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『オールド・クロック・カフェ』5杯め「糺の天秤」(7)最終話

第1話は、こちらから、どうぞ。
前話(6)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
宇治市役所市民税課係長の正孝は、八坂の塔の階段下でうずくまっている老女を見つけオールド・クロック・カフェへと運ぶ。
澄と名乗る老女はなぜか正孝のことを「ただすさん」と呼ぶ。澄に七番の柱時計が鳴った。時計は三時四十五分を指している。澄は「時のコーヒー」の力で、出征が決まった許婚の徳光糺と下鴨神社の糺の森に出かけ、天秤を預かったことを思い出した。正孝は澄に糺を探して天秤を返そうと約束した。だが、糺の捜索は困難を極めた。そんな中、環がナミビアから一時帰国し、環&翔と両親のダブル結婚式を挙げるという。環は時のコーヒーのおかげで恋人の翔とも復縁し、八歳のときに家族を捨てた母とも和解していた。

<登場人物>
桂子‥‥‥‥カフェ店主
時任正孝‥‥宇治市役所市民税課係長
原田澄‥‥‥正孝が助けた老女
徳光糺‥‥‥澄の元許婚
伊藤直美‥‥澄の孫 
瑠璃‥‥‥‥カフェの常連・泰郎の娘、桂子が姉のように慕う
環‥‥‥‥‥瑠璃の親友・二月に時のコーヒーを飲んだ
      (4杯め「キソウテンガイを探して」参照)
翔‥‥‥‥‥環の恋人・ナミビアで植物の研究をしている
祐人‥‥‥‥環の父
綾‥‥‥‥‥環の母

 聖アグネス教会のバラ窓から射しこむ陽が、淡く光の模様を描き出す。それらがちらちらと揺れ、パイプオルガンが厳かに響きはじめると、後部座席あたりから「ほおっ」と感嘆をたたえたどよめきと囁きのうねりが起こった。その静かな律動のなかを純白のウェディングドレスをまとった環が父の祐人にエスコートされて進む。ベール越しでも環は息をのむほどに美しい。長くのびるトレーンが列席者の賛美を連れていく。後ろ姿まで美しかった。
 続いて車いすが進む。押しているのは、シンプルなシルバーのロングドレスに身をつつんだ女性だ。環の母の綾だろう。ベールはつけていない。ゆるくウエーブのかかった銀髪に光がさんざめく。初老といっても良いはずの歳なのに、ややうつむきかげんの横顔は環よりもたおやかで匂いたつような華があった。車いすにはタキシード姿の老紳士が背筋を伸ばしていた。銀縁眼鏡をかけ、祭壇を見つめ口を真一文字に結んでいる。
 ああ、この人が。
 正孝は隣に腰かけている澄をそっとうかがう。通り過ぎる車いすを追う目もとに光るものがあった。澄は紅葉の裾模様のきものを着ている。
 環は祭壇前で待っている翔の横に立つ。綾は車いすを最前列の長椅子の前に据えると、環をエスコートした祐人の隣に並ぶ。司祭が親子四人の前に立ち、二組のカップルを祝福した。
 
 十日前にとつぜん環から正孝に電話があった。
「ご結婚おめでとうござ‥‥」
 スマホの画面に向かってお辞儀をしながら祝いを述べる正孝にかぶさるように、環の興奮した声がスマホから飛び出す。
「正孝さん、徳光糺いう人を探してはるんでしょ」
「うちの祖父、清水糺いうんですけど、その徳光糺なの」
「はっ?」
 意味がわからなすぎて、正孝はとまどう
「さっき判明して、びっくりして。こんな偶然、神様のいたずらかしら」
 ふだん理路整然と語る環にはめずらしく話の糸がもつれている。
「すみません、環さん。ぼく頭の回転がよくないんで、さっぱりわからんのですけど」
 あっ、と小さな声をあげて呼吸を整えるのがスマホ越しにわかった。
「ごめんなさい。気持ちがうわずってしまって。順を追って話します」
 ひと息つくと、いつもの環にもどり筋道立てて語った。
 母とは二月に和解して、そのあとすぐに父母が一緒に暮らしはじめました。だから一時帰国中の今、翔と私は御池おいけ通りのマンションに両親といるの。夕飯のしたくを手伝いながら「友だちが徳光糺さんいう人を探してるけど、見つからなくて困ってる」と話すと、「あら、それおじいちゃんのことよ」と。母はそんなことも知らんかったのという顔で言うんです。「環には話してなかったかしら」ですよ。もうびっくりして。祖父は清水家の婿養子で旧姓を徳光といい、出町柳でまちやなぎの家は弟が継いだけど、その息子、つまり母の従兄が東京に移るときに売り払い、今は学生向けのアパートになってるはずよ、と。三十歳になって祖父が婿養子と知るなんて。青天の霹靂とはこれを云うのかと思ったと、環がため息をもらす。
「祖父には許婚いいなずけがいて、正孝さんがその方のために祖父を探しているのでしょう。こんな偶然ってある?」
 それに、と環は続ける。
 正孝さんが人探ししてはることを母に話さなければ。いや、そもそも私が母と和解していなければ、話すこともなかっただろうし。正孝さんが澄さんを助けなければ。澄さんが時のコーヒーを飲まなければ‥‥。そんなたくさんのイフがなければ。祖父と澄さんは二度と永遠につながることはなかった。それを思うと体が震えるの――。
 正孝も信じられないような偶然のドミノ倒しに動悸があがる。
 環がいうように、どのピースが欠けても澄と糺は永遠に再会することはなかっただろう。時代のうねりに翻弄され、別々の川に流された二枚の葉がまた巡り合うことなど、数億分の一の確率、いやもっと稀かもしれない。
 あれから何度も偶然の数珠つなぎを正孝はなぞった。そのたびに皮膚が粟立あわだち、心臓がぶるっと震えるのだった。
 
 
 空は高く天に抜け、秋の陽光が教会のレンガをいっそう濃く染める。烏丸からすま通りに沿って長く延びる御所の垣は紅葉がまもなく見ごろだ。
 列席者たちはブーケトスを待って、チャペル前で談笑している。
 その人混みを縫うようにして瑠璃が車いすを押しながら、聖アグネス教会のシンボルの鐘楼前で佇む正孝たちのもとに近づいてくる。
 澄の隣には直美が寄り添っている。
 澄を支柱にして直美と反対側に立つ正孝は、黒縁眼鏡の奥の目を凝らす。
 桂子は正孝の半歩後ろで両手を胸の前で組んでいる。糺さんが見つかったこと、それが誰だったかを話すと、桂子は目を丸くして「そんなことがあるんですね」と嘆息をもらし、七番の柱時計を見あげ「ありがとう」とつぶやいていた。
 二人が糺の森で別れてから、どのくらいの歳月が置き忘れられてきたのだろう。隔たれた時間が互いに歩み寄り高速で縮まっていくようだ。それを加速させるように、さああああっと一陣の風が吹きすぎ落ち葉を舞いあげた。
 
「糺‥‥さん」
「澄ちゃんか」
 二人とも絶句してあとが続かない。
 糺が車いすからじっと澄を見あげる。
 古い写真とは異なり細い銀縁眼鏡をかけた糺の目は切れ長で、歌舞伎役者の片岡仁左衛門を思わせた。似ていたのは眼鏡だけかと、正孝は心のうちで苦笑する。
「あの日のきものですね」
 梨地に紅葉の裾模様のきもの姿の澄に、糺は目を細める。
「覚えてはったんどすか」
 二人だけに通じる会話が時を巻き戻す。
「きれいやなあと思ったからね」
「そんなことひと言も」
「はは。若かったから、照れくさくて言えんかった」
 澄はこのひと言で、もう十分やと思った。
 時のコーヒーで見た連理の賢木さかきの場面が脳裡によみがえる。幻やなかったんや、あの日のことも、うちの淡い想いも。糺さんは覚えてくれてはった。そやのに、うちはずっと忘れてた。その懺悔が喉を締めあげる。
「うちは長いこと‥‥糺さんのことを忘れてました。どない謝ったらええのか。ほんまにすみません。お帰りを待たずに嫁いでしもて。復員しはったことも知らんかった。かんにんしてください」
「復員したことは澄さんに伏せといて欲しいと、私がお願いしました。せやから、澄さんが謝らなあかんことは、ひとつもない」
 時がほぐれて、二人の視線がからまる。
 おばあちゃん、と直美が澄の背から声をかけ紙袋をかざす。
「せや、うち、糺さんにお返しせんとあかんもんが」
「直ちゃん、うち手が震えてしもて。落としたらあかんさかい、あんたから糺さんに」
 と直美を振り返る。
 直美が袋から黄色い鬱金うこん布に包まれた天秤を取り出し「失礼します」と断りをいれて、糺の膝の上に置く。
「捨てずに持っててくれ‥‥」
 糺の言葉が空に消える。
 澄が首をふる。
「嫁ぐとき妹の里子に預けました。日々の暮らしに追われるうちに忘れてしもて。お返しするのが、こないに遅なってすみません」
 澄が深々と頭をさげる。
「この写真もお返しします。天国にいるあの人がねそうやから」
 セピア色の写真を差し出す。
「けど、この手紙はうちがもらってもかましまへんか」
 茶色く変色した手紙を澄は胸に抱く。 
「糺さんは無事お帰りにならはったけど、先日、封を開けさせてもろて、こっちの若い糺さんに読んでもらいました」
 澄が正孝を見あげる。
「出過ぎたまねをして、すみませんでした」
 正孝は糺に向かって直角に頭をさげる。
「ああ、君が。私を探してくれたんやてなあ。環から聞いてます。ありがとう。ぜんぶ君のおかげや」
「ほな、澄ちゃん。これは私が持ってても、ええやろか」
 糺は車いすの座面の脇に置いていた手紙の束を持ちあげる。
「えっ、それは」
 澄の目が大きく見開き、ふらっと揺れるように一歩車いすに近づく。
「うちの‥‥手紙‥‥」
「そう。君からの手紙に戦場でどんなに慰められたか。こんなに送ってくれたのに、私は一通も返事を書かんかった‥‥ほんまにひどい男や」
 糺は澄から視線をはずし、遠い目をして鐘楼の上の空を見あげる。何かを噛みしめるように口を真一文字に結んでいた。
「青かったんやなあ」
 嘆息ともとれる吐息のような声をぽつりともらした。
「その手紙にしても‥‥」
 と澄が胸に抱いている手紙に目をやる。
「返事をわざと書かんかったことも」
「婚約解消を申し出たことも」
 自らを責めるように、ひとつひとつ区切っていう。
「ぜんぶ自分の思いあがりやった」
「未練を残させんことが、澄ちゃんのためやと。そんな自分に酔いしれてた。若気の至りいうたらしまいやけど。婚約は解消される、返事は届かん。それが君をどれだけ不安にさせ絶望に落としたか。そのことにちっとも思い至らんかった。独りよがりで、自分勝手で。あの頃の自分を張り倒してやりたい。生きる希望が日々浸食され失われていく戦場で、自分は毎夜、君からの手紙を読み返し慰められてたいうのに‥‥」
 瑠璃がどこからか折り畳み椅子を持ってきて、澄に腰かけるようにうながす。直美が「ありがとうございます」と礼をいう。「うち、ここの卒業生やから」とウインクし、「環の写真撮ってくるわ。桂ちゃん、あとはよろしく」と去ろうとする瑠璃に、「私も行く」と桂子がいうと、「あとで報告してもらわんとあかんのやから、桂ちゃんはここにいて」と桂子の肩をつかんで正孝の隣に並ばせ、つむじ風のように去っていった。
 そこにいた全員があっけにとられ、やがて誰からともなく、ふふふふ、ははははと笑いのさざ波が立ち、糺の告解にしずまっていた場がふっとやわらいだ。
「弁護士にならはったんですか」
 糺の膝の天秤を見つめながら澄が尋ねる。腰かけて同じ目線になったからか、澄の緊張もほどけている。
「回り道をして、十年かかりましたよ」
 糺は天秤を持ちあげる。真鍮の支柱が秋の陽を受けて光る。
「なんで清水姓になったか。おかしい思いませんでしたか」
「ええ、それは。糺さんは長男やったのに。なんで婿養子に」
 おそらくここにいる皆が疑問に思っているだろう。
「平たくいえば、親父に見限られた。裏を返せば親心、でしょうか」
 糺は自嘲ぎみに口角をあげ、長なるかもしれませんが、と断りをいれる。
「天秤は公正と平等、正義の象徴やけど。戦場いう狂気が支配する極限では、正義はおろか公正も平等もなんの役にも立たん。砲撃はスコールのごとく降ってくる。公正や平等を叫んでも弾がけてくれるわけやない。生き残るためには、高邁こうまいなことは絵に描いた餅にもならんのです。自分がめざしてたものは、なんやったんやろと絶望しました」
「せやから復員しても、復学する気にはなれんかった。それに‥‥。京都は幸いにも空襲をまぬがれました。自分が必死でかいくぐってきた世界とのあまりの違いに、かえって『生きている』感覚が希薄になりました。町が焼かれんかったこと、家族が無事なことを喜ばんとあかんのに。なんもせず無為な日々を二年も過ごしたころでしたか。母方の遠縁にあたる清水家に婿養子に行けと親父からいわれました」
「その少し前に弟の隆が司法試験に合格しましてね。ああ、やっかいばらいやなと。今から思えば、親心やったと思います。戦争で打ちのめされた息子を法曹の世界から解放してやろういう。せやけど青かった自分にはわからず、勘当なんやと受け取りました」
「義父の紹介で勤めた小さな電機会社では、油にまみれて機械造りもしたし、営業もなんでもしました。私に法律の知識があることがわかって渉外関係の仕事をまかされるようになって。そのうち眠ってた弁護士への想いが頭をもたげてきてね。公正と平等は平和があってこそやないか、そんな想いも育ちました。家内の勧めもあって、もっかい勉強し直した。せやけど憲法から何から何まで変わってますやろ。仕事を終えてからの独学では試験に通るまでかれこれ三年ほどかかってしまいました」
 糺の述懐に誰もなにも言えない。
 彼が歩んできた時が落ち葉のごとく降り積もる。
 澄は誠二郎と笑って過ごしてきた自分との違いを思ってじわりと熱いものがこみあげる。それを察したのだろう。
「ああ、すみません。しんみりさせてしもて。めでたい日やいうのに」
 ブーケトスがはじまったのだろう、祝福の歓声と拍手が空にこだまする。
「あれは、娘と孫です」
「お二人とも、ほんまにきれい」
 直美が心底うっとりしたように、明るい声を響かせる。
「お幸せそうどすなあ」
 澄もゆるりと笑む。
「ああ、今日ほど嬉しい日はありません」
 銀縁眼鏡の奥の切れ長の目が潤む。
「法律をあつこうてるからか、生まれつきの性分しょうぶんか、どうも私は融通が利かんたちでね。それが娘の人生をだいなしにしてしもたんです」
 桂子と正孝が、あっという顔をする。
「なんで娘夫婦も式を挙げたか、わかりますか」
 シルバーのドレスの女性が満面の笑みでブーケをふっている。
「孫の環がまだ八歳のときでした。娘はあろうことか、家族を捨て元恋人とアメリカに行ってしもて。それを知った私は激怒しました。それがたった三年で帰国しよった。あっちがあかんようになったから元鞘もとさやに収まるなど言語道断。二度と京都の地を踏むなと厳命しました。それこそが人倫にかなった正しさやと決めつけて、正義を振りかざしたんです」
「結果、娘だけやのうて、孫も夫の祐人君も長い間不幸にしてしもた。もっと早うに復縁させてたら‥‥。いくつになっても私は人の心の機微に気づかん。澄さんを傷つけたあの頃から成長してへんかった」
「あの三人いや四人が、ああやって笑顔で‥‥。ほんまに、きょうは嬉しい。澄ちゃんにもまた会えて。こないに嬉しい日はありません」
 糺の目尻の皺がかすかに濡れる。だが、その表情は晴れやかだった。
「澄さんは天秤の片皿に釣り合う、ええ人に巡り合えたんですね」
 糺は天秤の皿をそっとはじく。真鍮の鎖が鞦韆ぶらんこのようにくるくる回る。
「なんで、そない思わはるんどすか」
「私のことを忘れてた言うてはりましたなあ。忘れるいうのは、後ろを振り返らず前を向いて生きてきたいうこと。共に同じ方向を向ける人と歩んできた証左やないやろか」
 あっ、と澄は口を押える。
「この皿に乗るのが私でなくて、ほんまに良かった」
「そないなこと云うたら、糺さんの奥さんが怒りはりますえ」
 ははは、それはそうやと、糺が頭を掻く。
「お互い連理の賢木さかきに巡りおうたんですなあ。そや、こんど糺の森に行きませんか」
「こないだ、こっちの若い糺さんと行ってきました」
 澄が正孝を見あげて微笑む。
「そら、若いほうがええわ。私は車いすやし」
「もしお邪魔でなければ、ぼくが車いす押しますよ」
 正孝が澄の背後から申し出る。
「ほんなら、若い糺さんとほんものの糺さんと。うちは両手に花どすなあ」
 澄が少女のような笑顔を浮かべる。
しかたの積もる話も多い。幼なじみとして、たまにゆっくり話もしましょう。いい喫茶店を孫から教えてもらいました」
「うちも、ええ喫茶店を知ってます」
「オールドコーヒーやったかな、時計がぎょうさん飾ってあるらしい」
「まあ、オールコップですよ。うちも、そこにご案内しよう思うてました」
「おばあちゃん、オールド・クロック・カフェよ」
 直美がこそっと耳打ちする。
 桂子と正孝が顔を見あわせて笑む。
 風が運んできた紅葉がひとひらずつ天秤の両皿に舞い降りた。


(5杯め「糺の天秤」 Good Taste End)  

「またのお越しをお待ちしております」   店主敬白


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