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非一般的読解試論 第十八回「ナルシスティック・リアリズム」

こんにちは、デレラです。

非一般的読解試論の第十八回をお送りします。

非一般的読解試論は、いろんな文芸作品(映画・本・アニメなど)について感想文を書いたり、そもそも「感想」とは何だろうか、と考えるために始めた、わたしのライフワークです。

いろんな作品について感想文を書きたいですし、また、その時々の「感想とは何か」という考えを更新したりするために連載という体裁を取っています。

連載とは言え、各回は独立しておりますので、ぜひ目の止まったところから読んでいただければ幸甚でございます。

先日、わたしはnoteで、こんなつぶやきを漏らしてしまいました。

こんなもの書いていて意味あるのか、、、一体どんな価値があるのか、、、自分は一体何を書いているのか、、、

わたしの弱気なつぶやきに対して、コメント、スキを下さったフォロワーさま、

本当にありがとうございました。とても励みになりました。

特にコメントを下さった、ペンギンさん、伊藤ぱこさん、本当にありがとうございます。

わたしは、文章を書くたびに、「何をかいているんだろう、わたしは」という思いに憑りつかれます。

こんな文章を書く価値があるんだろうか、読者のお目汚しに過ぎないのではないか。

気がつけば、わたしは、文章を書くことに意味はあるのだろうか、だなんて弱気なつぶやきをしていました。

このつぶやきの背景には、書かれた文章には「他者に利益がなければならない」という功利的な暗黙のルールがあります。

このルールに従えば、「他者に対する利益」がない文章は、存在する意味がない、というわけ。

「価値」という強い言葉。「他者に対しての利益」という強い概念。

価値のある文章は善い、価値のない文章は悪い。

価値の有無が、存在の善悪と、同じなる。

これを「功利的リアリズム」と呼びましょう。(注:わたしが勝手に作った概念です)

価値を持ちうるものが、存在する意味がある。

このリアリズムは、一見、暴力的に見えるけれど、一面の真実を捉えている、とわたしは思います。

例えば、料理や日曜大工などの「How To」本、旅行雑誌、教科書、小説、詩、旅行記、エッセイ。

販売されている、あらゆる文章は、それぞれが他者に利する価値を持っています。(じゃないと対価を払わないでしょう。)

売れている小説は、様々なひとを励まし、勇気づけます。

料理本を読めば、料理が上手くないわたしでも、ちゃんとした料理を作ることができる。

これらの体験は、功利的な文章の価値であり、文章を読むときに感じる「ある実感」を支えていると思います。

「ある実感」とは、読んでいて、面白い、役に立つ、意味がある、という実感です。

「功利的な価値がある」ということは、「読む意味があると実感できる」ということ。

この「価値の実感」が「功利的リアリズム」です。

もっと大上段の話をすれば、医学や科学の研究書、こういった英知が持つ功利的な価値は、他とは比べ物になりません。

世界には、「功利的リアリズム」に即して書かれた文章がある。

その文章には、書かれることに意味がある。

これを否定することは、わたしにはできません。これは、真実だと思います。


では、なぜわたしは、「自分の書く文章に意味なんてあるのか、、、」なんて、弱気なつぶやきをしてしまったのだろうか。

なぜ、とても悲しい気持ちになったのだろうか。

わたしは、今回、「功利的リアリズム」とは、別の仕方、別の意味について考えてみたいと思います。

ちなみに、わたしはいま、考えながらこの文章を書いています。

結論はまだありません。

なので、もしよければ、あなたも一緒に考えてくれたら嬉しいです。

うまく結論が出せるか分かりませんが、よろしくお願いします。


1.功利的リアリズム

手がかりが少ないので、もう少し、功利的リアリズムについて考えてみましょう。

わたしは先ほど、功利的リアリズムとは、読んだ人が利益があると実感できる文章である、と説明しました。

料理の技術を提供する料理本、娯楽を提供する小説、知識を提供する研究書。

日常の便利を提供するライフハック術あるいは節約術。

旅行先をまとめた旅行雑誌、本棚の組み立て方が書かれた説明書。

これらは、全て、他者に利益を提供する文章だと思います。

さらに一歩踏み込んで、言い換えると、それを読んだひとが「だいたい同じような利益」が得られる文章です。

「読めば誰もが利益を得られる」ということ。つまり、一般性(=誰でも)を有している。

料理をしたことがないひとでも、肉じゃがのレシピに従って作れば肉じゃがが作れるということ。
(サンキュー!クックパッド!いつもお世話になっております!)

では、わたしの書く文章は、誰でも享受できる「一般性」を提供しているだろうか。

ここで、わたしは躓いてしまいます。

わたしの文章には、このような価値はない。

なぜなら、わたしは「非一般的」であることを宣言しているからです。

功利的な文章は、一般性(=誰でも利益が得られる)を獲得しているから、価値を実感できる。

しかし、わたしは、最初から一般性に非ずと宣言しているわけです。
(うひょー、まいったまいった)

わたしはここで躓きます、じゃあわたしの書いている文章はなんなの、と。

デカルト先生の「私は考える、ゆえに私はある」(『方法序説』p.56,ちくま学芸文庫)という言葉を借りれば、

「私は躓く、ゆえに私はある」という状態です。

この躓いてしまった「わたしの文章」とは一体なんなの?というわけです。

単に価値のない文章、それで終わりなのか。

この先、永遠に価値を持ちえないのだろうか。

あるいは、それとは別の回路があるのか。


2.自己を直観する

一般的な利益のないわたしの文章は、この先、永遠に価値を持ちえないのだろうか。

そんな不安に駆られて、わたしは、弱気なつぶやきをしたのでした。

そんなつぶやきにコメントを付けてくれたフォロワーさんがいます。

その方のコメントに、わたしは、何かヒントがあるように感じました。

わたしの中で、点が点と繋がって、線になる感覚を得ました。わたしのアリアドネの糸。

一部引用します。

でもある日急に書いてる意味に気づいたり
書いてて良かったと思えたりするんです
駄作も意味があったんだと涙して感激しました
そういう体験がこの先に急にあると思います
(伊藤ぱこさん コメントより)

ここで言われていることを、わたしなりに換言すると、

「書いている最中には確定できない何かがあり、それはあとになってから分かる」ということだと思いました。

・確定できない何か
・あとになって分かる何か

この考え方は、功利的リアリズムとは、違うもののように感じます。

なぜなら、料理本は、書いてる段階で、すでに価値があるように感じるからです。

だって、美味しい肉じゃがを再現する方法なのですから。

もちろん、後に、もっと良い方法が見つかることもあるでしょうが、その時点での価値が減ずるわけではありません。

つまり、こういうことでしょうか。

・功利的リアリズム=価値が確定していて、今その価値が分かる
・別のリアリズム=価値が未確定で、あとからその価値が分かる

さて、ジャンプするために助走しましょう。

功利的価値は、書いてる時点ですでに価値がある。

功利的価値とは別の価値は、書いている時点では、何ものか分からない。

問題は、「この先になって分かること」とは何か。

わたしが「今書いている文章」から、この先「何が」分かるようになるのだろうか。

ここで、ひとりの哲学者の言葉を引用します。

というのは、人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、人間によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである。
(マルクス『経済学・哲学草稿』p97,岩波文庫,一部引用者訳,太線引用者)

わたしが敬愛するマルクスの一節です。
一見、難しいので、柔らかくしましょう。

まず最初に「知的に自分を二重化する」とあって、つぎに「制作活動的、現実的にも自分を二重化する」とあります。

ここで言われる「二重化」とは、「自己紹介」だと考えてください。

わたしは誰か、どういう人間かを説明する、つまり、自分で自分を説明するから、二重化です。

自己紹介には二つの方法があります。「知的」と「制作活動的、現実的」の二つです。

「知的」とは、知識として紹介するということです。

わたしは、ラーメンが好きで、本を読むのが趣味で、デレラと申します。

これが知識的な自己紹介です。

ではもう一方の、「制作活動的、現実的」とは何か。

わたしは「こういうものを作ることができる」人間です、という自己紹介です。

もし、「わたしはこういうものが作れます」と一杯のラーメンが出て、それを食べて、こんなに綺麗なスープ、具材の彩、麺とスープの相性も完璧!と感じたとしましょう。

そのラーメンを食べたわたしは、「このラーメンを作るひとは、丁寧な仕事をして、こだわりが強いひとに違いない」と思うでしょう。

このように、わたしたちは、「制作活動で現実に創造されたもの」から、それを作ったひとの「性質(平たく言えば性格)」を「直観する」ことができる。

これが、さきほど引用したマルクスの文章が言っていることです。

ポイントは、「作ったもの」から「自己自身を知る」ことができるということ。

さて、いただいたコメントは、「書いている最中には確定できない何かがあり、それはあとになってから分かる」ということでした。

この「あとになってから分かること」とは、文章を書いたひとの「性質・性格」なのではないか。

わたしはどういう人物なのか。どういうことを考えて、何に興味をもち、何を見て、何を感じたのか。

こういう「個人の性質」は、功利的な文章とは別の価値を持つのかもしれません。

誰かの文章を読んで、そのひとの「個人の性質」を直観する。

それは、どんな価値でしょうか。


3.ナルシスティック・リアリズム

誰かが作ったものを見て、そのひとの「個人の性質」を直観する。

たしかに功利的な価値とは、違う価値があることのように感じます。

でも、どんな価値があるのでしょうか。

分かりやすくするために極端な例を出しましょう。

例えば、宮崎駿さん、庵野秀明さん、細田守さん、新海誠さん、押井守さん。

かれらの制作物は、その一部分を切り取っただけでも、「誰が作ったのか」なんとなく分かるでしょう。(暴言笑)

たくさんの文芸作品、それぞれに現れる「作家性」のようなもの。

宮崎さんの『風の谷のナウシカ』も『もののけ姫』も『千と千尋の神隠し』も、それぞれ設定も登場人物も違うけれど、どこか「宮崎さんらしさ」を感じ取ることができます。

わたしは、『風の谷のナウシカ』を見ると、主人公のナウシカの奮闘に勇気づけられ、感動するわけですが、それとは別に、「宮崎さんの世界観」みたいなものを感じ、感動する。

わたしは、宮崎さんの制作物から、「宮崎さんの世界観」を直観してしまうのです。

こういうこと言うと、作品には作家は出てくるべきでない、という反論が出てくるかも知れません。

しかし、直観してしまうものは仕方がありません。

また、ここで直観する「宮崎さんらしさ・世界観・性質」は、見るひとによって、捉え方が違ったり、そもそも感じられないこともあるでしょう。

また、見るタイミングによっても違って感じられます。

つまり、誰が見るか・いつ見るか・どこで見るかなどの「定性情報」によって「直観する内容」が変化するということ。

肉じゃがのレシピは、材料と設備さえあれば、誰でも・いつでも・どこでも、肉じゃがが作れるから、功利的な価値がある。

どんな「肉じゃが」ができるか分からないレシピほど、怖いものはありません。(ちょっと気になるけど笑)

作品から直観する「何か」は、その意味で「非一般的」なものであり、「不確定なもの」なのです。

わたしがこれまで「非一般的読解試論」で取り上げた作品に対する感想も、また、その時々に感じたものであり、定まったものではないのかもしれません。

何を直観するか分からない、という価値。

ひと・時・場所などによって変容する価値。

個人的で、不確定な価値。

しかし、不確定だけど、それは「宮崎さんの世界観」という点で収束している。

不思議です。

「宮崎さんの世界観」なんだけど、「その時で受け取る内容」が違っている。

「宮崎さんの世界観」という一点で、「多様な受け取り方」が繋がっている。

文芸作品には、そういう価値があるのだと思います。


そのひとがそのときにしか書けない文章。

そのひとがそのときにもつ、

語彙力、経験、想像力、構成力

運命、身体、視界、世界観

実感、価値観。

そのひとがそのときにもつ、すべてを表出させた文章。

たとえば、小説の中には当然、登場人物しかいない。そこに作者はいない。

でも、ふと訪れる、「何か」がある。

「何か」を直観してしまう。

登場人物たちの物語を総合する「何か」。

そこにいないはずの作者、あるいは「不在の作者」が表出されている。

それとわかる形で登場するのではなくて、ふと現れる、直観する。

そんな文章を読んだとき、わたしは、功利的リアリズムとは全然違う、別の文章の実感を得るでしょう。

その文章を読むと、「不確定な何かを受け取れる」という実感。

そのひと自身が凝縮された文章。

そのひとにしか書けない文章を読んだことで得られる実感。

ナルシスティック・リアリズム。

そして、わたしも、

わたしにも、そんな文章が書けたなら、きっと、、、


4.最後に

価値がある文章とは何か、ということについて、わたしたちは考えてきました。

ここまで読んで下さりありがとうございました。

最後にまとめます。

・功利的リアリズム=誰もが同じような利益を受け取るという実感、あるいは、確定された価値、今わかる価値

・ナルシスティック・リアリズム=作者のその時点での世界観を受け取るという実感、あるいは、不確定な価値、あとになってから変わる価値

文章には功利的な価値があります。

功利的な価値とは、誰もが同じように利益を得ることができるというこでした。

わたしの書く文章が、功利的な価値を持っているか、という問いに、わたしはいつも躓いてしまいます。

なぜなら、わたしの書く文章は「非一般的」な文章だからです。

一方で、文章には別の側面もあります。

受け取る内容が「いつ・誰が・どこで」という「定性情報」によって変化する文章がある。

その作者だけが書くことができる文章、「作者の世界観が表出している」と感じる文章が持つ価値です。

この価値は、読む人によって変わってしまうので、誰もが同じように享受できる「功利的な価値」とは違う価値です。

それは、個人的な、ナルシスティックな価値。

まるで、読者が、自分に対してだけ書かれている、と勘違いしてしまうような、力のある文章です。

そんな文章が書きたい。

しかし、そういう文章が書けたかどうかは、書いている時には分かりません。

フォロワーさんが言ってくれたように、きっとずっと後になって分かることなのかも知れません。

これは、一種の賭けです。

いつか、そういう文章が書けるようになるかも知れない、という未来に対する賭け。

きっとこの先、何度も、わたしは躓くだろう、躓き続けるだろう、そう思います。

そのたびに、わたしは、自分を思い出し、諦めず賭けてみようと思います。

この先、誰かが、あるいはわたし自身が、「この文章はこのときのデレラしか書けない」という実感を得てくれると信じて。


おわり

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