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その名はカフカ Disonance 5

その名はカフカ Disonance 4


2014年9月プラハ

「二年後、というのは、ちょいと早すぎやしないか」
というのが、レンカがハルトマン病院長が約束してくれた契約解消の話を伝えた時のアダムの最初の反応だった。レンカの今の境遇を一番嫌がっているのはアダムだろうと思い込んでいたレンカは拍子抜けしたが、確かにこの契約はアダムが下げたくない頭を下げてレンカの身の安全と地位の強化のために獲得したもので、そんな風に勝手に解約の話を取り決められても易々と承諾できないのは当然だろう。アダムは「お前が健気にも一人で乗り込んできたから、同情して調子のいいことを言ってくれたんだろうが」と前置きをしてから、「病院長とは俺がもう一度話をしてくる」と言って、その話を終わらせた。レンカは自分もついて行きたい、と言いたかったが、アダムの表情がそれを許してくれそうになかったので、口にはしなかった。
 こんなことになるなら病院長の養子にしてもらっておけば良かった、と六月の訪問以来、病院長への信頼と尊敬の念を抱いているレンカは自身の事務室の窓を開けながら心の中で独り言ちたが、ほぼ同時に父の顔が思い浮かび、顔をしかめた。窓からは秋の早朝の爽やかな空気が流れ込んできた。アダムはこの数日、プラハを空けている。エミルは昨日、泊まり込みで仕事をしていたようだが、レンカが出勤した時には事務所にはいなかった。きっと朝食でも買いに出ているのだろう、と思いながら、レンカはまず換気をすることにした。来月になれば、朝は霧が立ち込めるようになるだろう、楽しみだな、と思ったところで、玄関ドアが開錠する音がした。
 レンカが事務室を出ると、エミルは既に彼の仕事場である受付カウンターの側に立っていた。エミルは爽やかな笑顔で
「おはようございます、レニ。今日は早いんですね」
と言うとカウンターの内側に回って軽くキーボードを叩き、パソコンのモニターを表示させた。
「おはよう。昨日の録音、聞いておいてくれた?」
「軽く一回流しただけですから、まだ何とも言い難いですが、お客さんの要求、というかお客さんの状況把握自体もまだ抽象的ですね」
「私もそう思うんだけど、ああいった場所だから、詳細を口にするのは避けたかった、ってことかもね」
「なるほど」
 いつもと変わらない落ち着いた様子のエミルを前にして、レンカは昨日の面会の前に起きた出来事について話すべきかどうか、迷っていた。エミルは立ったままモニターを見ていたが、レンカのほうへ顔を上げると
「レニ、どうかしましたか?」
と聞いた。結局、この子の前では隠し事はできないのだな、とレンカは心の中でため息をつき、一呼吸分の間を置いてから
「昨日ね、あなたの妹さんが、私に会いに来たの」
と言った。
 エミルは一瞬何を言われたのか分からなかったかのような顔をしたが、次の瞬間、目を見開くと、まるで叫び出すのを押さえるかのように、左手を口に押し当てた。
「それは……大変申し訳ありませんでした、あの、何か失礼がありましたか、いや、失礼があったに決まっているんですけど……一体、何を考えてるんだ、あの子は」
とエミルは動揺を隠せない様子で謝罪し、レンカから目を逸らすと、今度は左手の指先でこめかみを抑えた。
 あまりに恐縮するエミルを前にして、レンカは自分のほうが申し訳ない気持ちになってきた。ジョフィエが世間一般から要求される礼儀作法を身につけていないからと言って、エミルに責任があるとは言えない。彼らが両親を失った時、エミルはまだ高校生だったのだ。幼い妹に、一体何を教えることができたというのだろう。逆に、エミルがこのように礼儀正しい青年に成長したことのほうが不思議だった。それは、この社会で親の支えのない条件下で生き延びるために身につけた処世術なのかもしれないが、レンカ自身は、エミルは幼いころからこのような性格だったのではないかという気がしていた。
 エミルは最初の衝撃が過ぎ去ると、持ち前の切り替えの早さで冷静な表情に戻り
「レニ、ジョフィエが作った機械で昨日身につけていたもの、全部見せてもらえますか。もしかすると変な機能を残しているかもしれない」
と言った。レンカは
「昨日はこれだけよ。電源は入れてなかったわ」
と答えながらポケットに入れていたイヤホンをエミルに手渡した。
 エミルは
「他にレニの居場所を特定できる方法なんてないと思うんですけど。電源は切っていたわけですね」
と言ってイヤホンをいじり始め、そこから目を離さず
「それで、何を言ってきたんですか、あの子」
と聞いた。
「私のところで、働きたいんですって」
「……どういう発想なんだろう。前も言いましたけど、あの子、他に収入源はあるんですよ」
「なるべく、あなたと一緒にいたいんじゃないかしら」
「いろいろと忙しくしてると、家にはなかなか帰れませんからね」
「あなたが家を出るかもしれないって……心配していたわ」
 レンカがそう言うと、エミルは一瞬動きを止めた後、イヤホンをカウンターの上に置き、ゆっくりと顔を上げて、レンカの目を見た。レンカは、「ああ、変なところを踏んだ気がする」と思った。
「理由は言っていましたか?どうして僕が家を出るかもしれないと思っているのか」
 レンカはエミルの質問に、即座に答えることができなかった。エミルの目には既に見えているのかもしれないが、言葉は自分で選ばなければいけない。
「……お付き合いしてる人のところに、引っ越すかもしれないからって」
「へえ」
 どういう意味がこもった「へえ」なのだろう。ひどく冷たく響いたエミルの「へえ」という返事にレンカは少なからず混乱し、どう会話を続けたらいいのかと狼狽えた。
「それ、本当なの?」
 計らずもこぼれ出たとでもいった面持ちのレンカの質問に、エミルは口の端だけ歪めて笑った。
「珍しいですね、レニが僕のプライベートに興味を示すなんて。何ですか、僕に大切なものが増えるのが嫌なんですか」
 レンカは、エミルが何を言っているのか、理解できなかった。
「だって、そうでしょう?レニが僕を選んだ最大の理由は、家族が小さいから、僕に何かあっても騒ぐ人間が少ないから、ですもんね」
「何を、言っているの?そんな……そんなわけないじゃない。おかしなこと言いださないでよ」
 レンカは驚きのあまり、言葉を続けられなかった。レンカがエミルを秘書に抜擢した理由を、エミルがそんな風に思っていたとは想像もしていなかった。レンカはエミルを見出した時、文字通り興奮したのだ。こんな才能を持った人間は後にも先にも見つからないだろう、絶対に手に入れなければ、そう思った。今できないことも、要求すればすぐに習得してくれるであろうことも、レンカの目には明白だった。何年も感情の起伏らしいものがなくなっていたレンカが「この大学生の男の子をどうしても雇いたい」と目を輝かせて報告した時のアダムの不思議そうな顔を、今でもありありと思い出すことができる。そして実際に仕事が始まると、エミルは期待以上の働きをする人間だった。
 レンカは今更ながら、今までエミルを直接褒めたことが一度もないことを自覚した。才能のある人に「君は才能がある」などと伝えるのは余計なことのように思っていた。レンカは、今すぐエミルに言葉を尽くして伝えたかった、「私はあなたの才能に惚れ込んであなたを採用したのだ、あなたじゃなくてはいけなかったのだ」と。しかし今、冷たい視線をレンカに注ぎ込んでいるエミルには、何を言ってもレンカの意図した通りには言葉を受け取ってもらえそうになかった。
 それでもレンカは何かを言わなくてはいけないような気がして、口を開いた。
「ごめんなさいね。ちょっと、びっくりしたの。だってエミル、いつも仕事してるか、時間ができれば射撃場に練習に通ってるじゃない?どこでそんな……」
出会いがあるのか、と続けようとして、レンカは動きを止め、目を見張った。
「あなた、まさか……」
「射撃をするっていうだけで、いきなり危険視することはないでしょう?ちゃんと免許を持っている人ですよ?」
「でも、なんでそんな、そんなものを持つ必要のある人なの?」
 自分は首を突っ込みすぎているのだろうか?そんなことはないだろう、上司である自分がエミルの心配をして何が悪い?レンカは混乱した言葉が飛び交う心を抑えながら、エミルを見つめた。せめて、自分はエミルを非難しているのではなく心配しているのだ、ということが伝わってくれれば、と願った。
「レニ、一般の人で銃を携帯しようっていう意思のある人は、たいてい自己防衛です。そういう人、多いんですよ。仕事で使ってる人なんて、そんなにいません」
 レンカは、エミルの静かな話し方が、逆に彼女の不安を煽っているような気がした。
「つまり、自分で自分の身を守ることができる人です。もちろん、僕がどこで誰のために働いているのかは知らせていません」
 そう言うと、エミルは「この話はここまで」とでも言うかのように腰を下ろし、仕事に取りかかった。
 レンカは、半ば後ずさりをするかのような体勢で自分の事務室に戻った。ドアはいつも通り、開け放しておいた。これでドアを閉めてしまったら、まるで自分がエミルに対して怒っているようではないか、と思った。レンカは自分の心の中を探って、どうしてこんなに悲しいんだろう、と考えた。答えは明白だ。初めてエミルを怒らせてしまった、その事実が悲しいのだ。今までも、エミルがレンカに怒ることはあった。しかしそれはいつも、エミルがレンカを心配して結果的にエミルが怒っている構図を作り出していただけのことだった。これでは昨日、「エミルが怒ると楽しい」と言っていたジョフィエと、何ら変わりはないではないか。ジョフィエもレンカも、「エミルが怒るのは心配してくれている時だけ」と信じきって安心しているのだ。
 レンカがエミルを雇ってもうすぐ七年になる。この七年間、エミルが彼自身に関することで気分を害している姿を目の当たりにする機会は一度もなかった。レンカは、エミルが外に出したくない、レンカには見せないようにしていた一面を垣間見てしまったような気がして、気分が沈んだ。そして、今まであまりにもエミルの「なんでも見えてしまう、読み取れてしまう力」に頼りすぎていたことを思い知った。エミルには採用理由なんて説明しなくても分かってくれているだろう、と思い込んでいたが、実のところ、大きな誤解をしている。それは、エミルは自分のこととなると、他者を観察する時とは違って、ほとんど何も正確には見えなくなってしまう、ということを意味しているのだろうか。
 エミルは、自分のことになると、何も見えていない。その一言が心の中に浮かんだ瞬間、レンカは更に不安が大きくなるのを抑えられなくなった。


その名はカフカ Disonance 6へ続く


『Horko v oku ďábla』 DFD 21 x 29,7 cm、ボールペン



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