パブロ・ラライン『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』【映画評】
さっそく「ネルーダ週間」がはじまり、かねてからお気に入りリストで熟成させていた映画『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』を観る。パブロ・ラライン監督作品。といっても、監督や俳優の名前はなかなか覚えられない。ただ、警察官ペルショノー役の俳優をどこかで見たことがあるなあと思っていたら、映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』で若きチェ・ゲバラを演じていたガエル・ガルシア・ベルナルだった。ゲバラについては、いずれ書こうと思う。
第2次世界大戦が終わって3年がたった1948年のチリ。共産党の上院議員をつとめていた詩人パブロ・ネルーダは、支援していたはずのビデラ大統領に裏切られて弾劾され、ついに逮捕状が出る。政治家や庶民を問わず、共産党員やその支援者が次々に逮捕される、いわゆる赤狩りである。出頭するか、逃亡するか。迷わずネルーダは逃げることを選ぶ。
そこでビデラ大統領は、警察官のペルショノーにネルーダを逮捕するよう命じる。人民のために闘争し、詩を書いてきたネルーダは、逃走しながらも代表作である詩『大いなる歌』を書いていく。他方、ペルショノーに対しては、常に先手を打ち、手がかりを与えては追跡をうまくすり抜ける。互いの心を読む駆け引きが、やがて通じ合うようになり、二人とも終末へと駆けていく。
1年余りの逃亡生活を送ったという史実には基づいているものの、エンターテインメントとして十分に楽しめる。ブルジョワジーを批判する共産主義者のネルーダが、逃亡しながらも詩、芸術、酒、女といった享楽的な生活を送ることを描き、批評性もにじむ。
送られてきた手紙をネルーダが読んでいると、一緒に逃亡している妻のデリアが、声を変えて欲しいという。デリアが望んだのは、詩人の声。ネルーダは少し高めな声にはっきりと抑揚をつけて読む。満足げなデリアの表情が印象的だ。
映画や小説『イル・ポスティーノ』で、ネルーダに詩を請うマリオは、「詩はそれを書いた人のものではなく、それを必要とする人たちのものだ」という。なるほど、逃亡しながらも祖国の解放を、人民の救済を願い詩を書くネルーダは、自意識を満たそうとも、自己実現を図ろうともしていない。
見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ。詩人の長田弘がそう語るとおり、大国アメリカの言いなりになって富める者を讚え、貧しき者を虐げるビデラ大統領の圧政に、ネルーダは詩で反抗を企てる。言葉にできない人々に、詩を。胸に強く刻み、声に出すことのできる詩を。きょうび、自分の心情や感じたことをうまく詩に書けないとくよくよするのは、ほんとうにちっぽけなことだ。
訳詩が、本当に詩のあり方を伝えているのか、という意見もある。だが、言葉の選び方も音の響きやリズムも工夫されている訳詩も多く、まったく不満はない。ときに、原詩が読めたらなとも思う。その点、ネルーダの詩はスペイン語なので、照らし合わせながら楽しむこともできる。翻訳なしですべてを理解することは無理だが、小説や映画だけでなく、ネルーダの詩そのものも味わっていきたい。