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『オールド・クロック・カフェ』4杯め 「キソウテンガイを探して」(7)

第1話から読む。
前話(第6話)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
『オールド・クロック・カフェ』には、「時のコーヒー」という不思議なコーヒーがある。時計に選ばれた人しか飲めない「時のコーヒー」は、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれる。店主の桂子が姉のように慕う瑠璃が、友人の環をともなってカフェを訪れる。時のコーヒーなど信じないという環に16番の時計が鳴った。環は8歳の誕生日に、母が出て行った過去をもつ。30歳の誕生日に正孝からプロポーズされ、返事を保留している環が「時のコーヒー」で見た過去は……。
京都府立植物園の温室にあるキソウテンガイという奇妙な植物の前での、22歳の誕生日のシーンだった。

<登場人物>
  カフェの店主:桂子 
桂子が姉と慕う:瑠璃
 瑠璃の友人:環
   環のかつての恋人:松永翔   
   環の現在の恋人:正孝   


* * * Friends  * * *

 環はふた口めを啜ると、カップをソーサーの上に戻し、持ち手にかけていた指をはずした。それを合図に、スローモーションでまぶたが閉じるのと平行して椅子に背をあずけ、右に落ちていく首と頬を肩が受けとめ、ボブカットの髪が数本、唇にはりつく。その一連の流れるようなさまを、瑠璃は向かいの席で眺め「時のコーヒー」が不思議な力を発動したことを確信した。
 環は「時のコーヒー」のまどろみの中にいる。
 現在進行形で何を見て、何を思い出しているのだろうか。
 ――どうか、環が幾重にも掛けた鍵をあけ、心の鎖をほどくことができますように。


 淡い西日が聖アグネス教会のバラ窓を通過し、小ぶりのステンドグラスが中央通路に光の色を躍らせていた。平安女学院の高校生だった瑠璃と環は、シスターの許しを得て、冬の放課後、礼拝堂の硬い木の長椅子に並んで腰かけた。その日は環の17歳の誕生日だった。
「ちょっと放課後つきあって」
 昼休みの終わりを告げるチャイムの音にまぎれるように、環が瑠璃の肩をつかんでささやいた。ひじまである長いストレートの黒髪が風にあおられ環の顔をおおう。瑠璃からは表情が見えなかったけれど、声にためらうようなかげりがあった。瑠璃は「オッケー」と言う代わりに、環の前で親指を突き上げ、了解のサムアップのしぐさをした。

 向かった先が礼拝堂なのに驚いた。
 聖アグネス教会は瑠璃の憧れの場所で、このチャペルがあるから平安女学院に進学したくらいだ。ここで結婚式をあげる。それが瑠璃の幼いころからの夢。チャペルに一歩入るだけで、瑠璃の胸は弾む。
 赤レンガの教会は交通量の多い烏丸通からすまどおりに面しているが、一歩中に入ると静謐せいひつが支配する。外界と画するしんとした空気が、瑠璃は好きだ。立ち止まって高い天井を見上げる。前をすたすたと歩む環は平静を装ってはいてもどこかぎこちなく、祭壇から3列めの長椅子を選んだ。

 美人なのに自覚がなく無愛想な環と、愛らしい顔立ちなのにサバサバした性格の瑠璃は、学内でも目立つ存在で、だからというのでもないけれど、磁石のN極とS極が引かれあうように、気づくと親友と呼んでもいいほどの仲になっていた。他人に隙を見せない環が、唯一、心を許しているのが瑠璃だ。父一人、娘一人という家族の相似形も作用していたのだと思う。

「瑠璃には、ちゃんと話しておこうと思って。というか、聞いてほしくて」
 そう前置きして、底冷えのするチャペルの硬い椅子に腰骨から背筋をぴんと伸ばして座り、祭壇を見つめ、環は8歳の誕生日に何が起きたかを感情を揺らすことなく語った。母が見知らぬ男と姿を消した日の記憶を。めちゃくちゃになってしまった誕生日を。視線を祭壇に据えて淡々と。
 その内容に驚愕し瑠璃はかける言葉を見つけられず、ただ聞くしかできなかった。「誕生日は嫌い」と環は抑揚をつけずに明かす。でも、お父さんには言えない。気にしてるから。「それでね」と、ようやく瑠璃のほうに向き直り、「みんなからの誕生日プレゼントを抱えて、今日も、とびっきりの笑顔で帰るんだ」と切れ長の目を細めて静かに笑った。
 おそらく、と瑠璃は思う。知って欲しかったのだ、環は。幼い日に負った傷と行き先を見失った感情のことを。ずっと守ってきてくれた父には言えないことを。言ってもいい相手が欲しかったのだと。

 瑠璃は5歳のときに母を交通事故で亡くした。母が恋しくて何度も泣いたけれど、しだいに時間が気持ちをなだらかにしてくれたし、何よりも母との記憶は美しいままで、いつでも瑠璃をなぐさめてくれる。二度と会うことはかなわないけれど。
 でも環は。母のいない穴を、母の思い出で補うことができない。
 それなのに。記憶の奥底に閉じ込めてしまいたいはずの8歳の誕生日のことを鮮明に覚えている。ううん、忘れまいとしている、たぶん。目を逸らしたら負けだとでもいうように。母を忌避し嫌悪し、そして渇望しているのだ、たぶん。 

 瑠璃は環の寝顔を眺めながら、少し冷えたコーヒーを啜っていた。
 ――いちばん忘れたい記憶を覚えているのに、これ以上何を思い出すことがあるの。
 環の言葉を反芻する。あれ以上に、記憶の奥底に押し込めて忘れたい何があったのだろう。
 つーっとひと筋、環の頬を涙が流れた。
 あわてて瑠璃は古時計を振り返る。

 ぼーん、ぼーん、ぼーん。

 環がゆっくりと目をあける。
「おかえり。何か思い出した?」 
「22歳の誕生日」
「そう。で、なんで涙流してるん?」
 はい、と瑠璃はハンカチを渡す。えっ? 環は気づいてなかったのだろう、あわてて中指で目尻をこする。
「……続き、も……思い出したから」
 22歳の誕生日に植物園の温室であったことを環は語った。
 キソウテンガイという2枚の葉だけで2000年も生きる奇妙な植物があること。恋人だった翔が、誕生日と知らなかったのに、アクセサリーをプレゼントしてくれたこと。はじめて「愛してる」といってキスされたこと。そして……翔はキソウテンガイの研究をしにナビブ砂漠に旅立ったこと。
 事実だけをただ淡々と。

 あの日、帰宅するとすぐに、環は翔からのプレゼントを開けた。
 角が少しへこんでリボンも型崩れした箱に、白い革のジュエリーボックスが収められていた。そっと取り出すと、中央に小さなメレダイヤがひと粒ついたプラチナのリングが姿を現した。
 驚いて口もとを両手で押さえ、瞳がまたたく。胸を小さく弾ませがら、そっと右手の指でつまんで、左手の薬指に嵌めてみる。
 するりと落ちる。ぶかぶかだ。中指でも大きい。
 サイズがまったく合っていない。ペンダントトップにするしかないわね。無頓着な翔らしくて、クスっと笑みがこぼれる。
 ――お礼を言わなくっちゃ。
 当時はまだ二つ折りだった携帯をあけ、翔の番号を押す。3度でコール音がとぎれた。「翔、ありが…」言いかけた環の声に機械音声が重なる。
 ――現在、電波ノ届カナイ場所ニアルカ、電源ガ入ッテイナイタメ……
 口を半端に開けたまま、言いかけた礼の言葉と胸の高鳴りがくうに消える。
 しかたないわね。あとでかけ直そう。
 だが、その夜、何度かけ直しても無機質な機械音が流れるばかりで、気づけば日付が変わっていた。お礼は体温のないテキストメッセージではなく、直接伝えたかったけれど、しかたない、メールを残しておけば気づいた翔から電話がかかるかも。
 けれど、どんなに待っても、朝まで携帯が鳴ることはなかった。
 翌朝、陽がのぼるのを待ちかねて、出町柳の翔の下宿を訪ねた。
 ブザーを鳴らしても扉をノックしても反応がない。携帯電話は相変わらずの機械音を吐き続ける。研究室で徹夜してるのかも、あり得るわ。環は研究室へ急いだ。

「環ちゃん、どないしたん、こんな朝早うから」
 標本や資料の散乱した研究室から、ぼさぼさの頭を掻き、あくびをしながら出て来たのは、翔の同僚の安本だった。
「あの、翔、松永さんは」
「あれ、翔から聞いてへんか? あいつは昨日、ナミビアに向けて日本を発ったはずやけど。なあ」
 言いながら、安本は部屋の奥に声をかける。
「翔先輩、ルフトハンザの最終便に乗るって言ってはりましたよ。ミュンヘン経由でナミビアに行くって」
 何日も風呂に入ってなさそうな姿の男が、山積みの資料のすきまから顔を出した。
「ナミビア大学に行くことになったって、昨日聞いたところで。まさか、昨日、出発だとは思ってなくて」
 環がおずおずと答える。
「ええ、なんじゃそりゃ。もう、あいつは、いっつも肝心なところが抜けとるんや。まだフライト中やから携帯はつながらんな。連絡あったら、伝えとくわ」
「すみません、ありがとうございます」
 それから、どうやって家まで帰ったか覚えていない。
 ――また、捨てられた。また、捨てられた。また、捨てられた。また、捨てられた。また、捨てられた。また、捨てられた。また、……
 その一文が経文のごとく、ぐるぐると脳の奥で壊れたレコードさながら繰り返し繰り返し繰り返し回り続けた。 

「えっ。それで?」
「それっきりよ」
「メールの返事はなかったん?」
「着拒にした。それっきり、忘れた」
 瑠璃は呆然とした。8歳の誕生日に追い打ちをかける記憶。
 パンドラの箱を開けさせたのは、私だ。「時のコーヒー」を飲めと強要したのは、私やもの。どうして、環にそんな辛い記憶を見せたの。どうして。瑠璃は激しく後悔し、そのやるせない思いをこめて16番の時計をにらみあげる。
 瑠璃は環に視線を戻す。
「その翔さんからのプレゼントは、まだ持ってる?」
「たぶん。クローゼットの奥に突っ込んでると思う」
「それ持って、北山の植物園に行こ」
「指輪とキスと、置き去りにした意図を確かめに行こ」
「もう、いい。誕生日に、私は二度も大切な人に捨てられた。それだけのこと。それ以上、どんな意味があるっていうの」
 環が瑠璃をにらみ、そして、ぷいっと視線をはずし、かすかに顎をあげて天井をにらむ。横を向いた頬がぴくぴくと小さく痙攣している。
 環は涙をこらえている。これまでも、そうしてきたように。彼女のプライドが感情を押し込める。それを解きほぐしてあげたい。

「正孝さんのプロポーズを受けるにしても。翔さんへの気持ちに、ちゃんとケリをつけんと前に進まれへんのと、ちゃう?」
「結果には原因があるんやろ。それを確かめに行こ」

(to be continued)

第8話(8)に続く→


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