小説『オールド・クロック・カフェ』 3杯め 「カマキリの夢」(1)
『不器用たちのやさしい風』は、断ち切ることのできない想いを抱える達也の、せつなくて心あたたまる恋物語とだけ記しておきます。
ぜひ、本編をお読みください。もれなく感動がついてきます!
https://note.com/589sunflower/m/me08a78c52363
* * Welcome Again * *
その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、朝顔が軒下でほほ笑む。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。
そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。
なぜメニューに時刻がついているのかはわからない。そこにどんな秘密があって、何を意味しているのかも。ときどき、この風変わりな黒板メニューに目を止めて、開け放たれた格子戸から中を訝し気に覗きこむ人がいる。
いらっしゃいませ。ようこそ、オールド・クロック・カフェへ。
あなたが、今日のお客様です。
* * Sun Rise * *
清水寺の石段前でエンジンを切った。ヘルメットをとり、頭をひとふりする。背後の峰が白く透けはじめていた。黒く鎮まる山並みから、光が闇を薙ぎはらうようにせりあがってくる。張り出した清水の舞台と、それを支え高くそびえる木組みの桁との明暗がしだいに輪郭を露わにする。まだ姿を現さない光源から伸びる一条の光が、舞台を照らしだした。
晴樹は愛車にまたがったまま、息をするのも忘れていた。ツーリングで朝を迎えたことは、何度もある。だが、こんな全身が震えるような感覚は初めてだった。光の矢は、1300㏄の中古バイク「隼(はやぶさ)」の白い駆体も射程距離に入れまっすぐに貫いた。
7月の京の朝は、冷め切らなかった熱気にぬるく淀んでいる。
石段の下にバイクを停め、仁王門まで上がってみたが、さすがに朝の5時では開門していない。茨城県北部の日立市から夜通しバイクで駆けてきて、尻と内腿が強張っている。まだそこにバイクのボディを挟んでいるような感覚があり、内股が閉じない。姿勢を正そうと大きく伸びをし、後ろを振り返った。
清水坂がゆるく右へ左へと蛇行している。軒をつらねる店の庇が、ポジフィルムのように薄明の光に輪郭だけを浮かびあがらせていた。人の気配は、まだない。都一番の観光地は、朝のまどろみのなかにあった。
あと数時間もすれば喧噪に巻き込まれる町。
今は俺がひとり占めしている。
そう思うと、胸のうちに明るい高揚感がみなぎる。
婚活の失敗で沈みこみそうになる気分を吹き飛ばしたくて、バイクにまたがった。それが、どうだろう。今はウソのように晴れている。考えてみれば、俺も40だ。今さら失恋ぐらいで落ち込むこともないか。いや、そもそも、まだ恋にもなっていなかった。婚活パーティでノリが合って、2回デートした。それだけだ。
晴樹は左右の肩を回すと、また大きな伸びをした。
ジーンズの尻に刺したスマホを抜き取る。その弾みで一緒に入れていたバイクのキーが落ちた。痛む尻をかばいながら、四角い革のキーホルダーを拾いあげる。隼のボディと同じホワイトの革に、黒字で「Haruki Matsuo」と刻まれている。森本から贈られたものだ。「俺は引っ越すけど、東京に来ることがあったら連絡しろよ」そう言って、最終出勤日に手渡された。
あれ、そういえば、あいつ。俺のフルネームが「松尾晴樹」って何で知ってたんだろう。ま、いいか。
森本が仕事を辞めて、1ヶ月か。仕事でもプライベートでも長く付き合っていけそうな気がしてたのにな。別れた恋人とやり直すために東京に戻るって、言うんだもんな。しょうがないか。ちくしょう、うまいことやりやがって。
去年の夏、晴樹と森本達也は大手食品会社の下請け会社に中途採用で入社した。わかりやすく明るい性格の晴樹とちがって、森本はどちらかというと寡黙だった。だが、その日のラインでどんな仕事になろうとも、文句ひとつ言わずに黙々と作業をこなし、さり気ない気遣いもある。直感にすぎないけれど、こいつは人の痛みがわかるやつだ、と思った。
晴樹は白い革のキーホルダーを日にかざして目を細める。落とさないようにメッシュのライダーズジャケットの内ポケットにしまいこんだ。そうして、スマホを手に清水坂を上から見下ろして撮り、そのまま振り返って、舞台を下から見上げて写真におさめた。よし、これを森本に送ってやろう。LINEを開いて写真を添付しメッセージを入力した。
ま、こんなもんで、いいか。送信マークをクリックした。
「もし、もぅし。大丈夫ですか」
ぽんぽんと肩を叩かれて、晴樹は我に返った。目の前には、作務衣を着た剃髪の男が立っていた。手には竹箒を持っている。
茨城から8時間ちょっと。途中で仮眠を取ったとはいえ、走りづくめだったから相当疲れていたのだろう。森本にLINEを送ったあと、仁王門の柱にもたれて居眠りしていたらしい。首を左右に振って、コリをほぐす。
「あ、もう入れますか?」
ジーンズの膝に手をついて、のそりと起き上がる。まだ、尻が痛い。
「へえ、どうぞ。ようこそお参りやす」
清水寺を訪れるのは2度めだ。前に来たのは7年前か。
あのときは、由真と一緒だった。
由真は、東京で勤めていた会社の5歳下の後輩だった。語尾が余韻をひいて伸びる京都弁が珍しく、最初はそこに興味をもった。口調はおっとりしていたが、仕事の手際はよく意外としっかりしていて、そのギャップに惹かれた。30歳手前から5年間交際した。つきあって2年めに「アパート代がもったいないよな」と、晴樹が彼女のアパートに転がりこむ形で同棲をはじめた。晴樹の恋愛遍歴のなかでは、もっとも長く続いたのが由真だった。
ふたりで暮らし始めたころに、京都を訪れた。実家に連行されるのかと、半ばびくつきながら新幹線に乗った。京都駅から市バスで向かった先が清水寺だった。
観光客で鈴なりの舞台の欄干にもたれながら、「あれが京都タワーで、向こうに見える緑の森が御所」などと隣でガイドさながらに説明する由真の方を見ずに、晴樹はおそるおそる尋ねた。
「これから‥その‥おまえの実家に行くの?」
「えぇ、行かへんよぉ。行きたいん?」
「いやいや、いや。でも、ふつうそう思うじゃん」
「ふーん」
由真が首をかしげて、晴樹の顔をのぞきこむ。セミロングの髪が欄干にかかる。由真の切れ長の目に見つめられると、何もかも見透かされそうでどぎまぎする。晴樹は思わず顔をそらした。
「ほんで、おとなしかったんや。晴樹が修学旅行でも京都に来たことない、言うから。それは京都人としては見過ごせへんなぁて、思っただけやねんけど」
「なんやったら、今から、うちに連絡してもええよ」
にこりと微笑みながら、スマホを取り出す。
「いや。今日は修学旅行でお願いします」
晴樹はあわてて由真の方を向き、深々と頭を下げた。
あの日と違って誰もいない舞台の欄干にもたれながら、7年前のことを思い出していた。あれからふたりで京都を訪れることはなかった。だから、由真の実家がどこにあるか知らない。昨夜、茨城を出たとき、行く先を決めていたわけではない。京都南のインター手前で、うっすらと夜が明けはじめるのを感じて高速を降りた。気づいたら、清水寺の石段前にいた。
ほぼ貸し切り状態で境内を一周し、石段前に戻った。ジョギング姿の男が坂をのぼってくる。隼のエンジンをかけた。隼は大型バイクだけにロングツーリングには快適だが、こんな狭い坂道では小回りが利かない。でかいだけに引いて歩くのも大変だ。とりあえず、坂の途中で見かけた公営駐車場に停めよう。腹もすいてきた。モーニングをやってる喫茶店でも探すか。
ところが、開いている店が見つからない。適当に路地から路地を歩いたものだから、今、自分がどの辺りにいるのかも、土地勘のない晴樹にはわからなかった。ランドセルの一団が駆けていく。小学生に訊くのもなぁ。五重塔を右手に仰ぎながら坂道を下る。さすが京都、神社仏閣だらけや。そんなことを思いながら、ひょいっと左手の路地をのぞいた。
白シャツに黒いカフェエプロンをつけた女性が通りを掃いている姿が目にとまった。彼女に訊いてみるか。
「すんません」
声をかけると、路地を掃いていた手を止め、団子にまとめた頭が振り返り、小首をかしげる。
「この辺でもうやってる喫茶店とかって、ないっすかね。茨城から夜通しバイクで走って、腹がすいてるんですけど。開いてる店が見つかんなくて」
「うちも、カフェですよ」
にっこり微笑んで、傍らの椅子に持たせかけた黒板を指す。
『オールド・クロック・カフェ』とある。
時刻のついたふしぎなメニューが記されていた。変なメニューやなぁと思ったが、そんなことを気にしている余裕はない。強張った尻を落ち着け、腹の虫をおさえるのが先だ。
「あの‥開店は‥まだっ、すよね」
「掃除がまだ終わってへんけど、よかったら、どうぞ。もうすぐ、常連さんがお一人お見えになるころやし、開けようか思うてたんです」
由真と同じなつかしいイントネーションだ。
からからから。
心地よい音を立てて、桂子が表の引き戸を開ける。
「ようこそ。オールド・クロック・カフェへ」
右の掌を上に向け、すっと中へいざなう。
引き戸の向こうは、小さな庭だった。
扉を開けるとカフェの店内があると思っていたから、晴樹はちょっと驚いた。ほど良い高さの木が一本あり、涼しげな木陰をつくっている。雀がちゅんちゅんと戯れながら、板塀と枝を行き来する。飛び石には、打ち水が撒かれ、黒くつややかに光っていた。
(to be continued)
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