小説『オールド・クロック・カフェ』 3杯め 「カマキリの夢」(4)
<あらすじ>
『不器用たちのやさしい風』で明るい脇役として登場した松尾晴樹。茨城県北部の日立市から夜通しバイクで駆けてきた晴樹は、『オールド・クロック・カフェ』にたどりつく。祇園祭の山鉾を模した30番の長刀鉾の柱時計に選ばれ、時のコーヒーを飲む。「時のコーヒー」が見せてくれたのは、恋人の由真との別れのシーンだった。由真は、「祇園祭のカマキリ」という謎の言葉を残して去って行く。
<登場人物>
茨城のライダー:松尾晴樹
晴樹の元恋人:由真
カフェの店主:桂子
カフェの常連客:泰郎
晴樹の元同僚:森本達也
* * kamakiri * *
由真を乗せた新幹線の白く光る躯体が右から左へと、闇を連れて滑るように流れる。やがて轟音とともに白く光る点となって消え、画面がフェイドアウトした。
発車を告げるメロディーをアナウンスが追いかける。ホームに充満する蜂の羽音のようなざわめき。統一のない雑音の重なりが、鼓膜の奥に波が引くように収斂(しゅうれん)されていくと、代わりに一定のリズムで繰り返される鉦(かね)の音が聞こえてきた。
‥‥チキチン、コンチキチン、コンチキチン。コンチキチン。
意識の底ではなく、すぐそばの耳もとで金属音が鳴っている気がする。
頬に筋をひいている涙の跡を掌で乱暴にぬぐい、瞼をあげる。視界に映ったのは、赤い長刀鉾(なぎなたぼこ)の柱時計だった。
コンチキチン、コンチキチン。
「おかえり」というように、お囃子を鳴らす。
どうやら、籐のアームチェアの背もたれに深く体を預けて眠っていたようだ。視線を横にずらすと、泰郎が新聞を読んでいた。晴樹は背もたれから体を起こし、頭をひとふりする。
「お、おかえり」
気づいた泰郎が新聞から顔をあげる。
「忘れものは、見つかったか?」
見つかったといえば、見つかったけれど。謎が深まった気がする。由真が残した暗号のような「祇園祭のカマキリ」のひと言。それに、いったいどんな意味があるのかが、まったくわからない。そもそも祇園祭について、有名な祭ぐらいの知識しかない。山鉾が練り歩いている映像は見たことがある。でも、それを山鉾(やまぼこ)と呼ぶのも、ついさっき知ったところだ。祇園祭とカマキリが、どう結びつくのか。
なぁ、教えてくれよ。長刀鉾の柱時計を見あげる。
桂子が盆を提げてやって来た。
「コーヒー冷めてるんで、取り替えますね」
「泰郎さんは、どうする?」
「ああ、俺も、お替わりもらおか」
桂子がドリップポットに手をかける。
「あのぉ。『祇園祭のカマキリ』って、何のことかわかりますか?」
晴樹はおそるおそる尋ねる。変なことを訊いているという自覚があった。
「あ、それは蟷螂山(とうろうやま)のことですね」
「そりゃあ、蟷螂山のことやな」
コーヒーを注いでいた手をとめ答える桂子に、泰郎の声がかぶさる。
「トウロウヤマ?」
「それって、何っすか?」
聞いたことのない単語に、晴樹はますます混乱する。
「蟷螂っていうのはな、カマキリのことや」
泰郎が新聞をたたんでテーブルに置く。いつも持ち歩いている信玄袋から、メモと鉛筆を取り出す。泰郎にまかせておけば良いと思ったのだろう。桂子はそっとカウンターにもどった。
「こないな難しい字を書くねんけどな」
泰郎がメモを一枚ちぎって、「蟷螂」と書く。
「これで、『とうろう』って読むんや」
「蟷螂山は、ちょっと変わった鉾でな。御所車の上に大きなカマキリが乗っとって、これが、からくりになってる。カマキリが鎌を振り上げて動くんや」
「カマキリのからくり! そんなのが、あるんだ」
メカ好きの晴樹が、身を乗り出す。
「からくりの鉾は、蟷螂山だけ。人気の鉾や」
「見てみたいなぁ」
「見れるで」
泰郎がにたりと笑う。
「一昨日から前祭(さきまつり)で、山鉾がそれぞれの町内に建っとる。今日は宵山やから、夜になったら、カマキリを動かすはずや」
ええときに来たなぁ、と泰郎が笑みを浮かべる。
「鉾はそれぞれの町内のもんでな。蟷螂山は、四条西洞院(にしのとういん)の蟷螂山町の鉾なんや」
泰郎がまた一枚メモをめくって、さらさらと地図を描く。
「八坂さんの前からまっすぐ延びてるのが四条通り。鴨川を越えて1本めの大きい通りが河原町。次が烏丸(からすま)通りや。ほんで、烏丸から3本めの南北の細い通りが西洞院。蟷螂山町は、ここや」
「ここに行くと、カマキリの鉾が見れる」
そこまで描くと鉛筆を置いて、泰郎はコーヒーをひと口すする。それから、おもむろに晴樹を見つめる。
「あんな。こっからは、俺の好奇心や。せやから無理に答えんでも、ええ。話したくないことは、話さんでええねんで」
念を押してから、泰郎は語りかける。
「どっか遠くからバイクに乗って来たんやろ」
「えっ、なんでわかるんすか?」
晴樹の足もとを指さす。
「夏の暑い日に編みあげブーツなんか履いとったら、ライダーブーツかなと思うわ」
「桂ちゃんが、遠いところからようこそ、言うとったやろ」
「あ、そうすね。茨城から夜通し走ってきました」
へへ、と晴樹が頭を掻きながら答える。
「茨城か。また、えらい遠いな」
泰郎があごを撫でながら、晴樹を見る。
「そんな遠いところの人の夢に、なんで蟷螂山が出てきたんやろ、思っただけや。気にせんでええ」
泰郎は新聞をつかんで立ちあがろうとする。
晴樹がカップを手にしたまま、泰郎を見あげる。
「元カノが‥。5年つきあった彼女が、京都の子だったんです」
「彼女と別れた東京駅の場面を見ました」
泰郎はあげかけた腰を、籐の椅子におろした。
後から思い返せば、なぜ泰郎にあそこまで話したのかわからない。気づくと、晴樹は夢中になって自分の身の上を語っていた。泰郎は、ときどき「そうか」とか「せやったんか」とか相槌を打つくらいで、ぽつりぽつりと語る晴樹の話に割って入ってこようとはせず、ただ静かに聴いていた。
「由真‥は、彼女の名前です。由真のことは‥‥本当に好きでした。彼女から別れを切り出されるまで、別れるなんて思いもしなかった」
「でも、矛盾してるんですけど。俺は由真と結婚することはできなかったんです、どうしても」
晴樹はぐっと唇を結ぶ。
ちり、ちりん。
風が首筋をなでる。
カチ、コチッ。カチ、コチッ。
時を刻む時計のリズムだけがこだまする。
沈黙がカフェを満たす。
「よくよく考えたら、こんな自分勝手なずるい男いませんよね」
晴樹は膝に置いた両のこぶしでジーパンを握りしめる。
泰郎は籐の椅子に背中を預け、何も言わない。
ちりん、ちりん。
テーブルのメモがぱたぱたとめくれる。
「俺、養子なんすよ。おふくろがシングルマザーで俺を産んで。実の父は知りません。俺が小学1年のとき、おふくろは乳がんで亡くなりました」
「子どものいなかった伯父夫婦が、俺を引き取ってくれて。それが今の両親です」
「親父は忙しい仕事のあいまを縫って、キャッチボールしてくれたり。夏休みの自由研究にもつきあってくれて。父親という存在がはじめてだったから、頼もしくてうれしかった」
晴樹は息をついて、コーヒーをひと口流し込む。
カップを置くと、また、話を続けた。
「親父は茨城で、大手食品会社の下請け工場を経営してるんです」
「本社は水戸にあるんですけど、日立とつくばに支店があって。まあ、そこそこの規模です。でも、下請けだから景気の波をかぶりやすい」
「俺が高校のときに、やばくなったことがあって。高校辞めて会社を手伝うっていうと、張り倒されました。『ちゃんと勉強して、大学行け』て怒鳴られて。親父が手をあげたのは、後にもさきにも、この一度きりです」
あんときは、痛かったなぁ。思わず尻もちついたもんな。左の頬をさすりながら思い出す。
「そのとき心に誓ったんです。早く一人前になって会社を助ける。結婚は会社のために、見合いでするって」
「それが、育ててくれた両親に俺ができる唯一のことだ、と信じてました。ひとりよがりの考えに、がんじがらめになってた」
晴樹は深いため息をついて、コーヒーに顔を映す。
「俺の思い込みに、由真を巻き込んだんです」
「東京の大学を卒業して、親父の会社の取引先の食品会社に就職しました。30になったら茨城に帰って会社を継ぐつもりで。でも、商品開発の仕事がおもしろくなってきて、迷っているときに由真と出会ったんです」
「由真とつきあい始めたのをいいことに、茨城にも帰らず。由真と結婚するでもなく。ずるずると5年も結論を先送りにしてました」
「京都に帰って見合いするって、由真から別れを切り出されたとき。俺には彼女を引き留める資格なんてなかった」
東京駅で新幹線が走り去るのを見送ったあと、自分が情けなくて腹立たしくて涙がとまらなかった。常磐線で水戸の実家に戻る途中、雨も降ってないのに、窓から見える景色が霧がかかったように霞んで見えた。
思い出したら、また‥。くそっ、涙腺がゆるくなったかな。
泰郎に気づかれぬよう、晴樹は天井をあおぐ。歳月に磨かれ烏羽玉(うばたま)の艶をまとう太い梁が、高い天井を支えている。ああ、俺はいつになったら、あんなふうになれるのか。涙を鼻の奥に流し込むと、視線を降ろして長刀鉾の柱時計をとらえた。
「たぶん、由真さんは蟷螂山町におるで」
「祭の今やったら、会所も開いとるはずやから、会えるんとちゃうか」
柱時計を見据えて不動の晴樹に、泰郎が世間話でもする気軽さで言う。
「俺は由真とは‥会うつもりは‥」
視線を伏せて口ごもる。
「なんでや」
「会う資格が‥‥ないから」
ふ――っと、泰郎はわざと大げさに息をつく。
「引き留める資格とか、会う資格とか、言うてるけど。資格って、なんや。そないに大事なもんか」
「人に会うのに、免許証がいるんか。証明書がいるんか。ちゃうやろ」
晴樹が驚いたように顔をあげる。
泰郎は凪いだ海のような笑みを浮かべていた。
「蟷螂山には、なんでカマキリが乗ってると思う?」
晴樹が首を振る。
「『蟷螂の斧』っていう故事があるんや」
「コジ?」
「故事いうのは、中国のことわざみたいなもんや」
「一匹のカマキリが、じぶんの何百倍も大きな王の車に轢かれそうになったとき、鎌を振り上げて威嚇しよった。それを見た王は、カマキリの勇気に敬意をはらって迂回させたそうや」
「そっからな、強いものにも恐れず立ち向かうのを『蟷螂の斧』いうんや」
「今の蟷螂山町のあたりに、四条家のお公家さんが住んではってな。当時は南北朝の時代や。そのお公家さんが、のちの2代将軍の足利義詮(よしあきら)に、ひるむことなく戦ったそうや」
「その勇気を『蟷螂の斧』のようやと讃えて、四条家の御所車の上にカマキリの置物を乗せたんが始まりや、いわれてる」
泰郎はひと息ついて、コーヒーカップを持ち上げ、湯気をゆらす。
「ごちゃごちゃ言うてんと、当たって砕けて来たら、ええ」
「でも‥。由真は5年前に見合い結婚してて。ダンナも、たぶん、子どももいる。そんなところに、俺が会いに行っても迷惑なだけで‥」
晴樹は、まだ、もぞもぞと言い訳をさがす。
「『あんたの顔なんか見とうもなかった、帰って!』言われたら、バイク飛ばして茨城に帰ったらええだけやろ」
泰郎がこともなげに一蹴する。
あまりの単純明快さに、晴樹は目を白黒させる。
「そっかぁ。そっすね。バイクで帰ったらいいんだ」
そっかぁ、そっかぁ。何度も確かめるようにうなずく。
「時のコーヒーを飲んで、ほんで、蟷螂山のことに気づいたんやで。時計が会いに行け、言うてんねん。由真ちゃんの残したサインやろ」
泰郎は長刀鉾の柱時計に、なぁ、と同意を求める。
コンチキチン、コンチキチン。コンチキチン。
鼓舞するように囃子たてる。
泰郎が腰をあげ、晴樹の肩をぽんと叩く。
つられて晴樹も立ちあがり、長刀鉾の柱時計を見据えて「ありがとう」とつぶやく。ちゃんとケリをつけて来るわ。
土間にライダーブーツの音を響かせ、あわてて泰郎の背を追う。
入口の格子戸の脇で、泰郎と桂子が待っていた。
晴樹はふたりの前でブーツの踵を揃えると、きっちり90度腰を折って頭を下げた。
「ありがとうございました」
「あ、こういうとき、京都弁ではどう言うんでしたっけ」
晴樹は半分腰をあげ、うわ目遣いで泰郎に訊く。
「おおきに、や」
泰郎がにたりと笑いながら言う。
「おおきに、ありがとうございました」
野球部の高校生のように声を張りあげて、直角の礼をする。
「こちらこそ。おおきに。またのお越しをお待ちしています」
桂子がえくぼを浮かべて、やわらかく微笑む。
藤色の麻の長い暖簾が風に揺れている。晴樹はそれを右手でそっとあげて外に出た。
刺すような強い陽ざしに、思わず目を細める。隣家の樫の梢で蝉が短い命を主張して鳴いている。熱気がゆらりと足もとから上がってくる。振り返ると、軒へと蔓を伸ばす朝顔がまっ白な大輪の花をゆらしていた。
「桂ちゃん、俺も仕事にもどるわ」
晴樹を追って店を出た泰郎と、並んで表の格子戸をくぐる。
「俺は左や。清水さんの駐車場は右やから、ここでな」
「グッラック」
泰郎が晴樹の顔の前で親指を立てると、「ほな、な」と手をふり、通りを南へ向かって歩き去る。その背が見えなくなるまで、晴樹は見送った。
(to be continued)
本作の主人公、松尾晴樹が脇役として登場する、さわきゆりさんの『不器用たちのやさしい風』も、あわせてお愉しみください。
https://note.com/589sunflower/m/me08a78c52363
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2杯めは、こちらから、どうぞ。
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