『オールド・クロック・カフェ』4杯め「キソウテンガイを探して」(13)
* * * Confession * * *
「お待たせしました」
カウンターのいつもの席で新聞を広げている泰郎の前に、桂子はコーヒーとチョコレートを3粒のせた白磁の豆皿を置く。淹れたてのコーヒーの湯気がひそりと残っていた2月の冷気を抱いてゆらゆらと昇る。熟れた果実にも似た芳醇な薫りがふわっと漂った。新聞を畳みながら泰郎が、おやっとチョコレートの皿から桂子に視線を移す。
「バレンタインでしょ」
「今日はバレンタインか。瑠璃が結婚したから忘れてたわ。桂ちゃん、おおきに」
2月の京の朝はまだ寒い。だるまストーブがあたためた空気が窓を白く霞める。
からからから。
格子戸が開く音がして、桂子と泰郎がそろって戸口に顔を向ける。
「環ちゃんやないか。おはようさん」
「おじさま、ほんまに毎朝いてはるんやね」
「日課やかさかいな。ここでコーヒー飲まんと一日がはじまらん」
瑠璃と来たのかと、泰郎は首を伸ばして環の後ろを窺う。娘の顔は見たい。見たいが、カフェで会うと、お父さんはまた油を売ってとなじられ、早々に退散せんとあかんのもかなわん。新聞を広げ顔を隠しつつそれとなく環の背後に目をやる。
風にあおられた暖簾にからかわれ入って来たのは男だった。
おや、環ちゃんが珍しい、と泰郎は新聞を鼻先まで下げる。
あれだけの美人やのに男っ気がないのが不思議やったけど、ええ人ができたんやな。それにしても、ぱっとせん男やなあ。
環について入って来た男性は、顔にまとわりつく暖簾をはがしながら背を向けて格子戸をきちんと閉め、向き直ると、柱時計が壁を埋め尽くす店内の景色に、眼鏡の奥の細い目を見開き口をあんぐりと開けて固まった。不動の魔法をかけられたみたいにぴたっと止まっている。その姿がどことなく可笑しくて桂子は小さく笑う。
「いらっしゃいませ」
カウンターを出て頭をさげる。
「こちらは、店長の桂子ちゃん」
環が桂子を紹介すると、男はあわててコートの内ポケットから革の名刺入れを出し
「宇治市役所総務部市民税課の時任正孝と申します」
と手本のようなマナーで桂子に名刺を渡した。
桂子は名刺と男の顔を交互に見やり、滑稽なくらいの生真面目さに思わず頬がゆるむ。
「お好きな席にどうぞ」というと
ぼーん、ぼーん、ぼーん
16番の時計が鳴った。
「ここにはね、時計に選ばれた人だけが飲める『時のコーヒー』っていう不思議なコーヒーがあるの」
語りながら環が振り返る。
てっきり後ろに控えていると思っていた正孝がいない。視線を左右にゆらすと右の壁際で鳩時計に顔を近づけ、伸びあがったり、振り子をのぞいたりしている。後ろで組んだ手がそわそわしている。触りたいのだろう。こんな正孝を見たことがない。くすっと笑みをもらして環は16番の時計の前の席に腰かけた。
「時計がお好きなんですか」
盆を提げた桂子が正孝の背に声をかける。
「ええ。振り子とぜんまいと歯車の動きで正確に時を刻む。すごいですよ」
正確さに惹かれるところが正孝らしいと環は思った。正孝の背を眺めながら、環は22年ぶりの母との再会をなぞっていた。
母は大津駅からタクシーで10分ほどの住宅地で暮らしていた。
はらはらと涙をこぼす頬にはほうれい線が深く刻まれ、目尻に走る皺でファウンデーションはひび割れている。重力に抗うことを諦めた頬と瞼。確かに母ではあるが微妙に歪んだパーツの違和感がぬぐえず、記憶にある若く美しい母と直線で結びつかない。22年の歳月は容赦なかった。
高遠との暮らしは3年で破綻したという。
夫と幼い娘を残してアメリカに渡った不義理に激怒していた綾の父親は「京都の地を踏むな」と帰国した娘に厳命し、代わりに大津の家を与えた。愚かな行為は許せんけど、娘のこれからは心配という親心が切なくて。私はみんな不幸にしてしもた。謝って済むことやないけど、かんにんえ。
うつむいた頭はしばらく上がらなかった。
その程度の謝罪で22年を帳消しになんかできない。
「なんで高遠さんについていったん? まだ、愛してたから? せやったら、なんで3年で帰って来たん?」
「愛してたかどうかは、ようわからんの。恋焦がれるほどの想いは消えてたけど、迅への気持ちは宙ぶらりんのままやったから。埋火のようなもんは残ってたかもしれん。確かなのはあの日、さもしい下心を抱いたいうこと。成功した迅と一緒に行ったら私も同じ場所に立てるかも。ジャズピアニストになれるかも。そんな甘い夢を見てしもた」
だが、その夢はまるっきりの夢ではなかったらしく、迅は綾をバンドのメンバーにごり押しで入れた。けれど。
ピアニストは一日弾かんと自分でわかり、3日弾かんとお客さんに気づかれる。ピアノから遠ざかってたし、家事のあいまに2時間も弾けばいいほうやったから。指が回らん。プロの演奏についていけへん。容赦ない罵声を浴びた。それでも迅は使ってくれたけど、それが辛かった。半年ほどでバンドから抜けて狂ったように練習した。環と祐人を犠牲にして来たんやもん、がんばらんとと思うた。環のことを思わん日は一日もなかったよ。風邪ひいてへんやろか、熱出してへんやろか、今日は誕生日やなとか。自分が捨ててきたくせに、ほんまに勝手やけど、環のことを思うとがむしゃらにがんばれた。でも、練習のしかたがまちごうてたんやね、腱鞘炎になってしもて。そのうち迅ともすれ違うようになって。腕も心もぼろぼろで……。
そこで絶句した母のあとを父が続けた。
「高遠から、迎えに来てくれないかと連絡があってね」
えっ? 環は事態がのみこめなくて混乱した。
「ピアノの腕は罵倒される。練習したくても腱鞘炎で弾けない。頼りの高遠は不在がちでひとりぼっち。お母さんは自分で自分を追い詰めて、うつになってしもたんや」
「高遠は自分が日本まで送ってやりたいけど、スケジュールが詰まってて身動きがとれん。全米一周ツアーもあって一人残しておくのも心配や。こんなことお前に頼める立場やないことはようわかってる、せやけど、言うてな。お父さん、アメリカに1週間出張に行ったことがあったやろ、あれはお母さんを迎えに行ってたんや」
そういえば、北山のおばあちゃんが1週間泊まってくれたことがあった。6年生の夏休み前で祇園祭の宵山も祖母と出かけた。
「高遠はな、すまんかったって謝ってくれた。はじめに祐人が裏切ったんやから俺が奪い返して当然やと意地になってた、それが綾をこんなふうにしてしもた、すまんて何度も頭を下げた。高遠は自分の非をごまかさずに認める。私は卑怯な自分との違いを痛感したよ」
父は頬をゆがめる。母はハンカチを握りしめた手を膝に置いてうなだれている。
「そもそも高遠さんがアメリカに行かんかったら、良かったんとちゃうの」
「ああ、そうかもしれん。けど、そしたら世界のJinも、Jinの音楽も生まれてへん。そして、環、お前もな」
それはそうかもしれんけど。たった一つのボタンのかけ違いは、もうどうにもできんのやろか。
「綾を連れて帰って来る飛行機の中で、も一回やり直さへんかって訊いたけど、そんな都合のいいことはでけへん言われてな。そのときは綾の心の状態も不安定やったし、環も思春期に差しかかってたし、もうちょっと様子みよかと考えたんや」
「それがこないに長いことかかってしもて。環、お前にはほんまに悪いことをした。すまんかったな」
「ごめんね、環、ごめんね。ごめんね。ごめんね」
母は消え入りそうな声でつぶやき続ける。
「お前にはまちがえてほしくないんや、お父さんやお母さんのように」
父のフレーズに母の「ごめんね」がシンコペーションで重なって鳴りやまなかった。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
16番の時計が環を現実に引き戻す。
正孝が向かいの席に腰かけるところだった。
(to be continued)
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