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『オールド・クロック・カフェ』4杯め 「キソウテンガイを探して」(12)

第1話から読む。
前話(第11話)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
京都の八坂にある『オールド・クロック・カフェ』には、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれる「時のコーヒー」がある。
常連の瑠璃が連れて来た環は16番の「時のコーヒー」を飲む。環は8歳の誕生日に母が出て行った過去をもつ。30歳の誕生日に正孝からプロポーズされた環が「時のコーヒー」で見た過去は、22歳の誕生日のシーンだった。当時の恋人の翔は、砂漠で2000年も生きるキソウテンガイという植物を研究するためナミビアに旅立つ。環は、また、誕生日に大切な人に捨てられたと思い込み記憶を封印していたが、瑠璃に助けられ8年ぶりに翔に電話をした。
瑠璃は環に母と向き合えという。環は父にすべてを話し「お母さんに愛されてなかったのかな」と積年の思いを告げると、父はすべての原因は親友を裏切ったじぶんにあるという。学生時代、祐人(環・父)、高遠、綾(環・母)はジャズバンドを組んでいた。当時、綾の恋人だった高遠は夢を追いアメリカに渡る前に綾に婚約を持ちかける。それに激怒した綾の親が、綾に見合いを迫る。追い詰められた綾は、祐人に助けを求める。

<登場人物>
  カフェの店主:桂子 
桂子が姉と慕う:瑠璃
   瑠璃の友人:杉森環
   環のかつての恋人:松永翔   
環の現在の恋人:正孝
      環の父:杉森祐人
   環の母:綾
     父の親友:高遠じん 


* * * Time goes by  * * *

 運ばれてきたコーヒーの薫りが私を正気に返らせた。ひと口啜ると、ひび割れた大地に水が浸みこむように喉を潤しようやく呼吸ができた。声帯がふるえ意味のある声になる。
「今のは忘れてくれ。君がアメリカに行く方法を考えよう」
 綾の肩から手を離し向かい席に戻って、失言を覆い隠そうと私はしゃべり続けた。
 まずはパスポートや。親に取り上げられたんやったな。紛失届を出そう。パスポートは海外で失くすより、国内のが多いんや。ほんで‥‥‥。
 綾の涙は止まっていたが、じっと黙っていた。その沈黙が怖くて壊れたレコーダーのように同じフレーズをぐるぐる繰り返す。何周目だったろう、綾が貝のように閉じていた口を開いた。
「祐人、私のこと愛してる?」
 ステンドグラス越しの灯りが綾の顔に美しい陰翳をつけ、泣き濡れた目が私をとらえる。何を言い出すんやと思った。だが、綾のまなざしは真剣だった。こちらがひるむほどに。
「ああ、はじめて会った日から、ずっと」
「あ、でも。高遠と君の交際は応援してたし、結婚も心から祝福するつもりやった」
 早口で付け足す。
 うん、わかってると綾はつぶやくと
「祐人と婚約するわ」とかすれた声を絞りだした。
 店内にはドビュッシーの『月の光』が静かに流れていた。

 簡単には認めてもらえないと覚悟していたが、目を閉じ腕組みしていた綾の父親は顔をあげると「善は急げや。結婚の準備を進めなさい」といって座敷を立った。北山にある綾の家の庭では紅葉が色づきはじめていた。
 京都市役所勤めが効いたのか。愛娘を目の届くところに置いておきたかったのだろう。私たちの小細工などはなからお見通しで、本気を示せといわんばかりに、3カ月後には式を挙げる手はずが当人たちを置き去りにして決まっていった。
 綾は淡々と受け入れていた。
 私は自らの失言が、いや失言ではない、心の奥底に押し込めていた妬心と欲心が鎌首をもたげた結果がもたらした事の重大さに震えていた。

 ――同居するだけ、結婚は形だけで仮や。
 そんなことを新婚旅行先の金沢で、雪のちらつく兼六園を歩きながら話した。
 せやから、寝室は別にするつもりやと。
 綾は、なんで?と小首をかしげる。
「私は祐人と結婚したんよ」
 歩みを止めて私に向き直る。
「迅とるといっつも16ビートで心臓が跳ねてた。頭の回転が速くて、ぱっと決めて行動する。振り回されてばっかり。ジェットコースターに乗ってるみたいで、ドキドキしておもしろくて惹かれた。でもね」
 と、雪の舞う空を見あげる。傾けた傘の上を粉雪がすべる。
「3年後に迅が帰ってきても結婚は認めてもらえん、きっと。夢破れての帰国はもちろん、成功してもお父さんはミュージシャンなんか認めない。私をアメリカに連れてくいうなら、なおさら」
 結婚して綾のパスポートが手に入ったら、アメリカ行きを算段すればいいと考えてた自分の甘さにほぞを噛む思いだった。綾はあの長い沈黙のあいだにそこまで考えて覚悟を決めたのだ。
「だからやないよ。祐人と結婚したのは」
「迅に振り回されがちな私を祐人はフォローしてくれてた。迅がアメリカに行ってしもて気づいたの、祐人のつつましい優しさに。迅は私の手を引っ張るけど、祐人は私の背を支えてくれる。迅との恋は刺激的で楽しかったけど、結婚生活にジェットコースターはいらんもん」
「祐人の隣でなら、安心して呼吸できる気がする」
 
 私たちの結婚の経緯を報せると、高遠からの音信は途絶えた。
 環が生まれてほんまに幸せやったけど、親友を裏切ったという罪悪感が消えることはなかった。この幸せは高遠のものやったのに、と。

 あの日、高遠が迎えに来たとピンときた。だから、探さんかった。胸に刺さったままやった棘がとれたような気がした。
 それが環をこんなにも深く永く傷つけてしもた。かんにんな。
 お母さんはな、環も連れて行きたかったはずや。けど、私のために環を残してくれたんや。

 そこで話を切ると父はソファから立ち上がり、リボンのついた箱を抱えて戻って来た。高島屋の包装紙は赤いバラがうすぼんやりして、ピンクのリボンも色褪せ、角もところどころへしゃげている。
「開けてごらん」
 父にうながされリボンの先をそっと引いて包装紙をはがす。
「あっ」環は小さく声をあげた。
 現れたのはシルバニアファミリーのキッチンセットだった。8歳の誕生日にリクエストしていた。環は視線をあげる。
 父はうなずく。
 お母さんはそれをボストンバッグに入れて隠してた。そのバッグにうっかり荷物を詰めて持っていったんやな。あとで気づいて送ってきたけど、届いたのは1カ月後で同じものはすでに買い直してたし、環が悲しみをぶり返してもと思って渡せずにいた。
 お母さんは最後まで迷ってたんやと思う。

「ジャズサックス奏者のJinって、知らんか?」
 名前なら聞いたことがある。世界レベルで有名な日本人ジャズサックス奏者だ。
「Jinは、高遠や」
 えっ。環の声が裏返る。
「あの5日前に東京でJinの凱旋コンサートがあった」
 何日か前に高遠から連絡があったんとちゃうやろか。あの日のフライトでアメリカに帰る予定の高遠は、綾の意思なんか気にもとめず、待ち合わせの時間と場所だけを伝えたんやろ。学生時代も予定を決めるのは高遠で、日程と場所だけ伝えてくる。おまけに綾は約束の時間をまちがえることも多かった。せやから高遠は、時間になっても綾がんのは忘れてるんやと思って迎えに来た。急いでたからバッグに荷物を詰めたのは高遠かもしれん。
 けど、綾は迷ってたんとちがうかな。ケーキを作ってたくらいや。ほんまに高遠のことは忘れてたのかもしれん。あの日は環の誕生日で、たぶん綾の頭にはそれしかなかった。せやし、高遠が急にやって来ておろおろしたんとちがうやろか。そんな綾を高遠は「時間がない」と強引に引っ張っていった、光景が目に浮かぶよ。

 毎年、環の誕生日にお母さんはプレゼントを送ってきてた。「こっそり渡して」と頼まれてたから、お父さんからのプレゼントはいつも二つあったやろ。誕生日プレゼントだけやない。環のお気に入りの赤いカーディガン。あれは綾が編んだ。水玉のワンピースも、リボンのついたセーターも、ピアノの発表会のドレスも。ぜんぶ綾が作ったものや。ほんまは一緒に祝ったり笑ったりして環の成長を見守りたいやろうと思うと切なくて。写真とビデオを送るくらいしかできんかった。

 ああ、それでか。
 父はことあるごとに環の写真を撮りビデオを回した。何枚も何枚も連写で撮るから恥ずかしくなって、もうやめてと言っても父は撮影をやめようとしなかった。

「キソウテンガイはたった一対の葉で2000年も過酷な砂漠で生きる言うてたな。私と綾はキソウテンガイにはなれんかった。はじまりをまちがえてしもたから」
「しかたなかったんやないの、お見合いを回避するには」
 父はゆっくりと首を振る。
「それでもな、順番をまちごうたんや。綾がアメリカに行けんのやったら、私が行けばよかった。高遠に帰って来い、お前が帰って来んのやったら俺が綾と結婚するぞ、それでもええんかと説得して了承を得るべきやった」
「それを……」
 父は何かをこらえるようにぎゅっと口をつぐむ。
「うやむやにしといたほうが綾と結婚できると、薄汚れた下心がすべてを歪めた」
「お父さんは、最愛の女性を二人とも不幸にしてしもた」
「環にはまちがって欲しくないんや。お父さんやお母さんのように。翔君と正孝君と。環がほんまに好きなんはどっちか。困難な状況になっても一緒に乗り越えられるのは、キソウテンガイのようになれるのは、どちらなのか。条件とかしがらみとかお父さんのこととか、余計なことは考えんと、自分のここに訊いてみなさい」
 といって、父は私の胸を指さした。
「うん、わかった。でも……」
 と環はうなずいたあとで、ふだんは柔和な父のまなざしが自責で強張っているのが悲しかった。
「ほな、なんでお母さんは出て行ったん? 私のことを愛してたんやったらなんで? 行くつもりなかったんやったら、なんで? お母さんが高遠さんに付いて行かんかったら良かっただけやない。引っ張られても拒否したら良かった。お父さんのせいとちゃう。結局、お母さんは高遠さんを……」
 と言いかけて環は、はっとした。父をかばうつもりが、逆に父に刃を向けている。
「それは私にはわからん。お母さんに直接きかんとなぁ。本心を言うてくれるかどうかは、わからんけど」
 父はふっと目を細める。凪いだ湖面のような頬がふわっと緩んだ。
「そやな、ええ潮時かもしれん。その何ていうたかな、時のコーヒーと時計が、私たちの止まった針を進めてくれたのかもしれんな。お母さんに会いに行くか」
「えっ? アメリカに行くの?」
「いや、お母さんは、大津にいてるよ」

(to be continued)

第13話(13)に続く→


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