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その名はカフカ Disonance 4

その名はカフカ Disonance 3


2014年9月ハンブルク

 北海に流れ込むエルベ川に河川港を抱くドイツ北部の街ハンブルクでは、日々大小様々な船が行き来している。そのうちの一つ、クルーズ客船としては小さめの、しかし贅沢な造りをした旅客船の一室で、サシャは一人の初老の男と向かい合って座っていた。男と会うのはいつも船上で、指定された場所に泊まっているのは毎回違う船だった。
 サシャがその男と知り合って既に二十年以上経つが、男の外見は髪に白いものが増えたくらいしか変化が見られない。常に気を張り詰めている職業柄、年が取れないということだろうか。逆に心労が過ぎると早く老化が進む場合もあるだろう。自分はどうなのだろう?比較的色が強めのブロンドの髪の間には白髪が増えてきた気もするが、そう目立つわけでもない。しかし老化とは頭髪だけに現れるものではないのだから、この数年顔を合わせていないアダムやカーロイ、ティーナと再会したら、やはりお互い「老けたな」と言い合うのだろうか。サシャは自分がテーブルの上に置いた封筒を男が手に取り、アタッシュケースの中にしまうのを眺めながら、変なところに思考が飛んだものだな、と心の中で自嘲気味に笑った。
 男はアタッシュケースを床に下ろすと、顔を上げてサシャの目を見て話し始めた。
「アレクサンドル・ニコライェヴィチ、そろそろこの茶番も終わりが近づいてきている」
「……どの、茶番でしょうか?」
「近々ドイツ支局には新しい局長が派遣され、私は本国に戻される。これ以上お前の芝居の片棒を担いでやるわけにはいかん」
「申し訳ございません」
「私が聞きたいのは謝罪ではない。本部では誰一人としてお前を非難している者はいない。堂々と昔のように仕事ができるというのに、何をいつまでも懺悔のふりをしている?」
「今の協力関係では、充分ではありませんか?」
「充分なわけがないだろう。お前は今、自分の能力の百分の一も使っていない。ほとんどままごとみたいなものだ、お前がGRUのためにしていることは」
 これまで何年も繰り返されてきた上官との会話にサシャはうんざりしていたが、局長が近々移動するというのが事実なら、確かに何らかの行動を起こすべき時が来ているのだろう、しかしどんなに足掻いてもGRUは自分を解放しようとはしない、この状況から逃れるために一体何ができるというのか、とやはりこれまで何度も繰り返した言葉が頭の中で交錯し、ため息が出そうになった。
 2001年の反体制派への加担は、サシャが母国の軍事機密機関から脱出する決定打になるはずだった。その後数年間は、実際にロシア国籍も捨て、ロンドンで亡命生活を送っていた。しかし、サシャを陸軍の下級士官からSPECNAZ(特殊任務部隊)へ、そしてGRUへと引き上げ重用してきた上官がGRU西欧駐在局へ赴任してきてから、にわかに様子が変わり始めた。いつの間にかサシャのロシア国籍は復活しており、護衛に付けていた部下も勝手に入れ替えられた。そしてGRUから任務が課せられるようになった。遂行しないわけにはいかなかった。サシャの周りにいるのは護衛とは名ばかりで、実質、監視役だった。
 サシャは話し続けている局長から目を逸らさなかった。GRUに入局し、スパイに仕立てあげられる第一段階で習得しなければならなかったことの一つに「話す時は必ず相手の目を見ろ、ただし自分の腹のうちは絶対に明かすな」というものがある。しかし相手がこの男では、お互い何を考えているのか何も見えないな、とサシャは心の中で独り言ちた。

 サシャが面談室から出ると、三人の護衛はサシャが入室した時と同じ立ち位置で待機していた。サシャが廊下を左手のほうへ歩き始めると、三人のうちの一人はサシャの右隣に、後の二人は後ろに付いた。
 いくつかのドアの前を通り過ぎたところで、サシャは完全に閉められずに小さく隙間を開けているドアに気が付き、そのドアを通り過ぎたところで立ち止まった。
「君たちは、先に港に上がっていてくれるか?俺もすぐに追いつく」
とサシャが言うと、サシャの隣を歩いていた一番若い男が
「お言葉ですが、それは……」
と困惑した顔をした。サシャは男の顔を見やると
「アントン、いいだろう、君はここに残れ」
と言い、後の二人に
「君たちは先に行って車の準備をしておいてくれ」
と指示を出し、その二人が廊下の先の階段を上り始め見えなくなるのを確認してからアントンと呼んだ男を廊下に残して、隙間の開いたドアの前に戻って部屋の中に入り、後ろ手にドアを閉めた。
「Bună ziua, Stavrogin. Ce faci aici?」(注1)
とサシャが声をかけると、窓辺に立って水面を見つめていたヴァレンティンは嬉しそうにサシャのほうを振り返った。
「全く、君が器用な人間で助かるよ」
「ここではロシア語もドイツ語も危険だろう」
「しかし、そのおかしなあだ名はどうにかならないか。君は僕に自殺してもらいたいのかい?」
「申し訳ないね。イメージが君にぴったりなんだ。しかし実際、こんなところに潜入するなんて、自殺行為だ」
「僕は常にスリルを楽んでいたいんだ。だが、君に会うためにここ以上に安全なところがないのも事実だ。君の上司は今日、単身でこの船に乗り込み、もう出ていったようだ」
 そう言いながら、ヴァレンティンは数歩サシャのほうへ近づいた。サシャも、いくら理解される可能性が少ない言語とは言え、なるべく小声で話したほうがいいだろうと思い、ヴァレンティンのほうへ進んだ。
「俺たちの話を聞いていたのか?」
「そんなわけないじゃないか。内容はだいたい予想がつくけどね。この船の壁は音楽家の練習室顔負けの防音効果がある。それでも盗聴できてしまうくらいの聴力を持った青年が、アダムのところで働いているけど」
「それは頼もしいな。それで、何の話があるんだ?あまり時間がない。護衛の者たちを待たせている」
 サシャの言葉に、ヴァレンティンは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「君は彼らを未だに"護衛"と呼んでいるのかい?鍛錬されたGRUのスパイはどんなに昇格しても、単独行動できないわけがない。現に君の上司は今日、一人でやって来て、一人で去って行った。そりゃ、君が亡命者気分を味わっていた数年間は、周りに護衛たるものを置くのも意味があったかもしれない。しかし今や、君がGRUに完全に復帰しない限り撤去されない牢屋の見張り番だ」
「……これでもあの組織から逃れる努力は、何度も試みたつもりだ」
「そんなことは分かっている。どうして君は、いつも一人で解決しようとするんだ?なぜ僕たちを頼ろうとしない?」
「迷惑をかけたくないんだ。分かるだろう」
「君がロシア側にカフカの存在を嗅ぎつけさせないための努力は涙ぐましいものがある。実際、その成果は僕でも信じられないほどだ。2001年まで、君は自分の状況について、どんな説明をしていたのだろう?今だって、こんなにもアダムやカーロイの泣き言に応えているのに、一切それに感づかせない。全く、見事だね。……だからこそ、こんなに能力のある君だからこそ、奴らは君を手放したくないし、僕も手放したくない。ねえ、もう二股をかけられるのはうんざりなんだよ」
「どうしろと言うんだ」
「さっきから僕たちを頼ってくれと言っている。どのみち、あの上官が国に帰れば、今度こそ君は潰される可能性が高い。優秀すぎる君が他に流れるくらいなら抹殺してしまおう、とね」
 サシャはふと、十年ほど前にレンカとアダムが訪ねてきた時のことを思い出した。出会った頃に比べてあまり笑わなくなっていたレンカが「卒業証書を見せたくて」と言って嬉しそうな顔をしていた。あの時、無理をしてでも一緒に連れて帰ってもらえば良かったのかもしれない。実際、その発想がなかったわけではなかった。亡命していた元スパイが蒸発したなどという話は亡命先のイギリスでは大したニュースにもならなかっただろう。あの二人なら、喜んでサシャの手助けをしたに違いない。ただ、自分が原因でレンカとアダムに危険が及ぶのには耐えられそうになかった。その後もカーロイとティーナが数年おきにサシャに会いに来てはいたが、その訪問に便乗して逃げ出そうという気にはなれなかった。一番頻繁に訪ねてきていたのはヴァレンティンだったが、「どうせ動く気はないんだろう?」と言わんばかりの顔をして用件だけを告げて消えるのが常だった。
 サシャは一つ大きなため息をついてヴァレンティンの琥珀色に輝く瞳を見つめた。この目から何かを読み取れる人間は世界中どこを探しても見つからないだろうな、とこれまで何度も繰り返してきた言葉が頭をよぎったのを感じながら、再び口を開いた。
「俺がロシアと絶縁すれば、今使えている人間の半数は俺を見放すことになるだろう」
「君がGRUに重宝がられているからという理由でついてくる人間なんて、元々いらない。今すぐ切り捨ててもらいたいくらいだ。ICTYにいた頃から言っている。僕は君たち四人が欲しかった。君たちに付いてくるおまけなんて、最初から期待していない。今はアダムのところで、けっこう大きなおまけが成長してくれたのも事実だが」
「何の話だ?」
「君が戻れば、ハルトマノヴァーも喜ぶ」
「……それは、レンカのことか?その名字には違和感しかないな。アダムもおかしなことをしたものだ。自分の愛する女を率先して嫁にやるとは、理解に苦しむ」
「君には分かっていたのか?本人たちは、最近まで自分たちの気持ちに気が付いていなかったようだが」
「どこまで鈍いんだ」
「それは今度二人に会った時に、直接言ってやってくれたまえ」
「そもそも、レンカをこちらの世界に残しておいたということ自体が間違っている。彼女にはこんな仕事は向いていない」
「本人が望んだんだ。君はあの娘が君と文学の話をしたりカーロイとバレエ鑑賞に通ったりしながらドイツ語通訳の仕事でも見つけてのほほんと暮らす、なんて未来を思い描いていたのかい?残念ながら、彼女はそんな君たちの上辺だけをなぞって満足していられる人間ではなかったんだ」
 ヴァレンティンは一旦言葉を切ると、うっすらと微笑み、サシャの胸の真ん中から少し左寄りの位置に左手の人差し指を立てた。
「余計な話をしている暇はないんだったね。そろそろ護衛君が心配するだろう。とにかく覚悟を決めてくれ。君が奴らから離脱するのに、今を逃したらもう二度とチャンスはないかもしれない。いいかい、僕の指示には必ず従うこと。もし君がタイミングを掴んで自ら動きたくなったら、まず僕に知らせること。一人で勝負しようとするんじゃない」
 そう言うと、ヴァレンティンはサシャから離れ、「窓は内側から閉めておいてくれ」と言いながら窓を開け、窓の外に向かってひらりと飛び上がり、姿を消した。窓からは川の水しか見えなかったが、水しぶきが上がったり、水面に波紋が広がったりした様子はなかった。
 サシャは言われた通り窓を閉めると同時に、先ほどヴァレンティンの指先が触れていたジャケットの内ポケットに一封の封筒が入っているのに気が付き、苦笑しながら部屋を後にした。


その名はカフカ Disonance 5へ続く


『Milá Kavko, ty se nikdy nezastavíš』 Skitseblok A4 (flying tiger) 21 x 28 cm、水彩、水彩色鉛筆、色鉛筆


注1)
ヴァレンティンの母語であるルーマニア語で話しています。訳は「こんにちは、スタヴローギン。ここで何をしている?」
スタヴローギンはドストエフスキーの『悪霊』の主人公です。



十年前のレンカとアダムの様子はこちら↓



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