大河ファンタジー小説『月獅』6 第1幕:第2章「天卵」(3)
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第1幕「ルチル」
第2章:「天卵」(3)
アトソンは後ろ足立ちの姿勢を崩さずルチルを見つめている。
「ごめんなさい」
つぶやいて、ルチルは卵にそっと口づける。大丈夫、あなたは、わたしが守る。ちゃんと、あなたのお母様になるわ。
卵をくるんだキルトが、一瞬、ぱっと明るく輝いた。ルチルはぎゅっと卵を抱きしめると、目尻からこぼれそうになっている涙を拳でぬぐい、アトソンに向き直った。
「白の森までの案内をお願いするわ」
「かしこまりやした」
アトソンが恭しくお辞儀する。
「こいつはロウ」と、アトソンは自らの隣に控えているトビモグラを紹介する。
「お嬢様の背後をお護りしやす。わしらは暗闇に慣れとるが、ヒカリ茸だけんじゃ、お嬢様には暗かろう」
アトソンは懐から何かを取りだし、掌を開く。光るものが三つひらひらと飛びだした。ルチルは目を凝らす。蝶が淡く光りながら飛んでいる。ヒカリアゲハだ。子どものころトートが一匹だけ捕まえ、誇らしげに虫籠を見せびらかしていた。「めったに捕まえられないんだぜ」と言って。それが三匹も。鱗粉をきらきらと輝かせながら、飛び回っている。こんなときでなければ、その美しさに見惚れるのだろうけど。
「ちょっと失礼しやすよ」
アトソンは言いながら、ぐいっとルチルの右手をつかみ、その甲に何かねっとりとしたものを塗った。すると、蝶がルチルの手に舞い降りる。
「蜜でさぁ。ほれ、こうしときゃ、こいつらお嬢さんの手にとまる。ほんで、灯りになる」
ルチルは感心した。手を高々とかざしても、蝶は逃げない。ルチルの右手が懐中電灯になったようだった。
「さ、急ぎやすよ」
アトソンが四つ足で駆けだす。ルチルが追う。ロウが背後に気を配りながら続く。どこをどう通ったのか。右に左に坑道を曲がり進むアトソンの背を追うのに必死で、ルチルにはさっぱりわからなかった。地下道には、樹々の根が縦横無尽に走っている。それらに足を取られて転ばないよう気をつけるのが精いっぱい。ヒカリ茸とアゲハの灯りと、天卵のほのかな光を頼りに足もとを確かめながら急いだ。うっかり蹴つまずくたびに、ロウがすばやく支えてくれる。無口な彼の働きがうれしかった。
どのくらい進んだろう。どこからか水の流れる音のようなものが、微かに聞こえた。アトソンについて角を曲がるたびに音はしだいに大きくなる。いくつかの枝道を曲がったところで、急に視界が開けた。ごうごうと滝のような音が響く。細い坑道の向こうに広い空間があるのが、暗闇でもわかった。
アトソンが穴道を抜けたところで振り返り、はじめて笑顔を見せた。
「お嬢様、着きやした」
「これは……」
ルチルは地下を滔々と流れる川に目をみはった。
「ルビ川ですだ」
「昔むかし、白の森へと流れていたという伝説の? でも、言い伝えでは白の王が怒って…」
「地下に沈めなすった。それが、これでさぁ」
おとぎ話に聞いていた川が、目の前を流れている。本当にあったなんて。
川原には小舟が用意されていた。
「そん先に、滝のカーテンがあるんが、見えやすか」
アトソンが後ろ足で立って、川の流れる先を指さす。
ルチルはヒカリアゲハの止まった右手を高く掲げる。ほのかな明かりの向こうに、白く泡立つ滝が川の行く手をレースのカーテンとなってさえぎっているのが見えた。
「白の森の王へ祈りが届けば、滝が開きますっちゃ」
ロウが舟を曳いてくる。
「儂らは、ここまででごわす。お館様と奥様のこったも、儂らができるかぎりの力は尽くしやす。どうかお嬢様もご無事で、卵をお守りくだせぇ」
「アトソン、ロウ、ありがとう。あなたたちの働きに心から礼を言います。お父様とお母様のこと、よろしくお願いします。ルチルは卵を守り育てる覚悟ができました、と伝えてもらえるかしら」
アトソンとロウに向かって深々と頭をさげると、ルチルは二匹を胸に抱き寄せた。胸もとに抱えている天卵もひときわ輝く。
ルチルは小舟に乗りこむと、「オールはどこにあるの」と尋ねた。
「櫂はありやせん。要らないんでさぁ。川が導いてくれますんで」
アトソンとロウは力いっぱい舟を押しだす。
豊かな水をたたえた川面を小舟がすべりだす。二匹のトビモグラは後ろ足で立って、短い手をちぎれそうなほど振る。ルチルも大きく振り返す。
月夜の海に舟出するようだとルチルは思った。地下の闇に月はなく、滝のあげる水しぶきが白い明かりとなって川面をただよう。もうここには戻って来られないかもしれない。この洞窟はおろか、エステ村にさえも。胸をよぎる予感に、頬を涙がとめどなくつたう。嗚咽はない。涙が流れるだけだ。ルチルは卵をぎゅっと抱きしめる。応えるように、慰めるように、卵はしだいに光を強める。
川は滔々と流れているのに、舟は滝のカーテンの前でぴたりと止まった。
ルチルは白い飛沫を水煙のごとくあげる滝を見あげ、ただひたすらに祈った、まばゆい光をまとって神々しかった白の森の王を想いながら。
――白の王様、六歳の夏に助けていただいたルチルでございます。あの日のこと、忘れたことはありません。モノアライグマのおばさんや心優しき森の生きものたちのことも。王様と交わした約束も、ずっとずっと守ってきました。お父様にもお母様にも話したことはありません。あの日おっしゃいましたよね。わたしには、さだめのようなものがあると。それが天卵を宿すことだったのだとしたら。わたしはこの卵を守りたい。この子の光を守りたいのです。お力をお貸しください。どうか、森を開いてください。
ルチルは目を閉じ、胸に抱えた卵の前で両手を組み一心に祈った。滝の飛沫がミストとなって立ち込め、頭を垂れたルチルの肩を背をじっとりと湿らせる。前髪は額に貼りつき、髪からつたう雫が組んだ手を濡らす。絶え間なく落ちる水の轟音が洞窟にこだましていた。
(to be continued)
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