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四元康祐『偽詩人の世にも奇妙な栄光』

書けない苦しみ。溢れ出る驚き。

のちに偽詩人と呼ばれた吉本昭洋は、いずれも味わった。詩人・四元康祐の小説『偽詩人の世にも奇妙な栄光』の主人公だ。

昭洋は中学生のときに、詩に出会う。中原中也に出会ってしまった。国語教科書にある詩を読むだけなら、どこにでもいる中学生だ。抱いたざわつきを胸に、図書館で中也詩集を手にとる。中也の詩をあさり、評伝で人物像にも迫り、山口を訪れて詩人の足跡をたどる。それは、もはや「詩を生きる」萌芽だ。自分でも書いてみたいと思うのは必然である。

だが、昭洋は詩が書けない。
なぜ、書けないのだろう。

ひとつは、自分の想いを的確に伝える、反映する言葉が、見つからない。
もうひとつは、いい詩を書いたと思われたくて、肩に力が入ってしまう。

そんな書けない苦しみを、昭洋も、読者としての自分も味わう。

書けないさをはらすかのごとく、中也にとどまらず、詩を読む。これまで以上に読む。言葉に対して敏感に、繊細になっている頃合いに、外国語の学習ぶならば、おのずとよく吸収する。大学生になった昭洋はスペイン語を身につけ、語学力を元手に商社に勤め、海外に赴任する。その多忙さで、詩から遠ざかったのは皮肉なことよ。

出張で訪れた中米の小国ニカラグアで、昭洋は詩と2回目の邂逅をする。世界の詩人が集まり、詩を披露し、分かち合う詩祭に居合わせた。詩のいち愛好家として詩人たちと出会い、詩論を交わし、詩集を手に入れる。昭洋はその後、仕事の傍らで世界の詩祭をめぐるようになる。

日本に帰国した昭洋は、世界各地の詩祭で集めた詩集をながめるうちに、おのずと「翻訳」するようになる。ただ外国語を日本語に移し替えるのではない。自分が外国語として味わった詩が、母語である日本語に姿を変え、おのずから溢れ出るのだ。詩を「書く」という営みを、ようやく体感した昭洋は、そんな「翻訳」をひそかに楽しむ。

国内でも、聴衆の前で、自作の詩を朗読して分かち合ったり、持ち寄った詩を相手と競い合ったりするイベントがある。詩を楽しむために足を運んだ昭洋は、ひょんなことから舞台にあがり、かつて密かに「翻訳」した作品を、みずから作った即興詩として披露する。それが人気と話題を呼び、昭洋は即興詩人として知られるようになったが、それは「偽詩人」として転落する道のりとも重なる。

たしかに昭洋は、自分の言葉で「翻訳」した詩を、完全なる自作の詩として発表したことで、道義的な過ちをおかした。しかし、言葉というのは生まれつき人間に備わっているものではない。チョムスキーのいう普遍文法があったとしても、表層としての言葉は、外部から吸収するものだ。文学は無から有を生じた結果ではなく、脈々と受け継がれてきた、人々の営みとしての言葉を集めてきたり、組み合わせたりしたものであるともいえる。先人の影響を受けていない言葉など存在しない。

剽窃は一切正当化できるものではないが、シェイクスピアの影響を受けていたり、枠組みを「ハイジャック」している文学はいくらでも存在する。和歌の「本歌取り」も同じだ。知らずに宮沢賢治のつくったオノマトペを使っていたり、腹が立ったときには「わたしは激怒した。必ず、かの邪智暴虐のヤツを除かなければならぬと決意した」と口ずさんでいる自分がいる。

吉本昭洋も詩の本質を本能的に察知していた。それは情報でも物語でも意味でもなかった。たしかにそれは人を酔わせ、日常を離れた不思議な場所へ誘う力を持っていた。だがそれ自体を突き詰めるなら、詩とはただただ言葉であった。そして言葉とは音とか文字の連なりであり、それ自体にはなんの価値もない純粋な媒体に過ぎなかった。然り、詩とは言葉の容器に盛られた空虚であった。つまりは空っぽそのものなのだった。

p10

物語の冒頭で、昭洋の、そして著者・四元康祐の詩論が述べられる。そして物語の末尾で、別の言葉で繰り返される。

事物と言葉が、詩と現実が、分かちがたくひとつになった世界の根源。熱い命の予感に満ちた冷たい沈黙。初めに言葉ありき、言葉は光なりきという、その光の生まれ出ずるまったき闇の永遠。生きとして生けるすべての命のはるかな故郷。詩の子宮。

p139

そして昭洋は言葉をつぐ。

ぼくはもう詩人にならなくたっていい、詩を読むことだっていらない。だってぼくは、とうとう詩そのものになるのだから

p139

本書『偽詩人の世にも奇妙な栄光』を読んでからしばらく、この考えが頭から離れない。どうにもならなくて、10日ほどして、再読もした。いまも脳裏を駆け巡る。昭洋のような商社勤めはしていないが、忙しさに追われ、自分の読書もままならず、読んでも何も書けない状態が続いている。読んだら書く、書いたら読む、が自分の生き方なのに。

なぜ、書けないのだろう。

ひとつは、自分の想いを的確に伝える、反映する言葉が、見つからない。
もうひとつは、いい文章を書いたと思われたくて、肩に力が入ってしまう。

詩を書こうとした、書いたときの経験を思い返せば、あらゆる文章に当てはまる。

けれど、詩とは言葉の容器に盛られた空虚であるというならば、空っぽなのは、詩の本質以前に、自分自身ではないか。自分というものが、空っぽなのだ(自分とはなにか、という哲学の命題は、今回はさておく)。

実体としての自分は存在している。でも目ではとらえることのできない思考と行動で形づくられているのが自分だと考えれば、背が高かったり、低かったり、色白なのか、足が不自由なのかなといった中身は無いにひとしい。そんな空っぽな自分に、言葉をまとう。そのとき、昭洋のように、詩そのものになれるのではないか。

自分で選んだこととはいえ、日々の忙しさに自分を見失いそうになる。たまに本を開いても、目は開いていられない。手紙を書きたい。待つ身のつらさも知っているが、待たせる身のほうが余程つらい。

そんな日々の考えを詩にすればいい。そんな日々の行動を文章にしたためればいい。もっと詩を学びたいと思っている松下育男さんの『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』でも、まず日記を書くことから始めればよいとある。詩とは言葉の容器に盛られた空虚である。自分という空虚を、言葉という衣で纏う。そんな「書く」という精神を、体現したい。

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