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その名はカフカ Disonance 6

その名はカフカ Disonance 5


2014年9月プラハ

 レンカは仕事の後、帰宅する前にカレル橋のすぐ側にある国立図書館へ予約しておいた本を受け取りに行った。プラハの中心部から離れた場所にある事務所からわざわざ国立図書館まで行って、またプラハの片隅にあるマンションに帰るのは非効率的な帰宅ルートではあったが、この日を逃すと予約した本を受け取りに行ける日がないので図書館の閉館時間が来る前に事務所を出なければいけない、という理由付けがなければなかなか腰を上げられなかった、という自分でも笑ってしまうような動機で選んだ寄り道だった。
 一日を通して、エミルは至って普段とほぼ変わらぬ態度で、朝のレンカとの一連のやり取りはまるで存在しなかったかのようだった。レンカはよっぽど「仲直りがしたい」と言ってみようかと思ったが、「喧嘩もしていないのに、何の仲直りですか」と返されそうで、やめておいた。レンカは明日から単身で出張する予定になっているが、彼女が事務所を出る時には、エミルは「お気をつけて」と笑顔で言った。レンカは、このまま今朝の話の続きはしないで済んでしまうのだろうか、エミルは今まで通りの態度でレンカに接していくつもりなのだろうか、それでいいということか、と考えてみたものの、心の中はすっきりしないままだった。
 図書館で本を受け取り、地下鉄を乗り継いで最寄りの駅から歩いて自宅のあるマンションに着いた。このマンションはレンカがハルトマンの名で事務所を開業した頃に移り住んだもので、安全性にかけてはプラハ市内では右に出る者はいないと言って、アダムがレンカのために選んだものだった。強固なエントランスを入って左手にあるエレベーターで自分の部屋のある階まで上り、玄関の前に立ったところで、セキュリティが解除されていることに気が付いた。レンカのマンションは不法侵入などがあった場合、センサーが反応して瞬時にレンカのところに連絡が入るようになっていたが、この日はそんな知らせもなかった。このセキュリティシステムはアダムが設置したもので、朝レンカが設定し忘れたのではない限り、セキュリティが解除されている理由は一つしか考えられなかった。
 鍵を開けて中に入り、また玄関を内側から施錠して明かりのついているリビングのほうへ進むと、アダムの声が聞こえた。レンカに向けられたものではない。誰かと電話をしているのだろうと思いながらレンカがリビングに顔を出すと、ソファに座っているアダムはレンカのほうに空いている右手を上げただけで、電話の相手と話し続けた。レンカはアダムを目にして、自分の顔がほころんだのを感じるのと同時に、アダムか来ることに事前に気付けなかった自分に呆れた。普段のレンカなら、仕事の関係者などでも自分を目的に近づいてくる存在は、相手によって時間差はあるものの、前もって感じ取れる。それが自分に近しい人物なら尚更だ。今日の自分は一体どれだけエミルに気を取られていたのだろう、とレンカはため息をついた。レンカがどんなコンディションでも、ヴァレンティンだけは意図しない限り絶対にレンカに気取らせない。あれは悔しいな、と思いながら、レンカは着替えを済ませようと、奥の部屋へ向かった。
 レンカがリビングに戻っても、アダムの電話は終わっていなかった。とりあえず水でも飲もうと、リビングと空間を共有するように設えてあるキッチンへ向かい、そこでやっとアダムは料理をしている最中なのだ、と気が付いた。料理を始めてしまってから電話がかかってきたのだろう。これは、今の状態から何を作ろうとしているのか推理して続きに取りかかったほうがいいのだろうか、と思いながらアダムのほうを見ると、アダムもレンカのほうを見ていて、目が「触るな」と言っていた。レンカは肩をすくめて、グラスの水を飲み干すと、アダムのほうへ近づいていった。
 レンカが帰って来ても電話を終わらせなかったことからして、レンカに聞かれても支障のない話をしているのだろうと思われた。電話の相手を予想しながら、レンカはアダムの右腕と脇腹の間に入り込んで身を寄せ、アダムの胸に頭を預けた。アダムが言葉を発すると、その声の振動が伝わってきて心地よかったが、アダムはあまり話さず相手の話を聞いていた。相手はカーロイでもティーナでもないな、とレンカは思った。カーロイやティーナと話す時は、アダムは事あるごとに文句をつけ、黙っている時間は短い。サシャと話す時は、たいていアダムが何かを頼んでいるので、やはりサシャの話を聞くよりも話す時間のほうが長い。サシャのことを思った瞬間、レンカはまた少し気持ちが沈んでいくのを感じた。
 サシャがICTYで働いていた期間も現役のGRUのスパイであり、現在もGRUに使われている身だ、という話をヴァレンティンに聞かされて以来、レンカはサシャのことを考えるたびに気持ちが暗くなる。サシャが自分に嘘をついていた、という思いと、止むを得なかったのだ、カフカの四人にも伝えていなかったのだから、どのみち自分なんかに教えてくれるはずはなかったのだ、という思いが入り混じって、答えの出ない思考の迷宮に入り込んでしまう。アダムはサシャの話を聞いても、さして驚いているようには見えなかった。自分はまだまだ相当な未熟者だということか、とレンカは思った。サシャもエミルも、レンカが大きな信頼を寄せている人たちで、その信頼があまりに大きいためか、思い描いていたのと違う側面を見せられると動揺してしまう。今度サシャに会ったら、今までと同じように接することができるだろうか?今までと同じ?この十年で、サシャに会ったのは二回、電話では何度も話してはいるものの、最後に顔を見たのは五年前だ。何もなくても人というのは多少なりとも変わっているくらいの年月の長さではないか?そこまで考えたところで、そんなことよりも、サシャにもう一度会えるかどうかが、今は最重要事項なのではないか、と思い至り、背筋が寒くなった。そんなレンカの心の中を読んでいたかのように、いつの間にかレンカの肩に置かれていたアダムの手に少し力が入り、レンカは我に返った。アダムの電話は終わっていた。
 レンカはアダムに預けきっていた上体を起こすと、アダムのほうに向き直り
「お帰り。今日プラハに戻るなんて言ってなかったのに」
と言った。アダムは
「お前には言わなくても分かるだろうと思っていたんだが」
と返した。アダムのその言葉が、レンカのエミルに対する「言わなくても分かってくれているだろう」という思い込みに重なって、レンカは少し顔を曇らせた。
 アダムは怪訝そうな顔をしながら
「昨日の交渉はどうだったんだ」
と聞いた。
「まだ交渉とも言えないくらいの話し合いだったわ。大雑把な依頼内容を聞かされただけ」
「それで、その大雑把な依頼内容っていうのは何だったんだ?」
「来月辺りにある武器の密輸を妨害してほしい。場所はスロヴァキア国境。確実な情報はこれだけよ」
「スロヴァキア国境って言っても、どの国と接した国境なんだ。可能性は五つもあるぞ」
「お客さんにも、それが分かってないみたい。彼の望みとしては、購入側を邪魔したいだけで、誰が売り手なのかもまだ不明らしいわ」
「しかし何だ、要求が随分と荒業だな。以前はそんなことを言ってくる奴じゃなかっただろう。やっぱりあれか、六月の話を聞きつけて、このくらいのことは難なく片付けられると踏まれたか」
 今年五月から六月にかけてバルカンを賑わせた盗難騒ぎは、レンカ・ハルトマノヴァーが誰にも一銭も支払うことなく盗難品を手中に収めて終わった、と裏社会の広範囲に渡って噂されるところとなっていた。そして噂する人々にとって最大の謎は、ハルトマノヴァーの手に落ちた証拠品はその後どこへ消えたのか、だった。
「働いたのは結局アダムとエミルで、私は何もしなかったのにね」
「いや、お前があの優男に顔が利かなかったら、最後のは手に入ってなかったぞ」
「それも結局、提出されなかったみたいだけど?」
 ヴァレンティンはアダムとティーナから盗難物の全てを受け取った後、ICTYへの提出分と、自分の手元に残しておくものに仕分けをした。ヴァレンティンは「今後の僕たちの活動に役に立ってくれそうなものが、けっこうあったからね」と笑った。その"僕たちの活動に役に立ちそうなもの"には、イリヤ・ドリャンが隠し持っていた最後の証拠品も含まれていた。
 アダムは左手に握ったままだったスマートフォンをソファの側のテーブルの上に置くと
「俺は明日からまたプラハを離れるぞ」
と言って、レンカの顔を見た。
「何だ、あからさまにがっかりした顔をするな。お前も明日から移動だろうが」
「だって、エミルが……」
 アダムは訝しげな顔でレンカを見ている。エミルがどうしたというのだ、エミルがいるから安心してプラハを空けられるんじゃないのか、そんなことを言っているような顔だ。レンカは、自分がプラハを離れる数日間アダムにエミルの傍に付いていてもらったからと言って、何が変わるというのだ、と自分の発想に呆れつつも、再び口を開いた。
「エミルね、女がいるの」
 つい一日前、ジョフィエが使って度肝を抜かれた表現が自分の口からこぼれ落ちたことに、レンカは狼狽した。アダムは一瞬、レンカの言っていることが理解できなかったかのようだったが、すぐにニヤリと笑った。
「お前、それはそんな深刻な顔をして俺に報告することか?あれだけ器用な男なんだ、女の一人や二人、いてもおかしくないだろう」
「一人や二人って……」
「おい、そこに引っかかるな。言ってみただけだ。何が問題なんだ、お前が口を出すことじゃないだろう」
「だって、射撃場で知り合ったらしいのよ……そんなの、心配になるじゃない」
 心もとなくレンカがそう言うと、アダムの顔からは笑いが消えたが、ただ静かに
「一般人の銃器の所持っていうのは、自己防衛のために免許を取ってる人間が多い」
とだけ返した。レンカは、エミルも全く同じことを言ったな、と思いながらアダムから目を逸らした。
 アダムはレンカの顔を観察しながら
「そんなに気になるのか?」
と聞いた。レンカは黙って頷いた。
「エミルの通ってるところは、二十四時間開いてるって言ってたよな?」
 アダムがそう聞くと、レンカはもう一度頷いてから、再びアダムの顔に視線を戻し、暫く見つめて、また口を開いた。
「私は、不器用で良かったわ」
「何の話だ」
「二人も、いないもの」
「お前も変なところでしつこいな」
 アダムは半分呆れた顔をしてレンカのほうに手を伸ばすと、レンカの髪を、それから頬を撫でて
「俺も不器用で良かった」
と笑いながら言った。そしてキッチンのほうへ目をやり
「そう言えば、俺は飯を作ってるんだったな」
と言って立ち上がった。
「私も手伝ったほうがいいかしら?」
とレンカが聞くと、アダムは
「いい。下手くそには手伝わせん。お前は明日からの仕事の予習をしておけ」
と返して、料理を再開した。
 レンカは暫くソファに座ったまま、アダムを見つめていた。アダムが料理をしている姿は、レンカにとって珍しいものではない。十三年前、レンカがアダムの目の前で倒れた時、レンカの体が食べることを拒否して既に一ヶ月ほどが経っていた。そんな状態の体にいきなり通常の食事を詰め込もうとしたところで、受け付けない。レンカは医者には行きたくないと言う。アダムは「参ったな」と言いながら、レンカに食事を作ってやることにした。当時レンカはアダムのことを「まるで巣から落ちた雛の面倒を見ているみたいだ」と思い、実際大して変わりはない、アダムは自分に同情してずっと一緒にいてくれることにしたのだ、と思い込んでその後も過ごしてきた。でも、アダムの自分に対する感情はあの頃からそれだけじゃなかったのかな、そうだといいな、と今になってそんな期待のようなものが心の中に顔を出すようになってはいたが、アダムに直接尋ねたことはなかった。
 アダムを眺めながら再び思考の海に囚われそうになったレンカは、いい加減何かを始めないとアダムに小言を言われるだろうと思い、慌てて腰を上げた。


その名はカフカ Disonance 7へ続く


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