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小説『オールド・クロック・カフェ』 #1杯め「ピンクの空」(3)

前回までのストーリーは、こちらから、どうぞ。
はじめから、読む。
(2)から、読む。

<あらすじ>
京の八坂の塔近くにある『オールド・クロック・カフェ』。時計に選ばれた客にだけ出される「時のコーヒー」は、時のはざまに置いてきた「忘れ物」を思い出させてくれるという。亜希は時計に選ばれた3番目の客。白い柱時計が示した時刻は4時38分。亜希は小学4年生の夏休みの宿題の絵を描いている過去へ。ピンクの空を姉と母に否定され描き直すことになる。
<登場人物>
カフェの客:亜希
カフェの女性店主
亜希の母
亜希の姉:早希


* * welcome  back  * *

 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 黒ずんだ真鍮の優美な植物装飾をまとった白い柱時計が、ぼんやりとほの暗い空間に浮かび上がる。ブラスの振り子が左右にゆれる。頭の奥のほうで響いていた柱時計の音が、じかに鼓膜を振動させる音として聞こえ、亜希は目が覚めた。意識がうつつと夢の間で振り子のようにまだゆれていたが、現実に戻ったことがわかった。壁という壁に掛かっている時計が心配そうに見下ろしている。うっすらと目を開けた亜希にはそんなふうに思えた。スローモーションで店内を見渡し、目尻に残った涙を人差し指でぬぐう。通り庭では、まだ、紋白蝶がひらひらと遊んでいた。

 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 白い柱時計が、亜希が目覚めたことを知らせるかのように時を打った。
その合図に気づいたのだろう。カフェの店員が新しく淹れなおしたコーヒーを盆に提げて持ってきた。

「忘れ物は見つかりましたか」
「コーヒーが冷めてしまっているので、お取り替えしますね」

 これを飲むとまたあの夢に戻ってしまうのだろうか。
 丁寧にローストされたふくよかな香りを纏う湯気を見つめながら、亜希はためらっていた。それに気づいたのだろう。
「いったん目覚めると『時のコーヒー』の力は失われてしまうんや、と祖父が言ってました」
「二人めのご夫人もお目覚めになってからは、ふたたび微睡まれることはなかったですよ」

 ほっと、ひとつ息を吐いてコーヒーカップに口をつけた。まだ、頭のなかをさっき見たばかりの光景がぐるぐるとエンドレスで回っている。

 亜希はあの絵のことをすっかり忘れていた。ひょっとすると、じぶんで記憶に蓋をして心の奥底にしまい込んでいたのかもしれない。いったん開いた蓋は、あの午後に続く記憶を次々に呼び覚ました。


* * memory * *

 翌朝、姉の早希は朝食のパンをかじりながら早口で話しかける。
「亜希、ごはん食べたら、昨日の空を塗り直すよ。あんたの机じゃ二人でできないから、リビングのテーブルでしよう。絵の具とか用意しとってよ」

 亜希はぼそぼそとトーストをかじりながら、向かいの席の姉を上目づかいで見あげ無言でうなずいた。姉の指示はいつも的確で要領を得ている。それだけに逆らう余地など1ミリもなく、亜希にはいつだって従う以外の選択肢がなかった。逆らうよりも従うほうがずっと楽だったというのもある。亜希はたいてい深く考えることもなく母や姉の指示どおりにしてきた。

 でも、その日は、気持ちが前に進まなかった。はっきりと抵抗する気持ちがあったわけではないが、あの空を塗り直すのかと思うと心が下を向いてしまう。マーマレードをたっぷり塗ったトーストは、ふだんなら亜希のお気に入りだが、今朝は乾燥したフランスパンのように口の中でもたつく。亜希はもぞもぞとトーストを噛み続けた。

 姉はさっさと食事を終えて食器を流しに片付け、2階にあがっていった。入れ違いにベランダで洗濯物を干していた母が、パタパタとスリッパの音をたてて階段を下りてくる。
「亜希、早く食べなさい。もう、お母さん仕事に行くからね。あんたが食べ終わるの待ってられんわ。じぶんで食器、洗っときなさいよ」
 この家では、亜希以外のふたりはてきぱきしている。
 亜希はあわてて口の中で形をなくしたパンを無理やり呑み込んだ。

 亜希がパンを牛乳で流しこんでいると、トントントンと一定のリズム音を立てて姉が降りてくるのが見えた。
「えー、まだ食べてるの。もう、しょうがないな」
 早希は階段の途中で方向転換をして、また、2階にあがっていった。亜希は一気に牛乳を飲みほすと、あわてて皿とマグカップを流しに運んだ。早希が今度は絵の具バッグを手に持って階段を降りてきた。準備まで姉にしてもらうことになり、亜希はますますじぶんが情けなくなった。

「で、なんで空をピンクに塗ったん?」
 早希はパレットに白、青、水色を順に出しながらたずねる。

「はじめは、海も空も水色に塗ってたんやけど‥‥。どっから海で、どっから空かわからんようになって‥」
「海と空を分けよう‥思って‥」
 ぽつりぽつりと亜希が理由を話す。なぜピンクだったのか。ピンクを塗ろうと思った気持ち。水色にピンクが溶け合って偶然きれいな薄紫になったこと。ピンクと水色と薄紫がまざりあった空に心うばわれたこと。それらをどの順番でどう説明すればいいのかわからず口ごもる。

「えー、それで空をピンクにしたん? 意味わかんない」
 はじめから空を全部ピンクにするつもりはなかったことを伝えたかったのだが、亜希はことばを探して口を閉じる。
「そんなんはね、水平線から入道雲を描いときゃいいの。こんなふうに。ほらね、これで空と海の境めがわかるやろ」
「でも‥‥。写真には‥入道雲は写ってへんもん‥」
 おずおずと亜希が言い返す。
「あんたは、ほんまにまじめやな。提出するのは絵だけ。写真もいっしょに提出するん? ちがうやろ。入道雲が出てたことにすれば、ええんよ」
「それに、夏といえば入道雲やろ」
 早希はそう言うと、筆にたっぷり白い絵の具をとって、さっさと水平線に大きな入道雲をふたつ描いた。たちまち、空と海が分かれる。亜希があんなに苦労したことを姉はいとも簡単にやってのけた。

「あとは、雲以外のところを水色に塗り直すよ」
 亜希の倍のスピードで早希がピンクの空を水色に塗り直す。またたく間に入道雲の湧く夏の空が広がる。どこかで見たことのある海の絵ができあがった。亜希がうっとりした空は、もうひと欠片も残っていなかった。

 父がいた夏のしあわせな記憶まで色褪せ、平凡な夏の絵になってしまったように亜希には思え悲しかった。楽しかった夏はもう二度と帰って来ないのだと、単調な水色に塗りつぶされた空が告げているようだった。

 ふつうの空が、皮肉にもふつうの家族の思い出を塗りつぶしてしまった。
 同時に、亜希は「色」に対する自信を封印してしまった。


(to be continued)

(4)に続く→


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