見出し画像

オールド・クロック・カフェ #1杯め「ピンクの空」(4)

前回までのストーリーは、こちらから、どうぞ。
(1)から読む。
(2)から読む。
(3)から読む。

<あらすじ>
京の八坂の塔近くにある『オールド・クロック・カフェ』はある。時計に選ばれた客にだけ出される「時のコーヒー」は、時のはざまに置いてきた「忘れ物」を思い出させてくれるという。亜希は時計に選ばれた3番目の客。白い柱時計が示した時刻は4時38分。亜希は小学4年生の夏休みの宿題の絵を描いている過去へ。ピンクの空を姉と母に否定され描き直すことになる。
<登場人物>
カフェの客:亜希
カフェの女性店主
亜希の母
亜希の父
亜希の姉:早希 


* * coloring * *

 遠い過去に置き忘れてきた夏のひとコマを早回しのフィルムのように思い出し、亜希は深い吐息をはいた。小学生だった私が無意識に心の奥に鍵をかけてしまい込んだできごと。もうとっくに時間が洗い流してくれているから、今さら傷つくことはない。では、どうして。

 亜希はコーヒーカップを少し持ち上げたまま、ゴブラン織の椅子に深く体をあずけ、ぼんやりと考え込んだ。白い柱時計に目をやる。あの美しい時計は、私に何を知らせようとしたのだろうか。カフェの女性は「忘れ物」といった。「時のはざまに置き忘れてきたもの」に気づかせてくれるのだと。

 あの夏に何を置き忘れてきたのか。
 挽きたてのコーヒーの香りを胸で味わいながら、記憶の紐を手繰り寄せる。白い柱時計の振り子は一定のリズム運動を繰り返している。時計が鳴った4時38分は空を塗り直すことが決まった時刻だった。

 からからから。
 小気味よい音をたて、若い女性店主が格子戸を開けて通り庭へと出て行った。何をするのかしら。窓からうかがうと、御影石の手水のたもとで揺れている連翹と雪柳を何本か剪定鋏で切っていた。手水の後ろに隠れていた山吹も加え小ぶりの花束をこしらえて、また、からからと引き戸の音をたてもどった。棚からガラスのピッチャーを出し無造作に活ける。格子戸のすき間を縫って射し込む光が、カウンターの上にきっちりと格子の幅の光と影のストライプを描き出している。

 格子戸に近いカウンターの端に花を盛ったピッチャーが置かれた。それを見るともなしに眺めていて亜希は、ふと気づいた。戸外ほども明るくないからだろう。まっ白なはずの雪柳が、光と影のいたずらなのか、微妙に色をまとって見える。淡い黄の連翹に挟まれ光に照らされている一枝は、かすかに金色の輝きをまとい首をかしげる。みかん色の山吹の隣で影になっている枝は、濃い黄を帯びてゆらゆらと揺れている。光と目のふしぎな錯覚。パレットで絵の具を溶かなくても、色はこんなふうに互いに影響しあうのか。

 戸を開けたときに迷い込んだのだろう。蝶がひらひらと時計から時計へと戯れている。窓から射しこむ光に鱗粉がくるくると踊るさまが浮かびあがる。蝶の羽の色は構造色だと聞いたことがある。羽や鱗粉には美しい色はなく、複雑な形が光を反射させ宝石のごとく輝く羽の色になるのだと。

 雪柳から蝶へと。いざなわれるように色のふしぎに思いを巡らせていて、亜希はようやく気づいた。4時38分に何を忘れてきたのかを。
 そうだ。私はあの時間に「色」を置き去りにしてきたのだ。臆病になったと言ってもいい。

「色」がずっと苦手だった。

「空は水色で、雲は白でしょ」
 母のことばが呪文となって幼い亜希を縛った。引き金になった海の絵は、記憶の奥底に押し込んでしまっていたけれど。「正しい色」というのがあると信じ、そこから外れてはいけないと思い込んだ。図工や美術の授業では、周りをちらちら見るクセがついた。みんなと同じ色で塗る。そうすれば、まちがわずにすむから。

 27歳になった今も、服のコーディネイトにまるで自信がない。仕事のときはたいてい制服のような黒かグレーのパンツスーツばかりを着る。そうしていれば、まちがっていない服を着ている安心感があった。だから、私服は苦手。トルソーにディスプレイされているのを全身まとめ買いすることもある。じぶんでコーディネイトなんて、怖くてできない。だって、どの色とどの色の組み合わせが正解なのかがわからないのだから。今日も、淡いグレージュのパンツスーツだ。

 亜希は深いため息をついて、コーヒーをゆっくりと啜った。
 ふふ。微妙なグレースーツのバリエーションばかりね。自嘲ぎみの笑いを漏らし、12番の白い柱時計を見上げる。

――忘れ物は‥‥色だったんだね。
 そっと胸でつぶやく。
――ぼーん、ぼーん。
 そうだ、というように白い時計が時を打つ。

 考えてみれば「正しい色」なんてないのにね。
 幼児はよく誰に教わるでもなく、太陽を赤のクレヨンで描く。大人たちはそれを微笑ましくみる。でも。昼の空にある太陽は、たいていまぶしい白か金だ。陽が傾くにつれてようやく朱から濃い赤になる。太陽を白で描く子どもがいれば、「ちがうよ」とまた大人は常識を持ち出すのだろうか。目に映る自然とは異なる色を定番にしたのは、いったい誰なのだろう。

 亜希はあいづちを求めるように時計を見上げる。蝶が白い柱時計を飾る黒ずんだ真鍮の植物装飾のひと枝にとまった。まるで本物の枝葉がそこにあるように。亜希はコーヒーカップを両手で包みこみ、それを見つめる。

 色への自信を取り戻そう。
 簡単ではないだろうけれど。「正しい色」のトラウマから解放してやることはできそうだ。だって、「時のコーヒー」の夢でみたピンクと水色と薄紫のまじりあう空は、正しい空ではないと烙印を押されたけれど、大人になった今の亜希が見ても、美しいと思えたから。

 まずは、そうだ。前からの懸案だったカラーコーディネイターの勉強をはじめよう。
 亜希の名刺に印字されている店舗コーディネーターの肩書は、ただの飾りだ。短大を卒業して入った中堅の建設会社には、京都という土地柄から店舗事業部があった。店の新築を請け負うこともあるが、古くからの小さな店が軒をつらねる京では、町家のリノベーションやリフォームの案件が多い。亜希はそこに配属された。コーディネーターというのは名ばかりで、要は、客と工事業者や設計士との伝言係にすぎない。壁材や床材、什器などのサンプルやカタログをもって客を訪問し、施工業者に客の要望を伝えるだけ。それでもごく稀に客から「どっちの色がいいかな」と尋ねられ、どぎまぎすることがある。当たり障りのないことを返してその場を凌ぐのだが、客の顔に失望がにじむ。それに気づかないふりをして、ずっと色を遠ざけてきた。
 亜希は残りのコーヒーをひと息で飲み干した。

 でも。逃げるのは、もう、やめよう。
 きちんと基礎から勉強すれば、自信は取り戻せなくても、臆病にならずにすむ。胸を張ることはできなくても、「こちらの色のほうがすてきですね」と薦めることができるようになるだろう。センスを磨くのは難しくても‥。

 そこまで考えて、亜希は不意に父を思い出した。
 そうだ。お父さん。お父さんに相談してみよう。スペインに絵を描きに行って、もう、ずいぶん会っていないけれど。お母さんが嫌がるから、父の絵を見たことはないけれど。
 あの夏の後、画家になるといって家を出た父は、ヨーロッパを放浪し、最後にたどり着いたスペインで画家として認められたらしい。5年も経ってようやく届いたハガキには「アンダルシアの空が気に入った」とだけ記されていた。常識人の母とはちがい、父は気ままな自由人だった。
 亜希は幼稚園のころ、よく父とお絵かきをした。亜希の絵を父はどれも「おお、すごいな」とか「天才だな」とか手放しでほめ、「よし、お父さんも描くぞ」といって描きだすと、たちまち娘のことを忘れて夢中になる。父が描いた絵には、ピンクの象や水色のトラがいた。
「ピンクの象さんは、いるの?」
「いると思えば、いるんだよ。でも、ママには内緒な」
 そう言って無理やり指切りをさせられた。ママには内緒。「いいことではないんだな」と幼い亜希は思った。父はよく母に叱られていた。今から思えば、家の中でいちばん子どもだったのは父かもしれない。幼い亜希は父をじぶんと同列に思っていたふしがある。やるべきことを示してくれるのは母であり、父は遊び友だちにすぎなかった。「いると思えば、いる」その自由な発想の大きさに気づくには、亜希は幼すぎた。

 亜希は父とむしょうに話したくなった。
――父に会いに、スペインに行こう。今すぐは無理でも。 

 今朝、出がけに郵便受に入っていたハガキを内容を確かめもせずバッグに突っこんできたことを思い出した。ふつうのハガキよりも少し縦長の大判だった。赤でAir Mail の文字が走り書きされていた気がする。亜希はあわててバッグをさぐる。取り出した厚めのつるっとしたコート紙のハガキには、右肩上がりが特徴の父の字が躍っていた。

 父の個展の案内状だった。
『脇坂悠斗 凱旋個展「蒼の幻想~スペインの空から」』

 大仰なタイトルと開催期間のわずかなスペースにボールペンでひと言、「会おう」と書かれていた。

――えっ、お父さん帰って来るの? 京都で個展を開くの?
 神のいたずらだろうか。願ってもないタイミングに亜希は目を疑う。さらに、ハガキを裏返してそこに印刷されている絵に、大きく目をみはった。

 タイトルは『コスタ・デル・ソルの空』。
 画面の中央下から右にゆるい傾斜でのぼるようにコスタ・デル・ソルの白い壁の家々が描かれている。それ以外は、ほとんどが空だ。それも‥‥。
 淡いピンクと紫と水色とそれらがまじりあった色たちが、互いに浸食し、ぼかしあい、交錯し、溶けあって広がる幻想的な空が一面に描かれている。
 亜希はことばを失い、まなじりに涙が小さな玉を作る。

「うわぁ、素敵な空ですね」
 不意にハイキーの声が降って来て、亜希は顔をあげた。水の入ったピッチャーを持ってカフェの女性が立っていた。

「すみません。勝手に見ちゃって」
「父の絵なの」
 亜希は掌を頬骨にあて、人差し指の先で涙の玉をそっとぬぐう。

「お父様は、画家さんですか」
「ええ。スペインでね。今度、帰って来て、個展を開くみたい」
「どこで? 京都だったら見に行きたいです」
 亜希のグラスに水を注ぎながら言う。

「これ、個展の案内状なんだけど。今日届いたばかりで一枚しかないから差しあげることはできないの。でも、良かったら、のぞいてみて。父もきっと喜ぶわ」
「ギャラリーはどこですか。メモりますね」
 ピッチャーをテーブルに置き、カフェエプロンのポケットから小ぶりのメモ帳と鉛筆を取り出す。

「四条西洞院のギャラリー『時枝』だって」
「わぁ。ギャラリー『時枝』ですか」
「知ってるの? 有名なギャラリーかしら」
「あ、いえ。有名かどうかは‥ちょっと。私は絵にくわしくないので、わからないんですけど。名前が‥。時枝って。時の枝でしょ。この店みたいだなって。なんか親近感が」
「あら、ほんとね」
「それに‥。この絵の空。すごく綺麗で。ぜひ実物を見てみたい」
「そうね。私も見たいわ」
 この娘も、ピンクと紫と水色のまざりあった空を美しいという。亜希は、なんだか誇らしくなった。胸がふつふつとして、こそばゆくなった。正しい色なんてない。私はまちがっていなかったんだ。あの夏の日のじぶんを抱きしめてやりたくなった。

「ところで、忘れ物は見つかりましたか?」
 カフェの女性が首を少しかしげながら訊く。
「ええ。見つかったわ。ありがとう」
 亜希はピッチャーを胸に抱えて佇む女性を見つめ、それから白い柱時計に視線を滑らせる。

――ありがとう。忘れていた「色」に気づかせてくれて。
 心でつぶやきながら、立ち上がる。
――ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 白い柱時計が、亜希の背を押すように時を打つ。蝶がびっくりして飛びたった。店中の時計が亜希にエールを贈るように、思い思いに時を鳴らす。それらが重奏になってひとつの曲を奏でていた。

「ありがとうございました。また、いらしてくださいね」
 店員がぴょこんと頭をさげる。

 亜希は格子戸を開けた。山吹が軒下で手をふる。陽ざしがまぶしい。父の個展の案内状をバッグに大切にしまうと、亜希は両手を前で組んで背筋をのばした。
 そうだ、帰りに河原町の高島屋で春色のワンピースを買おう。



(1杯め The End)

「またのお越しをお待ちしております」




 #短編小説 #みんなの文藝春秋 #連載小説 #物語


この記事が参加している募集

#私のコーヒー時間

27,045件

#この街がすき

43,544件

サポートをいただけたら、勇気と元気がわいて、 これほどウレシイことはありません♡