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エッセイ:わたしは言葉の地層のなかにいることを感じたい

おまえには、創造する力がある、と言っている。おまえが生き延びるには、その能力を使うしかない。
われらは、おまえたちを創った。では、おまえたちは、なにを創るのだ?
 ー神林長平『膚の下』早川書房,p.107


わたしは、これまで読んできた本、聞いてきた音楽、見てきた映画、アニメ、マンガ、様々な表現物から、どれだけのものを受け取ることができただろうか。

自慢できるほどではありませんが、わたしは読書が趣味です。

読書家というには数が少なく、全く読まないというほど少ないわけではない、という程度ですが。

わたしは、これまで読んできた本から、どれだけのものを受け取ることができただろうか。

そう考え始めると、わたしは不安になります。

わたしは、何も受け取って来なかったのではないだろうか、と。


1.肉体にささるトゲ

何かを受け取るということ。

たとえば、大江健三郎は、詩から「トゲ」を受け取る、と書いています。

もっとも端的にいうならば、ぼくにとって詩は、小説を書く人間である自分の肉体=魂につきささっているトゲのように感じられる。それは燃えるトゲである。日常生活において自分の肉体=魂が、その深みにしっかり沈んでいる詩の錘をたよりに生きている
(大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』新潮文庫,p.15)

大江の言う「肉体=魂につきささっているトゲ」、大江にとって「詩」とは肉体にささるトゲなのです。

大江は、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』のなかでオーデンとブレイクの詩こそ「肉体=魂」にささったトゲであると述べています。

大江は詩と小説を分けていますが、わたしはこの記事内で、わたしの関心に引き寄せるため、ここで言われる「トゲ=詩」を、「トゲ=言葉」に拡張して使います。

したがって、大江は、オーデンとブレイクから言葉(=トゲ)を受け取り、そして、その言葉(=トゲ)を「核」にして、小説を創作している。

このようにして、言葉は受け継がれている。

大江は、過去の文芸作品からトゲを受け取り、そして作品を作り出した。

この言葉の受け継ぎ、連鎖、積み重ね、地層のようなもの。

言葉の地層が、そこにはあります。

わたしにも、大江の言う「トゲ」のように、肉体につきささった「言葉」があるだろうか。

わたしが読んできた本や詩は、わたしの「肉体=魂」につきささっているだろうか。

そして、わたしも、過去から受け継がれる言葉の地層のなかにいるのだろうか。


2.「隔離」される身体

自分の「肉体=魂」にもトゲがささっているはずだ、ということを確認するように、わたしは文章を書いています。

自分の書いた文章のなかに、かつてわたしが読んだ小説や詩から受け取った「何か=トゲ」を再確認したい。

そうすることで、わたしは、連綿と受け継がれる「言葉の地層」のなかにいることを感じたいのです。

しかしながら、わたしは、どのような「言葉」でも受け取れるわけではありません。

わたしが受け取ることができる「言葉」には限界があるのです。

詩人ヴァレリーは「隔離」という概念で、それを端的に説明しています。

たとえば、伊藤亜紗はこのように解説しています。

この不自由さとは、とりもなおさず、現在という形式なしには世界と出会えないという私たちの認識論的な限界でもある。私たちが時間的な存在であるかぎり、私たちの世界との出会いには現在という形式が、つまりある限定が伴うのである。「私」によって構造化されているかぎり、現在という世界との出会いはひとつの「特殊」でしかなく、「不完全なもの」であるに他ない。「それぞれの現在は、全体ではない、それぞれの現在は、不完全なもの、部分として感じられる」。
この自由で無規定な状態に対する「特殊」としての現在のあり方、このかたよりとしての現在のあり方を、ヴァレリーは「隔離(écart)」と呼ぶ。
(伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』講談社学術文庫,p.163)

言い換えれば、「わたしの肉体は、すべての言葉を受け取ることはできない、受け取れるのは今読んでいる言葉だけである」ということ。

さらに平易に言い換えれば、世界にはたくさんの美味しい食べ物があるかもしれないが、わたしが食べられるのは、眼の前にある食べ物だけということ。

わたしが、積み重ねられた「言葉の地層」のなかにいることを感じたいと思っても、わたしが触れられる「言葉」は、ほんの一部なのです。

たとえば、わたしは、「日本語」を使っています(というか日本語しか読めません)。

ですから、わたしは日本語で書かれたものだけを読みます。

だけれど、運の良いことに、日本語は、先達たちが、意味を拡張してくれているため、様々な文学作品を読むことができます。

意味を拡張、つまり、言葉を翻訳してくれている、ということ。

海外の言葉を日本語に翻訳し、日本語もまた海外で翻訳される。

言葉が相互に浸透していく。

少し話が逸れますが、翻訳によって言葉は浸透していくけれど、わたしは、「外国語と母国語の境界が崩れて、最後には言葉が一つになる」とは思いません。

なぜなら翻訳者たちもまた、身体の限界があり、ヴァレリーの言葉のとおり「隔離」されているからです。

翻訳される言葉は一部であり、その間にも日本語が生み出されています。

ですから、全ての言葉が翻訳され、完全に浸透して、あらゆる言葉の違いがなくなる、とは思えないのです(あくまでわたしの臆見ですが)。


さて、すこし話がズレました。本題に戻しましょう。

わたしは、連綿と受け継がれ、積み重ねられた「言葉の地層」のなかにいることを感じたい、でも、わたしには「日本語」という限界性のなかに「隔離」されている。

これは、悪いこと、なのでしょうか。

わたしにはそうは思えません。

わたしが日本語しか使えないということ、「日本語」という限界性のなかに「隔離」されていることは、悪いことではない。

なぜなら、「隔離」は身体がある限り必ず付き纏うものであって、良いとか、悪いという判断が出来ないからです。

あるときは都合が良く、あるときは都合が悪い。

画一的に、良悪を決められないのです。

また、そもそも、語学が堪能であっても、やっぱりすべての言葉に触れられるわけではない。

語学が堪能でも「隔離」されていることには変わりません。

ですから、「隔離」されているから、言葉の地層に触れられない、と諦めるのではなく、むしろ、この「限界性=隔離された身体」で、どれだけのものを受け取ることができるのか、というように発想を変える必要があります。

わたしは、たまたま日本という国に生まれ、日本語で育ち、日本語で書かれた言葉を読んでいる。

つまり、わたしは、この「日本で生まれたという偶然性」、あるいは「日本語」という限界性=「隔離」を受け入れる必要がある、ということ。


3.偶然性を受け入れる

「隔離」された身体を受け入れるということは、「自分が生まれ育ち、身に着けた言葉」を受け入れる、ということです。

そのうえで、初めて、わたしは、言葉を受け取ることができる。

偶然性を受け入れることは、ある意味で「責任」でもあります。

たとえば、村上春樹は『ノルウェイの森』でこのように書いています。

「とても事情が込み入っているんだ。いろんな問題が絡みあっていて、それがずっと長いあいだつづいているものだから、本当はどうなのかというのがだんだんわからなくなってきているんだ。僕にも彼女にも。僕にわかっているのは、それがある種の人間としての責任であるということなんだ。そして僕はそれを放り出すわけにはいかないんだ。少なくとも今はそう感じているんだよ。たとえ彼女が僕を愛していないとしても」
(村上春樹『ノルウェイの森』講談社文庫,p.232-233)

主人公の「僕」は、「彼女」と出会ったことを「人間としての責任」であると考えている。

ここでの「彼女」を「生まれ育ち、身に着けた言葉」に置き換えて考えてみましょう。

村上春樹が言うように、「言葉(=彼女)との出会い」と、その「事情」は込み入っています。

親が日本人であること、親の親も日本人であったこと、たまたま日本に生まれた人間が日本人と結婚し、日本で生まれ、また子を日本で生んだということ。

さらに、わたしは「言葉(=彼女)」に愛されているとは限らない、つまり、言葉の全てに触れることは出来ない。

わたしは、言葉(=彼女)と隔離されている。

このように、わたしが「日本語」に出会った事情は込み入っている。

この「込み入った事情」、この偶然性を、わたしは受け入れざるを得ないのです。

そのうえで、日本語で書かれた言葉、小説、詩を受け取るということ。

その偶然性は、自分が請け負った「責任」でもある、そう村上春樹は書いているのではないでしょうか。

言葉の地層のなかにいる、ということは、自分の使う言葉、自分が身に着けた言葉を「責任」として受け入れるということです。

そうして初めて、わたしは、様々な文芸作品を「肉体=魂」につきささるトゲとして受け取ることができるのではないか。

そして、受け取った言葉を使って、わたしは文章を書きたい。

日本語という言葉の地層のなかにいることを感じながら、小説を、詩を、感想文を、エッセイを創造してみたい。

そんな風に思います。


4.おわりに

日本語、という言葉の地層のなかにいることを感じたいならば、本来なら、もっと沢山の日本語に触れなければならないでしょう。

端的にわたしの読書遍歴は、日本語の地層に触れたいと言うには、あまりに偏ってしまっています。

わたしは古事記や日本書紀、万葉集や源氏物語も読んでいない。

谷崎潤一郎も読んでないし、夏目漱石も読んでいない。

小林秀雄も、丸山眞男も、柳田邦男も読んでいない。

二葉亭四迷も、坪内逍遥も、樋口一葉も、森鴎外も読んでいない。

読みなさいよ、と言われれば、おっしゃる通りです。

しかしながら、わたしの身体は隔離されているのであり、全てを読むことは出来ません。

言い訳でしょうか? おそらく言い訳なのでしょう。

わたしは、わたしの「隔離された身体」で読みたいものを読んでいる。

わたしは、隔離されるなかで、神林長平と、大江健三郎と、伊藤亜紗を通じてヴァレリーと、村上春樹に出会えた。

その出会いの偶然性を受け入れる。

自己満足でしょうか? おそらく自己満足なのでしょう。


言葉の地層はとても広く深いものです。

普く行き渡ることは出来ません。

少なくとも、出会った言葉を、わたしは受け取りたい。

わたしは言葉の地層のなかにいることを感じたい。

あなたは言葉の地層のどこら辺にいるだろう。

わたしは、きっと、ここにいます。


おわり

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