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「神の宿る山」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』補遺作品

 去年七月から、群馬県T市のマンション五階で一人住まいをしている。二年ほど前、夫に心臓病で先立たれてから、それまで二十数年間、共に住んでいた千葉市の戸建て住宅を離れて、ここT市に越してきた。夫との思い出いっぱいの家との別れは、本当に断腸の思いだった。でも夫のいない空っぽの家での一人暮らしはなお辛い。結局、息子の家から車で二、三分のこのマンションに転居してきた。

 「ここなら僕もたびたび様子を見にこれるから」と言う息子の言葉には逆らえなかった。「老いては子に従え」というから、これからは親孝行してくれる息子に感謝してここで住む決心をした。

 五階のベランダから赤城山、榛名山、妙義山などの山々が望見される。「上毛三山」と言われるだけあって、大きく美しく風格がある。街中何処を歩いても周りに山が見えるT市。五階の窓から眺める夜景の見事さ。私はこのT市がだんだん好きになってきた。

 今年一月下旬、自治会主催の新年宴会が近くの日本料理店で開かれた。三、四十人の出席だった。くじ引きで決まった座席の左隣はかなりの年輩の男性。その向こう隣も熟年の男性だった。二人とも会ったことのない人たちだった。二人の会話を聞くともなしに耳を傾けていると、どうやらどちらかの奥さんが今日はゴルフに行っていてこの会には出席できないとのことだった。

 隣の男性が一言、二言私にも話しかけてきた。「お連れ合いは?」「夫は二年程前に亡くなりました。」「そうですか。お寂しいですね。」「はい。」私は胸に迫る思いを抑えて返事をした。この男性の奥さんが羨ましかった。こんな優しいご主人がいて、しかもそのご主人をおいて一人でゴルフに行くなんて幸せな奥様。人を羨むのは良くないと思いつつも心が乱れた。私の夫は天国に昇ったきり、もう永遠に戻ってはこない。

 私は箸を持つ手を休めて一時物思いに耽っていた。そのとき私はいきなり強く両手を掴まれてはっとした。隣の年配の男性だった。彼は言った。「ご主人の代わりだと思ってください」と。夫の代わりに私の手をしっかりと握ってくれている。胸の中を熱いものが流れた。人の心の優しさに触れた。本当に夫の手のような気がした。夫の魂が蘇って私に強くい生きなさいと励ましてくれているような気がした。

 会が終わり、玄関先で別れるとき、男性が言った。何時またお会いできるかわかりませんが、これからも元気に過ごしてください」と。

 群馬県に移り住んで八か月がすぎた。友達も少しはできた。街の周囲を取り囲む山々の美しい眺めは私の心を惹きつける。そして慰めてくれる。上毛三山は雪を頂き、その向こうに聳える浅間山はさらに美しい白い雪に覆われていてその荘厳さは本当に神の宿る山といいたいくらいだ。

  二〇一二年一二月二日執筆



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