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その名はカフカ Disonance 7

その名はカフカ Disonance 6


2014年9月フランクフルト・アム・マイン

 ラーヂャはヨーロッパ内にいくつかの工房を抱えていたが、本拠地としている最大の工房はドイツ西部に位置する世界的な金融都市フランクフルトに置いていた。最大の工房、と言っても、街はずれの古い家屋の地下に構えており、そこで使っている従業員は六人ほどだった。
 ラーヂャは工房ごとに専門分野を分けていて、フランクフルトの工房では主に身分証明書の偽造を扱っていた。もともと紙幣の偽造にはあまり興味がなかったが、ある時、職人の腕を磨くのに持って来いの題材だ、と気が付き、偽造紙幣もある程度製造していた。しかしわざわざ金融都市と呼ばれるフランクフルトで喧嘩を売ることもあるまい、と別の街にある工房で作らせている。金融関係でいけば、クレジットカードの偽造の依頼も多かったが、ラーヂャはすべて断っていた。そんなもの、一回使って元の持ち主にバレたらそこでお役目終了じゃねえか、面白みがねえ、というのがラーヂャの主張するところだった。そして、クレジットカードの外観は簡単に模倣できる、というのも、ラーヂャがその仕事を馬鹿にしている理由だった。うちの技術はもっとずっと高度な作品のためにあるんだ、と常々息巻いている。
 ラーヂャは工房には不規則に顔を出していたが、この日出勤して工房のある地下への入口の前に立ったのは、午前九時を過ぎた時だった。まだ外部の人間と約束した会合までには二時間ほどある。ラーヂャはいつも通り素早く階段を駆け下りると工房のドアを勢いよく開け、
「ルノワールはいるか?」
と叫んだ。工房の隅の、背の高い棚で囲って作り上げられた個人の作業スペースのような場所から、三十前後の痩せた顔色の悪い男がラーヂャのほうへ顔を出し
「ラーヂャ、おはようございます、ここです」
と見た目にそぐわぬ大声で返事をした。
 ルノワール、というのは彼の本名ではない。ラーヂャは自分のところで働く職人は一切本名で呼ばず、著名な芸術家の名前を勝手に選んで呼び名として使っている。ラーヂャはルノワールを見るたびに、この不健康極まりない外見はどうにかならんか、俺が食べていけるほどの給料をやってないように見えるじゃないか、と思う。実際には、ルノワールは手先が異常なほど器用な男で、老眼の入ってきたラーヂャの右腕的存在であり、ラーヂャの工房の中では一番の稼ぎ手である。
 ラーヂャはルノワールのところまで大股で歩いて行くと、ルノワールの顔にスマートフォンのディスプレイを突き付けた。ディスプレイには銀行口座の明細が表示されている。
「この金額に、見覚えはあるか?俺は、ない。今朝、いきなり振り込まれていた」
 ラーヂャがそう言うと、ルノワールは彼の首から上を三倍くらいの大きさに見せている巻き毛に覆われた頭を照れくさそうに掻いた。
「今ごろ来たんですねえ、六月の注文だったのに」
「どういうことだ、なんで俺を通さなかった。どっから来た注文だったんだ」
「分かんないですよ。うちに来る注文は、全部匿名でしょ?」
「アホか、俺はいつも素知らぬ顔で裏取ってんだよ、そんなことにも気が付いてなかったのか」
「ラーヂャはいつも大事なところは一人でやっちゃうから。分かっとけって言う方が無理がありますって」
 ラーヂャはどこまでも悪びれないルノワールに苛ついたが、ルノワールの勝手な行動に気付けなかった自分に一番腹が立った。
「それで、俺を通さなかった理由は何だ」
「六月、ラーヂャすごく忙しそうだったじゃないですか。あんまり工房に顔出さなかったし。邪魔しちゃいけないかなって思って」
 六月か、とラーヂャは顔をしかめた。娯楽の一環くらいの感覚でキツネをクロアチアに送り出したが、さすがに死人を出す、というのにはその後の処理に思いのほか手間がかかった。
 ラーヂャは再び明細に目を落とした。送金は例のごとくスイスからだ。それでも少しつつけば出どころはすぐ分かるだろう。ラーヂャは鼻をふんと鳴らすと
「で、注文内容は何だったんだ?」
と聞いた。
「身分証明書を一枚。どこの国のだったかな?パスポートじゃなかった。"絵"のデータは絶対残してあるはずですよ」
 そう言うと、ルノワールは自分の作業スペースのパソコンの前に戻った。ラーヂャはルノワールの動きを目で追いながら、小言を並べるべく再び口を開いた。
「これからは絶対に一人で判断するんじゃないぞ。俺は発注者は厳密に振り分けてんだ」
「それでかなりいい額の注文も振り落としちゃってる気がするんですけど?」
「注文の半数はこっちの技術を盗むために依頼のふりをしていると心得ておけ。それから半額前払いは徹底しろといつも言ってるだろうが」
 ラーヂャがそこまで言った瞬間に、ラーヂャのポケットの中でもう一台のスマートフォンが鳴り始めた。ラーヂャは少し乱暴な手つきで電話を取り出し、ため息をついてから電話に出た。
「何だい、ボス。約束は十一時だろう?」
「早く着いちゃったのよ。せっかくだからさ、住所を教えてくれれば、あたしが工房のほうに行ってあげてもいいけど?」
「手癖の悪いあんたに誰が工房の場所なんか教えるか。そのまま大人しく恐竜と仲良くしてな」
「この自然博物館、期待してたほど大きくないのよねえ。孫のためにもうちょっと写真撮っとこうかな?最近、恐竜に目覚めたみたいでさ」
「そうしときな。俺は時間になるまで行かねえならな」
 そう言うと、ラーヂャは電話を切った。ボスと話している最中からルノワールの視線を感じていたラーヂャが
「何だ?」
と聞くと、ルノワールは
「ラーヂャ、まだあのおばさんと会ってるんですか?あの人、ラーヂャの邪魔ばっかしてるようにしか見えないんですけど?」
と非難するように言った。
 ラーヂャは、今にも舌打ちをしそうな顔をしながら
「俺は今までの人生で人間関係は何の執着もなく切るものは切ってきたが、変に続いてしまうものもあるわけだ。これは、そのうちの一つだ」
と返し、そういうのも切る時が来たと思ったら容赦なく切るけどな、と心の中で付け加えた。

 ラーヂャが数体の恐竜の全身骨格を誇るゼンケンベルク自然博物館に到着したのは、午前十一時きっかりだった。ラーヂャは博物館の中には入らず、外でボスを待っていた。恐竜の骨格は何度見ても飽きることはなかったが、ボスに中身のない話をされながら観賞する気にはなれなかった。五分ほど遅れて博物館から出てきたボスは、この日もラーヂャの理解を遥かに超えたいでたちだった。長い金髪を三つ編みにしたウィッグを被って、レースとスパンコールをふんだんに使った地面に届くほどの丈の長さのライトブルーのタイトなドレスを着ている。
「ボス、何だい、そのピラピラした格好は」
「エルサなんだけど、分かる?」
「分からん」
「あの映画、観てないんだ?あんなに流行ってるのに」
「観てたとしても、分かる自信はねえな。あんたの奇天烈な見てくれと実際の映画の中とはかけ離れてんだろ?」
 それ以上その話を続ける気もせず、ラーヂャは先に立って歩きだした。
「どこ行くの?」
「別に目的地はない。道なりにマイン川まで下って川沿いを歩けば、普段この街には来ないあんたにはちょうどいい散歩コースになるだろう」
 ボスは車道に沿って歩き始めたラーヂャに小走りに追いつき、隣に並ぶと
「そうね、密談は歩きながらに限るわね」
と楽しそうに笑った。
「密談、かよ。そんな重大な話を持ってきたのかい」
「本部からのお呼び出し。総長がラーヂャに会いたいって」
「……俺はあんたの親分には興味ねえ。ほんっとに、ねえ。そんなつまらんことを言いにここまで出てきたのか」
「総長のお誘いを断るなんて、ちょっと信じ難いわ」
 ラーヂャは横目でボスを見やると
「何度言わせる?俺は自分の興味のあることしかやらない。しかも俺はあんたらの組織には属していない。よってあんたの親分の呼び出しを受けるか否かの決定権は自分の手の中にある」
と言って、また前方へ視線を戻した。ボスはラーヂャのほうを見ようともせず
「それなら、あたしのことをボスなんて呼ぶのもやめたら?あたしが組織の幹部になる前は、名前で呼んでくれてたくせに」
と不満そうにつぶやいた。ラーヂャが返事をしないので、ボスは言葉を続けた。
「どうせなら、あたしにもあんたの部下と同じようにあだ名をつけてよ。マリー・ローランサン、とか」
「悪いがうちには既にローランサンはいる。それにな、俺は絵描きの名前は職人にしか使ってないんだよ」
「ふうん。それなら、ドーラ・ディアマントとか、どう?」(注1)
「……なんでいきなりそんなマイナーな名前になるんだ」
 ラーヂャは再びボスのほうを横目で見た。ボスは既に微笑みながらラーヂャのほうを見ていた。
「あんたも、いろいろ嗅ぎまわってんでしょ。ラーヂャさ、あの女が随分と気に入っちゃったみたいだし」
「話が読めん。どの女だ」
「しらばっくれないで。キツネだって、一応私の部下だったんだからね?あんたはそのキツネを潰してまで女の味方しちゃったんだから。私がただで許すとでも思う?」
「俺は特定の人間の味方をした覚えはないし、キツネがああいう転び方をしたのもあいつの人生だ。おかしな筋書きを後付けされても困る」
 ラーヂャは、ボスが話をどちらの方向へ持って行こうとしているのかは、もちろん分かっていた。「レンカ・ハルトマノヴァーはカフカのために存在している」、そんな噂話を最初に耳に挟んだのはラーヂャだったし、ボスに世間話の一環として話したのもラーヂャだった。ハルトマノヴァーに関しては、未だにこの程度の訳の分からない謎かけのような噂くらいしか探る手掛かりがない、ということなのだろう。
 歩調を少し速めたラーヂャに必死に追いつきながら、ボスは
「あたし今日、すっごく歩きにくい格好してるんだからね、ちょっとは考えてよ。……ねえ、何か知ってるんでしょ、あの女に関して、あたしの知らないこと」
と言って、ラーヂャの顔を覗き込んだ。
 ラーヂャは白けた顔でボスの顔とウィッグに一瞥を投げ、また前を向いて
「注目すべきはその金髪の姉さんのほうじゃなく、妹のほうの髪、だな」
と言った。ボスがきょとんとして
「訳分かんない。ていうか、さっき『FROZEN』観てないって言ったくせに」
と返すと、ラーヂャはニヤリとして
「トレーラー見ただけだよ。どんな映画も予告編は本編より面白えからな」
と言ってから、二、三歩ボスの先に進んで立ち止まり、ボスのほうへ向き直った。
「もう一つ気を付けるべきこととして教えてやれることがあるとしたら、ドーラ・ディアマントの出身はどこか、だな。ボス、いい女を選んだよ、フェリーツェでもミレナでもなく、さ」
「ますます訳が分からないわ」
「こっから先は、自分で考えろよ。それからな、これからは親分の誘いを伝えるくらいの用事だったら電話で済ませろ。俺はこれでもけっこう忙しい」
 そう言うと、ラーヂャは車の流れが途切れた一瞬を捉え、車道を一足飛びに横断し、ボスに手を一振りしてから路地裏に消えた。
 ラーヂャが消え去った路地のほうを呆然と眺めながら、ボスは
「あたしがわざわざ会いに来てあげてるっていうのに、その有難みが全然分からない男よねえ、あんたって」
と悔し紛れにつぶやいた。そして、ラーヂャが消えたのとは反対の方向へ顔を向け、ちょうどマイン川の側まで来ていることに気が付いた。せっかくだから、ラーヂャのお勧めの散歩コースとやらを試してみるか、と心の中で独り言ち、マイン川に沿ってゆっくり歩き始めた。


その名はカフカ Disonance 8へ続く


『Dýchej pořádně, i když není tento svět dokonalý』 Diskobolos 21,5 x 26 cm、色鉛筆、水彩


注1)
ドーラ・ディアマントはフランツ・カフカの最後の恋人。ポーランド出身。



【おまけ】
ん?恐竜?って思った読者様、大当たり!でございます。
以下、2017年5月フランクフルトにて撮影した写真です。

コート着たまま。館内も寒かったようです。


【地図】


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