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アントニオ・スカルメタ『イル・ポスティーノ』

原作があったなんて、まったく知らなかった。

南イタリアの小さな島を舞台に、素朴な青年マリオと世界的な詩人パブロ・ネルーダとの心の交歓を描いた映画『イル・ポスティーノ』。わが偏愛映画のひとつで、もう何度も観たことか。そして、脚本はずっと映画オリジナルだと思い込んでいた。

それが先日、原作の小説があることを知った。アントニオ・スカルメタ『イル・ポスティーノ』である。もとはスペイン語で、1985年の作品。原題は、“ARDIENTE PACIENCIA(El cartero de Neruda)”。直訳ならば、『燃える上がる忍耐(ネルーダの郵便配達人)』。だが1994年の映画化に合わせて訳され、タイトルも映画に揃えられた。

さっそく読み始めて驚いたのは、原作では、イタリアではなく、ネルーダの祖国である南米チリが舞台だったこと。ネルーダという実在した人物を登場させているので、ちょうど半世紀前、1973年のチリ・軍事クーデターという史実にも基づいている。それも映画とは異なった印象を与えている。

舞台は異なるといえども、前半のストーリーは映画とおおよそ同じだ。

父親のようになかなか漁師としては働けない青年マリオが、あるとき郵便局の前に配達人募集の張り紙を見つける。局内にさっそく飛び込むと、配達先は特定の1軒だけ。自分の自転車を使って毎日、大量の郵便物を届けるのだという。その配達先は、すでに国民的な人気を誇る詩人で、政治家でもあるパブロ・ネルーダ。すぐ近くのイスラ・ネグラという地に別荘を構えて静かに暮らしていたのだ。

薄給だが毎日チップがもらえるマリオは、しばらく通ってネルーダと会話ができるようになったとき、隠喩とは何かを教わる。自分も詩が書けたらとマリオは考えながら海辺の酒場に立ち寄ったとき、女店主の一人娘であるベアトリスに一目惚れする。ネルーダの詩集から拝借した隠喩を捧げて二人の愛は燃え上がり、ベアトリスの母親の猛反対も乗り越えて結ばれる。二人の結婚式で立会人を務めたネルーダは、フランス大使として赴任するためにチリを発つ。

映画と原作小説を大きく分けるもの。映画では、マリオが暮らすイタリアに外国人としてネルーダが滞在するのに対し、原作ではマリオもネルーダも同胞、チリ人である。録音機を使い、寄せては返す波の音や、海鳥の鳴く声、崖にぶつかる風の響きなどをボイスレターにして送るのは、映画と原作に共通する。しかし、映画ではチリに帰国したネルーダに南イタリアを懐かしんでもらうためにマリオが自発的に録音したのに対し、原作ではフランスに滞在するネルーダが望郷の念に駆られてマリオに録音を依頼する。

また、映画では終盤、チリに帰国していたネルーダが郷愁を抱き、友人がいる南イタリアを久しぶりに訪れるのに対し、原作では外地から故郷としてのチリに帰国する。したがって映画と原作では結末が異なる。どちらも海鳴りのようにじわりじわりと胸に響いてくる。

使われる状況はちょっと異なるが、映画と原作に共通する印象深い台詞がある。

映画では、ベアトリーチェに捧げる詩をネルーダに書いて欲しいとマリオが頼むときの台詞。原作では、すでにネルーダの詩をベアトリスに捧げたことを指摘されたときに、マリオが言い放つ。

「詩はそれを書いた人のものではなく、それを必要とする人たちのものだ!」

詩人は、目で観たもの、心をざわつかせたものを、できるだけふさわしい言葉で表わそうとする。人は言葉なしでは思考ができず、感じることもできない。さらには、自分の感じたことを完璧に反映するような言葉すら存在しない。自分の想いが本当に伝わるかどうか、ふさわしい言葉に込めることができるか。いつでも不安と懐疑を抱いて、詩を書く。

愛する人がいる。この想いを何とか伝えたい。それを詩に託すならば、自分が詩を書くのは当然だ。だが、他人が作った詩に自分の心が揺さぶられることもあれば、自分の心が見透かされたように書かれた詩に出会うこともある。そんな詩を、愛する人に捧げたいと想うのは、なんら不自然ではない。

ある詩が、自分を奮い立たせ、行動を促す。おなじように、捧げた相手が勇気を持ち、行動したくなる詩もある。詩人は、自分の想いを適確に込められるかどうかに囚われてしまうけれど、自分が書いた詩を必要とする人たちがいるならば、このうえない喜びだろう。そんな詩を書いてみたい。

本国チリでは、リメイクというわけではなく、あくまでも原作をさらに脚色したうえでの新作映画、“ARDIENTE PACIENCIA”が昨年つくられたという。

ノーベル文学賞をも受けた悲劇の詩人は、没後半世紀を経ても、いまだに人気があるのだろう。詩集を手に取りながら、自分が「ネルーダ週間」を迎えそうな感じがする。

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