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日日自炊自足【休みの食事 と 休みのこと】

夫なし。子は独立。
自炊の習慣で自分の必要をみたす、50代ひとり暮らし。
アレルギー対策に 油をやめ(家にある油はラー油のみ)、お肉、乳製品、卵、小麦粉、お米や砂糖をなるべく減らした(い)食生活。

「家族のためのご飯」を卒業した献立の記録 と 自分を観察する日記。

金曜日、仕事から帰ってからジムへ行った。
メニューを終えて、ジム近くのマーケットに寄るのが恒例。
近頃は米を炊いておらず、食べたいと思った時はおにぎりや味付きのご飯を買うことが多い。
この日は店員さんがちょうど割引シールを張っている最中で、筍ご飯のおにぎりが40%オフ。
そろそろ季節も終わりかと、最後の一つを慌てて手に取った。

翌日は11時からジムの定期カウンセリングだった。が
数日前に娘から「おとう(わたしの元夫)来るけど、おかあも来る?」と言われており、迷っていた。
今週も娘に会ったら5週連続!?だし
元夫に積極的に会いたいか、といえばそうではない。
以前娘が「おとうとふたりだと気まずい」と言ったことで、なんとなくわたしが間に入らねば・・という使命感を抱えてしまった。
ただ、会うときはたいてい夫の奢りで焼き肉に行くので、ひとり暮らしで焼き肉に行く機会などないわたしは、ほくほくで出かけていたことも事実。

11時からジムのカウンセリングを受ければ、合流できるのは1時頃。
やっぱり難しいかもな・・と当日朝にようやく「やっぱり今日はやめとくね。」と娘に連絡すると、元夫からLINEにメッセージがが届いた。
「今娘と時間のやり取りしていたんだけど、急に今日はやっぱりやめるって返信が来て・・なんかまずいこと言ったかな?」
というので、LINEのスクリーンショットを送ってもらう。
普通に見ればなんて言うことのない会話の連続なのだけど・・
これまでに抱えていた娘のストレスが着火剤となり、小さな爆弾がいくつか破裂したようだった。

大昔間に合わせで買った100均のレジャーシート・・もどき。

元夫はこの日、病院で診察を受けた後娘宅へ向かう予定で、時間のやり取りを何度かしていた。

娘は(というかわたしもかつては)予定が変わることに強いストレスがある。
特に子育て中は思い通りにいかないことが多いからこそ、事前のシュミレーションが欠かせずそれが更に自分の首を絞める。
予定が入ってもぎりぎりまで子供には伝えず、水面下で準備。
相手の事情や子供自身の体調不良でキャンセルになった場合の子供の落胆を、自分の怒りを含んだ落胆を最小限に抑えるためだ(わたしの場合)。

それが今回、娘は元夫とわたしの間にはいり、予定を調整し・・という間に限界に達したのだろう。
わたしが電話をすると娘は「誰にも会いたくない」と言いながら泣いており、誰も来なくなったと知ったお孫様も後ろで大泣きしていた。

あぁしんどい。
だからこそわたしの「助けなきゃ」は増してしまう。
本当はジムのあとしたいことがあったけれど・・カウンセリングも早めに切り上げ娘に電話。
落ち着きを取り戻した娘は「公園に来た」と言い、やはり今日は誰にも会いたくないという。

わたしは重い気持ちのまま「したいこと」の、水元公園へ向かった。
食べ物や飲み物を買い込んで、レジャーに横になる。
はーーーーーーーーーーーーーーーーーー!気持ちいい!!
娘のことを思い出さぬよう努め寝て、本を読んで、ぼんやり過ごした。

家に帰ると娘宅の地名と「カウンセリング」を入力して検索する。
が、こういうところって・・土日どころか毎日やっているところも少ないのか。
仕事で週末しか受診できない人は、休みを取るのだろうか。
娘のように、旦那さんが日曜日しかいない人はどうしているのか。

パニック障害やら産前産後鬱やらと、やたらに聞く機会が増えたものの、それに対応する機関がこんなにも少ないということに驚く。

と病院を探しながら

わたしは「甘やかしていい」と思っている。でも「助けて」と言われる前の助け舟はどうんなんだ。と思い始めた。
娘が「今日は誰にも会わない」という対策を立てているのに、自分で漕ぐと言っているのに、落ちないように、揺れないように、抑えてやることはどうなんだ。

わたしの知り合いの知り合いに、50代60代で長らく働けず暮らしている人がふたりいる。
聞く限りうたれ弱く、誰かに助けられることでしか暮らせない彼ら。
知り合い曰くそのふたりの共通点が「それぞれの親の過保護」
失敗する前に助けちゃう、というものだった。

助けるって・・どこからが適正なんだろうか。
病院を探してやるではなく
「カウンセリングを受けたい」と言われたらお孫様を預かったり
「そうなんだね」と言ってやる。それでいいのかもしれない。

と、検索の手を止めた。

日曜日は朝食を食べ、お昼前にジムへ出かけた。
メニューを終えて、ジム近くのいつものカフェに入った。
娘のことを考えたり、こういうとき誰かに話したくてもちょうどよく思いつく人がいなかったりで・・わたしも気分が落ち込んでいた。
が、カフェに行って本を読んでいる人を見ただけで、なんとなくほっとした。

わたしが底の触れたからこそ浮き上がるしかなかったように、今の娘の状態だって何かのきっかけになるかもしれない。

その機会を奪ってはいけない。
と、考えるようにして、この週末はもう娘に連絡をしなかった。

ひとつの出来事に対してたくさんの視点が存在する。
でも余裕のないとき、その視点は狭まり固執してしまう。



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