もしかしたら、自分だったかもしれない。

私にはアスペルガー症候群を抱えている3つ上の姉がいます。小さいころに姉の同級生に「お前の姉ちゃん、なんか変だな」と言われて以来、周囲の人間と違う(=劣っている)と思われることを極端に恐れるようになりました。長らく姉のことを周囲に打ち明けることが出来ませんでした。
 
私自身小さいころから図体はでかいのに気が小さくていつも母親のかげに隠れているようなこどもでした。幼稚園や小学生の低学年の頃は学校を休みがちで、本を読んだりアニメを見たりと内に閉じこもることが多かったです。そういえば、幼稚園の年少で不登校になり、そのまま退園してしまったこともありました。(その後、引っ越した先の幼稚園でなんとか卒園できましたが)
 
そんな臆病で糞ナイーブな私だったので、姉の同級生の言葉は心に深く刺さったのでしょう。
 
しかし、その後さいわいにも周囲の友人や先生との出会いに恵まれて学年が上がるにつれて徐々に自己肯定感を得ていくことが出来ました。それは友達に誘われて偶然入った地域の少年野球チームや中高の部活動(バスケ)を通じて心身ともに鍛えられたのが大きかったなと思います。

また大学時代にはアメリカへの交換留学、会社に入ってからのインドへの研修などを経験して世の中にはほんとに多種多様な人がいるんだな、と知りました。ずっと漠然と抱いていた社会や将来への恐怖のようなものも徐々に薄れていきました。20代後半になったいまようやく肩の力が抜けてきたように感じています。いまはアスペルガーの姉を持つこともオープンに話せるようになりました。こうして文章にできるようになりました。アスペルガーという障害に興味を持ち、姉のことに向き合うようになりました。
 
それと同時に自覚するようになったのは「もしかしたら障害を抱えて生まれてくるのは、自分だったかもしれない」という思いです。そのことに気が付くと、いろんなことが違って見えてきました。今の自分が享受している豊かさは、ある意味で自分の努力とは無関係に偶然に授かったものだと理解するようになりました。そして社会・経済的に弱い立場にいる人も同様に、本人の意思ではコントロールできないところで、その環境にいることを強いられているのだな思いました。「何を当然のことをいまさら」とお思いになるかもしれませんが、私も頭では理解しているつもりでした。でもここにきて腹に落ちた感があります。
 
そう思ったら、これからは自己の成長や満足を求めるだけでなく、社会への還元と両立していきたい、なんて考えるようになってきました。これも結局は自分の納得感のためではありますが。
 
もちろんボランティアや寄付、社会貢献なんてきれいごとを吐く前に、もっと金を稼げるようになれよ、という考えもあると思います。

社会に与えるインパクトのスケールを考えるなら、小さくまとまらずに、とにかく泥臭くハングリーに行くべし、という主張の正しさ・強さ・眩しさはすごくよくわかります。そうした貪欲さや執念、勇気をどうにも欠いている自分を情けなく思います。
 
また、そんな高尚な考えを持っているならば、いっそのことその身を目的に捧げればいいではないかという声も聞こえてきます。

でも、残念ながらそこまでの覚悟はないんです。うまい飯も食いたい、海外旅行にも行きたい、バスケもしたい、飲みにも行きたい、女の子と遊びたい等々の煩悩にまみれているのです。はっきりしない、煮え切らない、何とも中途半端なポジションを取っています。
 
はたしてこんな感じで、自己の満足と社会への還元を両立することはできるでしょうか。これが自分の納得感の問題だとすれば、それは自分次第なのでしょう。
 
いま模索しています。

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