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『オールド・クロック・カフェ』4杯め 「キソウテンガイを探して」(5)

第1話から読む。
前話(4)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
八坂の塔の近く、古い町家を改装した『オールド・クロック・カフェ』には、「時のコーヒー」という不思議なコーヒーがある。時計に選ばれた人しか飲めない「時のコーヒー」は、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれるという。店主の桂子が姉のように慕う瑠璃が、友人の環をともなってカフェを訪れる。「結果には原因がある」が信条の理系思考の環は、時のコーヒーなど信じないという。ところが、16番の古時計が鳴った。
環は8歳の誕生日に、母が男と出て行ったという過去を持つ。
30歳の誕生日に、環は祇園のイタリアンレストランで正孝からプロポーズされた。

<登場人物>
  カフェの店主:桂子 
桂子が姉と慕う:瑠璃
 瑠璃の友人:環
   環の恋人:正孝


* * * Reason * * *

 瑠璃に誘われて訪れた『オールド・クロック・カフェ』は、外観は京によくある町家なのに、格子戸をあけるとそこは別世界だった。三方の壁を柱時計で埋め尽くされた店内は、静かに時間がたゆたっている。
 こぽこぽと物理法則に従ってサイフォンが声をたてると、フラスコから漏斗へと湯がするすると上がっていき、コーヒーの深い香りが漂う。規則正しく、だが、時計たちが自由にそれぞれの時を刻む音が、シンコペーションで重なりいくつかが和音となり、また、ほどけるを繰り返す。規則的な音の重なりが心地よかった。音楽は美しい数学だと思う。
 環は物理や数学が好きだ。
 この世のあらゆる現象を、無機質な数式であざやかに解き明かす物理が。法則に従って解き進め、論理の道筋をたどれば、唯一絶対の答えに導かれる。そのことが環を安心させる。原因と結果が直線で結ばれている確実なものが好みだった。

「プロポーズに迷ってるのは、なんで?」
 瑠璃のくりっとした形の良い大きなアーモンドアイで見つめられると、環は視線をそらすことができない。
「正孝さんには、一度会っただけやけど」

 12月はじめの土曜だった。観光客と買い物客で肩がぶつかる賑わいの四条通りを正孝と歩いていて、高島屋から出てきた瑠璃夫婦にばったりと鉢合わせした。あまりの偶然に環も驚いたけど、瑠璃のほうが、環に連れ添う正孝の存在に大きな瞳をまるくしていた。買い物を済ませたばかりの瑠璃は、バラの模様の紙袋を二つ、三つ、両腕に提げている。せわしなく行き交う師走の人波は、東からも西からも不規則に押しよせ、立ちつくす4人の淀みに舌打ちを投げる。環がそれを口実に「じゃ、またね」と軽くかわそうとすると、瑠璃がその腕をぐっとつかんだ。「お茶しよ」そう言って、高瀬川沿いにあるクラシック喫茶『フランソワ』になかば強引に連行されたのだった。
 瑠璃が正孝に会ったのは、この一度きり。それもコーヒー1杯ぶんの時間だけだった。

「宇治市役所職員。無口で誠実でまじめそう」
「環の結婚の条件は、一応、クリアしてる」
「そうよね?」
 瑠璃のつぶらな瞳で見つめられると、心の底まで見透かされそうで、環は視線をすっと外し椅子の背もたれに身を引く。
 そうだ。なぜ答えをすっぱりと出せないのか。オイラーの公式やフェルマーの最終定理よりもずっと簡単なはずなのに。条件の整ったイエスかノーかの2択問題にすぎないというのに。

 話が長引きそうだと思ったのだろう。桂子が「注文が決まったらお呼びください」と告げて下がろうとすると、瑠璃がその手をつかまえた。
「桂ちゃんも、ここにお座り」
 瑠璃がじぶんの隣の椅子を引いて、桂子に座るようにうながす。
 えっ、でも。と桂子がためらう。
「他にお客さんもおらんし。ちょっと、この人説得するの大変やから、桂ちゃんにも援護射撃してもらわんと」
 とにかく座ってと、瑠璃にお願いされると桂子にはあらがえない。座り心地のよいゴブラン織りの座面に浅く腰掛け、環に向かって唇の動きですみませんと伝える。
 瑠璃が柚子茶に添えたマドラーで、だるまストーブが温めた空気をくるくる搔きまわす。
「なんで市役所勤めの人が、ええの?」
「お父さんが京都市役所に勤めてるのは知ってるけど。それが理由?」
 瑠璃がマドラーを環の鼻先に突きつけ、首をかしげる。

「8歳の誕生日に、母が出て行った話。瑠璃にはしたよね」
 当時、市街の北の宝ヶ池近くに住んでいた。申しわけ程度の庭がある小さな一戸建ての家だ。
 母が突然いなくなった翌日から、父は仕事をしばらく休んだ。環も学校を休まされた。父の動きはすばやく、3日後には、市役所近くの御池通のマンションに引っ越しが決まっていた。
 新しいマンションから市役所までは、自転車で5分もかからない。父は夕方5時に仕事を終えると5時半には帰って来るようになった。どんなに遅くとも6時を回ることはなく、環が学童教室から帰ると、すでに帰宅していて「おかえり」と迎えてくれる。環がひとりで過ごす不安な時間は、母の失踪以来、一度もなかった。誰もいない家に帰る恐怖に脅えるようになった環を、父の静かな「おかえり」の声が救ってくれた。

「今でも、そう。お父さんの方が、先に帰ってる」
「私には一人暮らしは無理ね、きっと。明かりの点いてない、ひと気のない家に帰るのは……もう怖くはないけど、やっぱり、いや」
 環はそこで口をつぐむ。桂子がちらっと隣の瑠璃に視線を走らす。瑠璃はおそらく、幼い環を想っているのだろう。何かをこらえるように、唇を真一文字に引き結んでいた。
「市役所勤めなら、定時に帰れる。それが、ひとつめの理由」
 現実はそんなに甘いものではないと、社会人になって知った。定時に帰るために父は出世を断念し、閑職に甘んじてきたにすぎない。
 だから、この理由は、絵の入っていない額縁のようなものだ。それでも、環にとっては、父が守ってくれた時間を象徴する大切な理由でもある。
「ひとつめ?」
 瑠璃がオウム返しで、語尾をあげる。
「そう。ふたつめは……」言いかけて、環は柚子茶をひと口喉に流し込む。
「不確実なものを、私が嫌いなのは、知ってるよね」

 母は、予測のつかない人だった。思いつきの行動が多く、いつも何かを夢見て、ふわふわと落ち着かず、タンポポの綿毛のように気の向くままに飛んで行ってしまいそうな危うさがあった。ある日、学校から帰宅するなり連れ出され、京都駅から新幹線に乗せられた。「あ、ここ、ここ。このお店よ」と名古屋コーチンの有名店に入る。どうやら昼間のテレビで紹介していたらしい。そんなことがよくあった。その最悪の結果が、突然の失踪劇だ。
 かたや父は確実な人。突飛な行動をしない。何事もきっちりしていて、予定調和の範疇からそれない。授業参観には、チャイムが鳴ると同時に教室に入り、忘れるなどありえない。母は終わる頃に走って飛び込むのは、まだ良いほうで、日付そのものをまちがうことも多かった。
 父の行動は、原因と結果が一直線で結びつく。その確実性が、私を安心させる。

「私のなかで、市役所職員のテンプレートは父なの。条例や法律に従って、正確に業務をこなすことが求められる。だから、まじめで誠実。不確実性などかけらもない。平均値をとったら、そういう人が多いと思う」
「それが、ふたつめの理由よ」

 理路整然と語る環を見つめながら、瑠璃は「だいぶ、こじらせてるなぁ」と心の内で深く息を吐く。
「正孝さんはその基準を満たしてるのに、それでも迷ってるんでしょ。いつもの環やったら、とっくに答えを出してるよね。結婚は一生の問題やから、よく考えた方がいい。でも、何かが引っかかってるんと、ちゃう? じぶんでは気づいてない、何かが。せやから時のコーヒーを……」
 言いかける瑠璃の言葉にのしかかるように、環が早口でまくし立てる。
「私は、母が出て行った日のことをぜんぶ覚えてる。一番忘れたい記憶を覚えてるのよ。これ以上、何を思い出すことがあるというの?」
 環が美しい切れ長のまなじりを上げて、挑むように瑠璃を見返す。
 瑠璃は余計なスイッチを押してしまったことを悟り、天井を見上げため息をもらす。こうなったら、環を説得するのは至難の業だ。議論で環に勝てたことなどない。

「あの……」
 桂子が控えめなまなざしで環を見つめおずおずと口をはさむ。
「あの時計の形、変わってると思いませんか」
 桂子が十六番の時計を指さす。丸い文字盤の両サイドに細長い緑の翼か葉のようなものが伸びていて、文字盤の下に楕円形の錘が二本ぶら下がっている。
「そうね、こんな横長の柱時計見たことないわ」
「他の時計も変わった形のものが多くないですか」
 環が椅子を引いて店内を見回す。
「長刀鉾そっくりの時計もあるのね。アールヌーボーっぽいのも。木がからまってるみたいなのも。いろいろね」
 環が感心する。
「祖父は変わった意匠の時計を見つけると買ってたみたいです。形に惹かれるんや、いうて」
「形」
「長刀鉾でも、鳩時計でもなくて、あの横長の時計が鳴ったことに意味があるんやないかと。あの形に見覚えありませんか」
「心当たりは……ない気がするけど。意味がある、か」
 環が噛みしめるように繰り返す。
「ほんとうに意味があるのだとしたら、その意味を探求しなくちゃ、研究者の端くれとしては名折れになるわね」
 環が細く息を吐きながら瑠璃をちらっと見る。
「時のコーヒー……飲んでみるわ」
 瑠璃がぱんとひとつ拍手をして、桂子の肩に抱きつく。
「さすが桂ちゃん、ありがとう」
 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 十六番の時計が同意するように鳴った。
「桂ちゃん、時のコーヒーを二杯作ってね」
 瑠璃が体を話しながらいう。
「え?」
「環がメニューを手にしたとたん時計は鳴った。けど、ひょっとしたらあたしに鳴ったのかもしれんし。ほんまに時計が選んだ人にしか効力がないかの検証も必要やろ。こういうのを、えーっとなんていうんやっけ。対照実験? 必要よね、環」
 瑠璃は環の守備範囲にある単語を使って同意を求める。瑠璃が環の不審をやわらげようとしているのだと桂子は理解した。だから。
「では、十六番を二杯ご用意しますね」と承った。
 

 (to be continued)

第6話(6)に続く→


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