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『オールド・クロック・カフェ』4杯め 「キソウテンガイを探して」(6)

第1話から読む。
前話(第5話)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
八坂の塔の近く、古い町家を改装した『オールド・クロック・カフェ』には、「時のコーヒー」という不思議なコーヒーがある。時計に選ばれた人しか飲めない「時のコーヒー」は、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれるという。店主の桂子が姉のように慕う瑠璃が、友人の環をともなってカフェを訪れる。「結果には原因がある」が信条の環は、時のコーヒーなど信じないという。ところが、16番の古時計が鳴った。
環は8歳の誕生日に、母が出て行ったという過去をもつ。
30歳の誕生日に正孝からプロポーズされ、返事を保留している環は、ようやく「時のコーヒー」を飲む決心をした。

<登場人物>
  カフェの店主:桂子 
桂子が姉と慕う:瑠璃
 瑠璃の友人:環
   環の恋人:正孝


* * * Time Coffee * * *

「お待たせしました。16番の時のコーヒーです」
 白磁に緑でエキゾチックな植物柄が描かれたカップがふたつ、環と瑠璃の前に置かれた。
 白くもやる湯気が肢体をくねらせて昇り、あらわれては立ち消えしている。白いニンフたちが群舞を舞っているようだ、と環は思った。丁寧に焙煎した豆がくゆらせる熟した果実にも似た薫りが、環の緊張を胸の奥からときほぐす。漆黒の水面は、底からの対流でゆらゆらと揺れていた。
「うーん、いい薫り」
 瑠璃がカップを持ちあげ、口もとでゆらし、満足げな笑みを浮かべる。
 瑠璃が口をつけるのを見て、環もカップに手をかけた。
 ほんとうに不思議が起こるのだろうか。
「言い忘れてましたが。時計の鳴った時刻が記憶に関係しているそうです」
 言いながら、桂子が首をそらして古時計を見る。
 針は斜めに開いて、4時50分を指している。
「あの時刻に覚えはありませんか」
「数字は好きだから、重要な数は覚えているほうだけど。ごめんなさい。わからないわ」
 環が首をふる。
 だいたい何を忘れているというのだろう。生まれてからのすべてを記憶しているというほど傲慢ではないけれど。記憶力には自信がある。得体のしれないコーヒーの力にすがるほどのことなど、何もない。説明のつかない不思議なんて、この世にはないはずよ。
 環はカップを持ち上げ、「どうってことない」と自らに言い聞かせ、瑠璃たちに動揺を悟られることのないよう、さりげない所作でひと口、喉に流し込んだ。
 味覚芽は舌にあるというが。幾重にも折りたたまれた酸味やコク、ほろ苦い甘みが口の内側でほどけ、舌の上だけでなく、口の隅々に広がり喉を滑りおりていく。おいしい。
 ほぉっと、環はひとつ深い吐息をもらす。
 ほら、何も起こらないじゃない。
 緊張が胸からはずれて、気分が軽くなる。口の端に余裕の笑みを浮かべながら、2口めをゆっくりと味わう。
 確かな意識があったのは、そこまでだった。

* * * ☕ * * *

 ぼーん、ぼーん、ぼーん。鼓膜の奥で時計が鳴っている。
 そのくぐもった音が潮のごとく引いていくと、むせるような熱気が、環の五感を刺激してきた。暑い。だるまストーブのやわらかな温もりではない。じっとりと腋の下が汗ばみ、襟足をハンカチでぬぐいたくなる。だが、何も見えない。動かすべき手も、有るのか無いのかわからない。意識だけが宙に浮いているようだ、と思ったとたん、それまで暗かった視界の中央に、赤茶色のでこぼこした肉厚で大きな唇のようなものが浮かびあがった。あれは何? じっくり観察しようと意識を集中した瞬間、その穴から突じょ、熱帯植物のシダやツタを思わせる緑が次々に出現し、好き勝手に、縦横無尽に、うねうねと広がり絡まり、たちまち画面のすべてを覆いつくすと、急にフラッシュがはじけたような眩しい光が降りそそぎ、視界が開けた。

 閃光が霧散すると現れたのは、繁茂する緑だった。ジャングルに生い繁る巨大なシダやソテツ、メキシコの平原に並ぶ棘だらけのサボテン、熟す前のバナナは緑の房をたわわに提げている。その鬱蒼うっそうとした熱量の多い緑のあいまから、派手で色鮮やかな花が、あるものは房となって垂れ下がり、あるものは巨大な花弁をこれみよがしに開き、あるものは繊細な糸の束を風にゆらしている。
 冬のさなかに目にする光景としては異様だった。
 ここは、どこで、季節はいつだろう。
 視線を斜め上にあげると、ガラス張りの屋根が見えた。
 そうか、ここは、北山にある植物園の温室ね。
 それほど強くはない陽ざしが通過するガラスの天井から、視線をゆっくりと降ろすと、モスグリーンのコートを右手にかけて佇む女性の姿が目に入った。白いモヘアのセーターにオレンジのスカートを合わせ、ベージュのヒールを履いている。植物園の温室にはそぐわない格好だが、あれは私だ。
 その足もとで、大きなリュックを背負い、グレーのダウンジャケットを無造作に着てうずくまっている男がいる。かつての恋人の松永翔だ。
 これは……22歳の誕生日だ。

 人数合わせのために頼まれ、しかたなく出席した合コンで、隣に座っていたのが翔だった。彼は理学部生物学科の大学院生で、環は同じ学部の物理学科の3年生だった。
 環はどちらかというと無愛想だ。それをクールビューティと評する人もいる。場を盛りあげるためにしゃべったり、愛想笑いをしたりすることはない。他意があるわけではないが、女子校育ちというのもあって、こういう席で男性と何を話せばいいのか、わからない。だから、合コンは苦手。その夜も、いちばん奥の席に座って目の前の料理に集中していた。
 ところが、隣の翔は、おかまいなしに話しかけてくる。質問をしたり相槌を求めるというよりも、一方的に、じぶんの興味がある話題を語っていた。「人間の目は脳に騙されている」とか。「伊能忠敬は鮭の皮が好きだった」とか。役に立つのか立たないのか紙一重の雑学を次から次へと披露する。
 泳ぎ続けないと死んでしまうマグロのようだと、環は思った。
 でも、無邪気に好奇心のおもむくままに語る翔に惹かれ、気づいたら恋人になっていた。
 環が公言していた「誠実でまじめ」は当てはまるけれど、公務員の父にある「確実性」や「きっちり」とは程遠かった。物をよく失くすくせに、どうでもいいモノを拾い集め整理しない。残飯にカビが生えると喜んで顕微鏡を準備する。常識や世間の目を気にするという感覚は翔にはなく、心も発想もうらやましいくらい自由だった。
 環が「結果には原因があるのよ」というと、たいていの人は敬遠する。女のくせに頭がいいとこれだ、とあからさまに顔をしかめる人もいた。だが翔は、「それは、研究者にはたいせつな考えさ。だからこそ、不思議を解明したくなるんだよねぇ」と肯定してくれた。
 翔は、環がはじめて切なくなるような「好き」という感情を抱いた異性で、後にも先にも環の胸を高鳴らせたのは彼だけだった。

 デートはたいてい標本採集をかねての山歩きや水辺の散策だった。人気のアウトドアとは違う。藪に分け入って虫を捕まえる、うす暗い山道でユウレイソウを見つけてはしゃぐ。いわば、フィールドワークの続き。雑誌で特集されるデートに憧れる気持ちは、環にはみじんもなかった。それよりも、植物や虫について、あるいはルーン文字や反物質について翔が語る話のほうが、よほどおもしろかった。

 でも、その日は、ほんの少しだけ期待してしまったのだ。
 誕生日だったから。
 苦い記憶を、翔が塗り替えてくれるかもしれない。
 1月31日が誕生日だと話したことはない。同じ学部の誰かに聞いたのかと思った。ディナーかランチを予約してくれているかも。そんなあわい期待に胸をはずませて、ちょっぴりおしゃれをした。だが、待ち合わせに現れた翔はふだんと変わらぬかっこうで、行く先は植物園だった。

「これが、世界三大珍植物の一つ、キソウテンガイだよ」
「まさに奇想天外な植物なんだ」
 大きな石がごろごろして乾燥した岩場のような展示だ。その石のすきまから、厚い赤茶けた唇のような突起が自己を主張するように顔を出し、それを起点に左右対称にまるで緑のゴムベルトのような葉がうねうねと伸びている。異形いぎょうの植物だ。
「こいつは、昭和48年生まれの50年ほどしか経ってない若い個体で、まだ赤ん坊さ」
「50年で赤ん坊?」
「ああ。こいつらは1000年以上生きると云われている。2000年も生きてる個体もいる」
「2000年?!」
「そう2000年。キリストの誕生から生きてる。考えただけでぞくぞくするだろ」
「ほんで、こんなに長生きやのに、生えてくる葉は、たったの2枚なんや」
「ほら、これも2枚だけや」 
「えっ? 何枚もあるよ」
 うねうねと曲線を描く奇妙な葉が幾枚も束になっている。
「そう見えるだけで、これで1枚。茎とくっついてる根元を見てみ」
 翔が唇のような部分の縁を指さす。
「これは、茎?」
「そう。ここから葉が左右対称に2枚だけ出る。葉は伸びるにつれて、ねじれたり、擦れたりして裂け、何枚もあるように見えるだけ。根元はつながってる」 
「生息域は限定的で、アフリカのナビブ砂漠のごく限られた場所だけ。ナビブは世界で最も古い砂漠で、海に面して延々と鉄分を含んだ赤茶色の砂の平原が続き、年間降水量は100ミリ以下。そんな過酷な環境をたった2枚の葉で2000年も生き抜く。なんで、そんな進化をしたんか。キソウテンガイもナビブの固有種やけど、ナビブは固有種の宝庫なんや。過酷な環境でこそ固有の進化を遂げる。生きものって、ほんますごいやろ」
 翔が紅潮した顔をあげて環を見つめ、膝に両手をついて立ち上がる。
「こいつらには雌雄株があるけど。でも、左右一対の葉だけで2000年を生きのびるって、なんかさ、見ようによっちゃ、二人で力を合わせて生涯を添いとげるカップルみたいやなって。まあ、そんなことも想像させてくれる」
 ははは、柄でもないか。と、翔がぼさぼさの頭を掻いて照れる。
「ずっと現地で研究したかった。ようやくナミビア大学で研究できることになった」
 照れる翔の顔をほほ笑ましく見ていた環は、いつもの雑学の続きのような調子で、さらりと重大なことを告げられて、一瞬、聞き逃しそうになった。
 ――えっ? 今、現地に行くって言った?

「あ、忘れるとこやった」
 そう言って、翔はリュックの中をごそごそとかき分け、くちゃくちゃになった持ち手が紐の紙袋を取り出した。
「はい、これ」
 女子大生のあいだで人気のジュエリーショップのロゴが入っている袋だ。中をのぞくと、少し角のへこんだ白い箱に水色のリボンがかけられているのが見えた。
「誕生日のプレゼント?」
「えっ、今日は環の誕生日なんか? それは知らんかったわ。おめでとう」
 翔がにこにこしている。
「じゃあ、これは何?」
「ぼくの気持ち、かな」
 また、照れながらくしゃくしゃと頭を掻き、翔は左腕にはめた時計に目を走らせる。
「4時50分か、閉館やな」
 環は急展開に混乱していた。何か大切なことを訊き忘れている気がする。ぐるぐると焦りだけが空回りする。思い余って顔をあげると、環を穏やかなまなざしで見つめている翔の視線と絡み合った。
 翔が環の両頬を手で持ちあげ、唇にそっとキスをした。
「愛してる」
 それまで聞いたことのない愛のことばが、さらに環を混乱させる。

 その囁きが脳の奥で自動再生機のように勝手にリフレインし、小さく微かになっていく。視界が白く透け、遠のく。

 ぼーん、ぼーん、ぼーん。

 代わりに耳膜の奥から時計の音が響き、しだいにうねりとなって大きくなる。それに呼応して文字盤が浮かび上がった。時計の針は4時50分を指し、キソウテンガイの葉のごとく斜めに開いていた。

(to be continued)

第7話(7)に続く→


* * * * * * *

キソウテンガイ(学名:ウェルウィッチア・ミラビリス)については、こちらを、ご参考ください。


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