大河ファンタジー小説『月獅』7 第1幕:第3章「森の民」(1)
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第1幕「ルチル」
第3章:「森の民」(1)
どのくらい祈っただろうか。
ごうごうと耳膜にこだましていた水音が、不意にぴたりと止んだ。ルチルは、おそるおそる目を開ける。
つい今しがたまで、白い水煙をあげ瀑布となっていた滝が消えていた。
滝のカーテンが開いた。白の森が開いたのだ。
舟がすべりだす。
向こう側にはまばゆい光の降りそそぐ空間が広がっていた。
この光を知っている、とルチルは思った。六歳の夏、日射病から目覚めたルチルをつつんだのも、きらきらと降る光の粒だった。
ルチルは見あげる。そこはもう洞窟の閉じた昏い天井ではなく、どこまでも高く抜ける白い天があった。銀の葉のほどけたすき間を縫って、数えきれないほど光の筋が射していた。
ああ、光の森、白の森だ。
ルチルから緊張がほどけると、ひと筋、涙の粒が頬をつたった。
気づくと川は地上に出て、ゆるやかに蛇行しながら緑のなかを流れる小川となっていた。うっすらと記憶に残る、幼い日に目にした美しい森の光景。緑の下草が幾重にも萌え、銀に光る苔が層をなし、樹々は枝葉を気ままに伸ばし豊かな緑陰がまぶしく涼しかった。
けれども、ゆっくりと進む舟から眺めた川べりは、何かがおかしい。
あの日、ルビ川は見なかった。だが、ルチルが横たわっていた褥はふかふかで、周りはあふれんばかりの緑に囲まれていた。褥の周りには、好奇心むきだしの異形の毛ものたちが数えきれないほど集まって賑やかだった。森は、光と緑と活気に満ちあふれていた。
それが、どうだろう。
川原を縁どる緑はまばらで、なめらかな絨毯のように広がっていた苔の層はほとんどなく、黒っぽい土壌がいたるところで露出している。樹々は高く天に向かってそびえているが、幾重にも折り重なっていた葉もすかすかして、かつてはまぶしい光しか見えなかった空が雲まではっきりと見える。なによりも毛ものたちの気配がなく静かだった。
卵を宿してから二カ月近く外出を控えていたとはいえ、部屋の窓から遠く眺める森に変わりはないようにみえたのだが。いったい森に何があったのか。
ルチルは急に不安になった。白の森に受け入れられさえすれば、ミミナガアライグマのおばさんや森の毛ものたちといっしょに天卵を育てていけると思い込んでいた。森が守ってくれるのだから、もう脅える必要はなくなるのだと。だが、そのかんじんの毛ものたちの姿が見えない。
しばらく進んで、舟は止まった。
ルチルは土があらわになった川原に降りた。しんと静まっている。耳に届くのは風が揺らす葉ずれだけ。だが、舟から眺めていたのとはちがい、なんだろう、微かではあるが、たくさんの目が息をこらして窺っているような張り詰めた気配を感じた。
――ああ、そうか。敵意のないことを示さなければ。
ルチルは羽織っていた緑のマントを脱いだ。卵を入れている袋も降ろすべきか悩んだが、万が一卵を奪われてはいけないと思い直し、肩から提げたままにした。よく見えるように、川原のいちばん開けた場所に立ち、両手を高くあげてゆっくりと一回転してみせる。なんの反応もなく、一匹の毛ものも姿を現わさない。
――このくらいでは、警戒はとけないか。
ルチルはひとつ大きく深呼吸すると、意を決して、長いスカートの裾に手をかけ、羞恥心をかなぐり捨ててスカートを頭の上までまくりあげた。
波のようなどよめきが川原の向こうの藪からも、樹々の梢からも、川の茂みからも起き、森が揺れた。剥かれた玉ねぎのような格好で立ち尽くしているルチルを、「もう、いい。もう十分だ」とかすれた声が抱きしめた。ルチルは持ち上げたスカートから手を離す。はらりと落ちたスカートをよけて姿を現わしたのは、あの日のミミナガアライグマだった。ルチルは懐かしさに瞳を輝かせ、抱きしめようと両手を伸ばす。
と、そのとたんにミミナガアライグマはさっと身を翻して、十メートルほど先の藪に飛び込んだ。伸ばした両腕は空を切る。抱きしめるつもりで前のめりになっていたため、ルチルはバランスを崩して倒れそうになり、慌てて卵の袋をかばって川原に膝をついた。キルトをまさぐり卵が無事なことを確かめてから、ひとつ息を吐き顔をあげた。
視線の先の茂みでは、ミミナガアライグマが後ろ足立ちして、心配そうにおどおどしている。ルチルが立ち上がって一歩を踏み出すと、
「近づくんじゃないよ。病がうつっちまう」
引きつった声が飛んできた。
(to be continued)
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