レンカは人ごみは嫌いだったが、こうして時々普段とは違った人々を眺めるのは好きだった。バレエ鑑賞に通っている、と言っても、都合のいい時にちょうど観たい公演があるとは限らず、一年に一度、多くて二度が限度だった。レンカにとって、劇場に通うにあたって最大の問題は服装だった。こういった場で女性の「あるべき姿」とされている華々しいドレスを着用するのは、普段パ

その名はカフカ Preludium 9

その名はカフカ Preludium 8 2014年5月グラーツ  五月も下旬に差し掛かり、中央ヨーロッパの気温は急に上がりだした。きれいに晴れ上がった天気も手伝って、オーストリアの第二都市であるグラーツの中心街は午前中から観光客であふれていた。ハウプト広場の中央に位置するヨハン大公像の噴水も多くの人を集めていたが、アダムはその横をわき目もふらず通り過ぎ、人通りの少ない路地に入った。その路地にある古風な造りのカフェの扉に「本日閉店」の札がかかっているのを確認してから中に入っ

その名はカフカ Preludium 10

その名はカフカ Preludium 9 2014年5月プラハ  レンカは受付と自分の事務室の間に立ち、事務室に入ったらドアを閉めようか、それとも開けておこうか、と迷っていた。この日、事務所にはレンカしかいなかった。普段はエミルかアダムのどちらかがいて、レンカは今、自分一人だけが事務所にいるという状況に少し戸惑っていた。レンカは私生活では一人で過ごす方が好きだったが、事務所に自分一人だけという状況には慣れていない。エミルがいる時は、受付に座っているエミルと空間を共有するかの

その名はカフカ Preludium 11

その名はカフカ Preludium 10 2014年5月ズリーン地方南部 「帰らせた?どのような理由でそのような処置を?」  弾薬庫作業員から電話を受けた後、プラハから弾薬貯蔵エリアまで車を飛ばしてきたレンカは、心底面白くなさそうな顔をして事務机の上で顎の高さくらいで手を組んでうつむいている管理局長を見下ろしていた。1月の弾薬受け渡しではスタッフから外してしまったため、大して話したことはなかったが、管理局長には間違いなくレンカは気に食わない存在だろう。本社からはレンカが率

その名はカフカ Preludium 12

その名はカフカ Preludium 11 2014年5月ブルノ  チェコの第二の都市ブルノにある総合病院は、規模としてはチェコ国内で第二位ではあるが、医療技術、設備ともにヨーロッパ内で比較しても類を見ないと言われる最先端のものであった。病院長はその日最後の会議をすませると、一人で病院長室へ戻った。時計を見ると、午後5時を回ったところだった。  病院長は、もう何年も医者らしいことは何もしていなかった。病院に関する仕事はほとんどが経営管理に関するもので、病院とは関係のない仕事

その名はカフカPreludium 13

その名はカフカ Preludium 12 2014年5月オパヴァ  男は意識が戻っても目を開けることができず、かろうじて喉の渇きとその奥からむせ返ってくる胃液の臭いを感じ取った。昨日はそんなに飲んだんだっけな、どこでだったっけな、そうゆっくり思考を巡らせていくと、じわじわ全身の痛みが感じられるようになった。体だけではない、どこかで強く打ったらしく、顔面までもが痛む。顔面が痛いというのにうつ伏せに寝ているというのは理不尽だ、と寝返ろうとしたが、体は言うことを聞かなかった。男