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吉田美和子『単独者のあくび 尾形亀之助』

吉田美和子『単独者のあくび 尾形亀之助』を読む。

尾形亀之助が42年という短い生涯で刊行した3冊の詩集はすべて読んだ。詩に魅力を感じたならば、やはり詩人そのものにも関心が向く。

緻密な取材に裏付けされ定評ある評伝や、2歳違いである小林秀雄の詩情と比較する評論もある。でも、詩人みずから手がけた批評であり、放埒な尾形亀之助が寝転がり天井を見上げながらぼーっとする絵が思い浮かぶタイトルに惹かれた。

評論と批評は違う。評論は、「私」を含めず対象を分析し論を立てて語っていくのに対し、対象を論ずることで「私」自身を映し出していくのが批評だと、私は小林秀雄から学んだ。学問とは異なり、ある問題を前にして、本を百冊読んでいる人間に対し、本を一冊も読んでいない人間が、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をするのが批評であると、批評家の加藤典洋からも学んだ。

本書『単独者のあくび』の巻末には、学術論文かと思うほど多くの参考文献が示されている。尾形亀之助のゆかりの地に足を運び、当時の様子を知る人への取材も重ねている。それでも本書は「批評」だ。尾形亀之助を論じることで、著者の吉田美和子が徹底的に考え、言葉を選び、語りかけてくる。

詩というものが信じられ、生きていた時代。詩を書くということが、存在を賭けた思想の仕事であった時代は、もう遠いだろうか。ぐうたら詩人の見本のように言われる尾形亀之助にとってさえ、詩はいのちがけの仕事だったことを考えてみたいのである。

吉田美和子『単独者のあくび 尾形亀之助』p11

小林秀雄は自分が書いた批評を「告白」だと称したことがある。まさに本書は、尾形亀之助の詩や生涯に心を動かされた筆者による「告白」である。

仙台で富める名家の嫡男として生まれ、学歴はないものの、上京してからも何一つ不自由なく生活できたことで「ぐうたら詩人」呼ばわりされた事情。結婚後に出した第一詩集『色ガラスの街』では「少女」への恋慕が目立ち、第二詩集『雨になる朝』では「恋愛後記」になるのは何故か。第三詩集『障子のある家』では一人暮らしの様子が散文詩に書かれた理由。それらの背景を知ると、たしかに詩そのものを理解する助けとなる。

逆に、作品にそう書かれているからと、詩人がそのような思想や性癖を持っているのだと読み込んでしまうのは、私小説こそ「自然主義」だと勘違いしたわが国の根強い文学観のようにおもう。

第三詩集における散文詩は、たしかに何気ない日常を描いた日記のように読める。しかし、尾形亀之助は詩誌に発表した作品を詩集に収録するときも、加筆や修正を重ね、異なる印象を与えるものもある。明け透けな心情の吐露も、ときには恥じらい、虚栄を張ることもあるだろう。

現代詩文庫の『尾形亀之助詩集』所収の論考「それからその次へ」で劇作家の別役実が「一創造主体にとっての『作品』は彼自身のかかわる事実よりも高く、一個人の関わる『事実』は、他の創造主体の創作する如何なる『作品』よりも重くなければならない」と述べているように、「作品」と「事実」は一致しない。高みや重みが違うのだ。

小林秀雄の批評は、その対象が文学だけでなく、絵画や音楽であっても、伝記を読み、書簡を読み、行き着く興味は作者の「人そのもの」であり、生活だった。

例えば君が信長が書きたいとか、家康が書きたいとか、そういうのと同じように、俺はドストエフスキイが書きたいとか、ゴッホが書きたいとかいうんだよ。だけど、メソッドというものがある。手法は批評的になるが、結局達したい目的は、そこに俺流の肖像画が描ければいい。これが最高の批評だ。

『対談/伝統と反逆 坂口安吾・小林秀雄』「小林秀雄全作品」第15集p260

本書『単独者のあくび 尾形亀之助』の狙いもそこにある。ともすれば尾形亀之助を貶めるようなゴシップになることなく、感想にとどまらない「読み」を加えて、著者の吉田美和子流の肖像画である「自堕落と見えて粛然としたある醒めたる清らかさ」を帯びた孤独と淋しさを描き出した。尾形亀之助について初めて読む評論や批評が、本書でよかった。さらに尾形亀之助の詩に踏み込んでいこうと思う。

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