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その名はカフカ Disonance 8

その名はカフカ Disonance 7


2014年9月プラハ

 ナイトテーブルの上に置いてある時計がきっかり午前四時二十五分を表示した瞬間、エミルは両目を見開いた。既に十分前くらいには覚醒していたが、動き始めるのは四時二十五分と決めていて、その動きには目を開けるという行為も含まれていた。
 隣で寝ているアガータは常に眠りが浅く、エミルの僅かな動きでも目を覚ましてしまいそうだったが、暫く観察するうちに、アガータはいつも朝四時半頃は比較的深く眠っているらしい、ということに気が付いた。そこでエミルは、アガータのところに泊まった日の翌朝の起床時間は午前四時二十五分と決めた。
 音もなくベッドから降り、床に脱ぎ捨ててある所持品はすべて装着したままの服に手を通し足を通して三十秒、靴下は手に持ったまま寝室のドアに近づきドアを開けて廊下に出てまたドアを閉めてさらに三十秒、寝室を出るとすぐ右手が玄関なので、そこでベルトを締めて靴下と靴を履いて玄関のコート掛けに掛けてあったジャケットを羽織って玄関の鍵を開けて外に出てまた施錠して四十秒強。エミルはベッドから外に出るまでの所要時間を総計二分弱に収めることを目標にしていた。
 玄関の外に立って、やっとジャケットの胸ポケットに入れてあった眼鏡をかける。着替えもシャワーも事務所で済ませることにしていた。寝ぐせの付いた頭も守衛の男性に見られるだけだ。彼はいつも不愛想な顔で挨拶をしてくれるだけだったが、実はエミルがどこから戻って来たかの察しは付いていて、心の中でほくそ笑んでいるのかもしれない。どうでもいいか、守衛のおじさんに何と思われようと、と心の中でつぶやいて、エミルは階段を下りて車に向かった。
 九月も中旬に差し掛かり、夜明け前の外の空気は冷たかった。エミルはアガータが住んでいるマンションから百メートルほど離れた路肩に駐車しておいた車に乗り込み、昨日から車内に転がしておいたミネラルウォーターのボトルを手に取った。運転を始める前に、頭に完全に覚醒しておいて欲しかった。ぼうっと空を見つめていると、昨日の事務所でのレンカとの会話、そして自分がレンカに対して取った態度が思い出され、じわりと後悔の念が胸に広がるのを感じた。
 あれは良くなかった、本当に良くなかった。昨日も一日中そう思いながら事務所に座っていた。昨日の朝、エミルはまずジョフィエがレンカに会いに来たという話に気が動転し、表面上はすぐに落ち着いたように見せかけたものの、頭は完全にパニックに陥っていた。その上、ジョフィエにアガータのことがばれている、という事実で第二の衝撃を食らい、自分でもよくその場に立っていられたなと思うくらいの精神状態で、レンカの心にまで配慮している余裕がなかった。
 エミルが学生時代に付き合った女の子たちはことごとくジョフィエに悪戯をされた。その後はエミルもジョフィエに感づかれないための対策をいろいろ考えるようになって、今回も大丈夫だと思っていたのに、まさかレンカのところに出向くなどという、全く新しい攻撃手段を打ち出してくるとは思ってもみなかった。
 攻撃手段、という言葉が頭に浮かんで、それがジョフィエの行動を形容するのに正しい表現なのか、と考えた。あの子の目的は、一体何なのだろう?ジョフィエのことだから、エミルがアガータと付き合い始めた半年前の三月には既に気が付いていたのではないか。なぜ、今なのだろう。なぜ、レンカのところに行ったのだろう。今回に限っては、"エミルの邪魔"が目的なのではなく、本当にレンカに会いに行ったのではないのだろうか?
 そこまで考えて、昨日のレンカの動揺と悲しみが入り混じった表情を思い出し、エミルはため息をついて天を仰いだ。どうしたら、あんなひどいことが言えてしまうんだろう、とエミルは昨日の自分を呪った。レンカが自分の能力を買ってくれていることは充分すぎるほど分かっていた。もしかすると、レンカが自分を選んだ理由の一つに家族構成があったかもしれない、という思いは以前からあったが、そんなことは大したことじゃないと思っていた。そして、昨日レンカが見せた表情から、彼女の頭にはそんな考えは微塵もなかったことが見て取れた。
 エミルは膝の上に立てて両手で押さえつけていたボトルから水を少し口に含んだ。既に運転できるくらいには頭は働いているようだったが、なかなか出発しようという気になれなかった。そして、レンカのことを考えずにはいられなかった。
 どうも我が英雄は長き眠りから目覚めたらしい、というのが、六月にスロヴェニアから戻って来てからエミルが出した結論だった。アダムとのことだけでなく、エミルの知らないところで、あの六月にレンカには大きな転機があったらしい。しかし目覚めた英雄は、どうも危なっかしい。以前よりもエミルはレンカの心配をしているような気がする。最近のレンカは感情が外に溢れ出てくるようになり、エミルでなくともレンカが何を感じているのか読み取れてしまうのではないか、と思われるくらい感情が顔やしぐさに出ていて、エミルは気が気でない。それは今急に始まったことではなく、きっとこれがレンカの本来の姿で、レンカはそういった感情表現に長いこと蓋をしてきていただけのことなのだろう。そして、その変化と合わせて、レンカは傷つきやすくなっているのではないか、という心配もあった。
 外部の人間に対しては、以前と同じ鉄面皮、解釈のし方によっては更に厚くなった面の皮で挑んでいるようなので、今のところ仕事には支障は出ていない。しかし、目覚めた英雄のほうが眠っていた時よりも心配をかける、というのは一体どうしたことなのだろう。そこまで考えて、エミルはふと、最近見た大型エビの脱皮の映像を思い出した。脱皮したばかりのエビの新しい外骨格は、まだとても柔らかいらしい。今のレニはそれと似た状態なのかな、と思ったところでジャケットのポケットの中のスマートフォンが光ったのが目に入った。
 まだ音を消していたんだったな、と思いながら電話を取り出した。アガータだった。エミルは思わず微笑んで、電話に出た。
「おはよう、アギ。やっぱり起こしちゃった?」
「おはよう。ふふ、またエミルに逃げられちゃった」
「アギはあんまり寝れないから、眠ってるときは邪魔したくないんだけど」
「玄関の鍵、重いからね。どうしても目が覚めちゃう。どうせなら、もっとゆっくりしていけばいいのに」
「朝アギの顔を見たら、もうどこにも行きたくなくなっちゃいそうだから」
「あ、また調子のいいこと言ってる」
 アガータの声が、耳に心地よかった。スロヴァキア語はチェコ語に最も近い言語で、お互いに意思の疎通もほぼ問題なくできる。一番の大きな違いは音の柔らかさ、だろうか。スロヴァキア語は軽やかで、まるで歌っているようだ、とエミルは感じる。しかし、そんな風にスロヴァキア語を評価し始めたのもアガータに出会ってからで、結局自分は彼女の声が好きなんだろうな、とも思う。
 一瞬の間を置いて
「今夜も、会える?」
とアガータが聞いた。エミルは即座に答えられなかった。一昨日は事務所に泊まり、昨日はアガータのところで、バランスを取ろうと思ったら、今日は家に帰ったほうがいいのだろう。ジョフィエのこちらを睨んでいるような顔が思い浮かんだ。しかし、この後のレンカの動き次第では、自分も数日内にプラハを離れる可能性もある。そうしたら、アガータには次、いつ会えるのだろう。
「今日も練習、行くの?」
「うん、行く。エミルも来る?」
 今度はレンカが見せた、不安そうな顔が浮かんだ。暫くアガータとは射撃場では会わないほうがいいのかもしれない。
「僕は今日はやめとくけど、外で待ってる」
「そう。じゃ、また夜にね」
 エミルは「良かったらもうちょっと寝ておいてね」と返して電話を切った。エミルは電話をポケットの中に戻し、ようやくエンジンをかけようとして、ジャケットの袖にアガータの髪が一本付いているのに気が付いた。アガータは肩まで伸ばした細かいウェーブのかかった髪を真っ赤に染めている。案外、ジョフィエはこういったところから気が付いてしまったのかもしれない、と顔をしかめた。妹は精密な作業は得意なのに、外界のこういった些末な部分には一切興味を示さず、目に入っていないかのように見えた。実は、そう見せているだけなのかもしれない。
 エミルはやっと車を発進させ、静かな街を走り始めた。この時間帯はまだ車も少なく、走りやすい。今、目の前に広がっている街の光景と同じくらいに、自分の心の中も静かであって欲しいな、とエミルは思ったが、もう一人の自分が「それは無理な相談だ」と言っているのが聞こえ、思考はまた昨日のレンカとの間に起こった出来事に戻って行った。
 昨日の自分の最大の反省点は、やはり一日中レンカと同じ事務所に座っていたのにもかかわらず、"朝の話題"の続きを一切口にしなかったことなのだろう。自分でも、よくも白々しく仕事を続けていられたものだと思う。しかしエミルには、レンカとあの話の続きを深く掘り下げる勇気がなかった。エミルは昨日、自分でも初めて「自分はアガータのことをジョフィエ以上に、レンカに知られたくなかったのだ」ということを認識した。
 アガータにエミルの勤め先を伝えていない、というのは本当のことだった。しかし、このまま二人の関係が続く限り、いつかは話さなくてはいけない日が来るだろう。それはいつのことになるのか?どこまで詳しく教えて良いものなのか?そしてその「どこまで教えるのか」の基準は、アガータがどれだけ信用のおける人物なのかということが重要になってくるのだろうが、誰が彼女の人間性を客観的に評価してくれるというのだろうか?そんな問題点を議論する日がレンカとエミルを待ち受けていることは想像に難くなく、エミルはそれを思うだけで憂鬱になった。
 エミルはとりあえず、事務所までの道のりは運転だけに集中してみることにした。自分は普段、あまりに多くの仕事を同時に進めている。せめて今から事務所に着くまでの数分間は、何も考えず、やることを運転だけに絞るのも悪くはないだろう。「やるべきことは運転だけ」、その言葉が頭に浮かんだ瞬間、心なしか気持ちも少し軽くなった気がした。


その名はカフカ Disonance 9へ続く


『Emil』 DFD 21 x 29,7 cm、鉛筆、色鉛筆
久々にがっつりエミルを描きたいと思ったんだが、「ジョフィエに瓜二つ」を意識しすぎて、ますます童顔に……



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