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ヨーガスートラ第3章(超能力の章)の要点

 マインドフルネス瞑想が世界的に流行してから何年経っただろう?既に市民権を得たような気もするけど、きちんと定義(説明)できる人は少なくないですか?
 心、意識、感情、人格、知性等を『マインド』と言うけど、直訳だとそれを全てに行き渡らせる(フルにする)?
 例えば、全てを感情的に行う?
いやいや、すぐ感情的になる人って苦手です。

 そうではなく、感情的になっていることに気がつき、その感情が湧き起こる原因は何か?その感情は同じシチュエーションであれば誰もが同じように現れるのか?その感情はどうなれば鎮まるのか?
 というようなことを考えるなら、別に瞑想ではなくとも、冷静になれば思い付くかもしれないし、感情的になって失敗した経験が有れば、『反省』という行為を行うかもしれない。でも、それってマインドフルネス瞑想ですかね?

 一般的にはマインドフルネス瞑想って毎瞬毎瞬の気付きの連続で、今ここに心を繋ぎ止める。
 その気付きとは、先程の感情の動きも有れば、皮膚に触れる空気、目に映る光景、耳に感じる音、呼吸により起こる空気の流れetc,etc.....
 コレら全ての現象を余すことなく感受する。な〜んてことを同時に行うのは途轍もなく難しくて、瞑想初心者に簡単に出来ると思えますか?
 とても出来そうにないのでお薦め出来ないのですが、マインドフルネス実践者の皆さんはどうやっているのでしょう?(よろしければコメントで教えていただけるとありがたいです)

 ちなみに佛道修行としてのヴィパッサナー瞑想は、呼吸なら呼吸だけに集中するのでアレコレ同時瞑想とは別と認識していますが、世間の認識と一致していますか?(汗)

 さて、長々とマインドフルネス瞑想について書きましたが、ヨーガスートラの瞑想(ダーラナ、ディヤーナ、サマーディとその3つを総称してサンヤマと呼ぶ)は“ヴィパッサナー”(*1)とは別の体系です。
 特にヴィパッサナーでいわれる『いま此処ここ』という“時間”や“空間”、そして“因果関係”から切り離された集中状態だと言ってもいいでしょう。
 それは般若心経の『空』とも繋がる感覚です。その『空』とは「実態が無いということがある(確固とした存在などは無く、全ては相対的で、ある意味偶然そうなっているだけである)」ということを指します。
 つまり『今』という【時間】も、『此処』という【空間(場所)】も実態ではないのだから『今、此処』も実態ではないことになります。
参考に、般若心経の対訳↓

 とは言いながらヨーガスートラでは『全てが空』という、佛教でいう『唯識』を第4章で否定しているから厄介です。

 とりあえず、ここではダーラナ、ディヤーナ、サマーディと、その3つをまとめてサンヤマと呼ぶ、この4種類に限ってまとめてみます。

Ⅲ-1:ダーラナー:心を特定の対象に結びつける、短時間の集中
Ⅲ-2:ディヤーナ:ダーラナーの集中をある程度の時間維持すること
Ⅲ-3:サマーディ:集中の対象のみが光り輝き、自我意識が消滅して“空”のごとくなること
Ⅲ-4:サンヤマ:[自在にサマーディに至ることが可能になることが前提]短時間の集中でも超能力が発現するほどの全集中/超集中状態が可能になること

 武術家や山伏などの行者が、一瞬の気合い一発で相手を不動金縛りにしたり、飛ぶ鳥を落としたり、という通力とか験力とか呼ばれる力もサンヤマの結果。
 お釈迦様が前世記憶を観たり、瞬間移動をしたり、他人の心を読み取ったりしたのもサンヤマ。
 佛教では止行(禅定)をシャマタ(śamatha,奢摩他しゃまた)と呼び、心の活動を完全に鎮めた状態を指します。
 心が鎮まった上で「よく観察」することを観察かんざつ(観行)ヴィパッシャナー(vipaśyanā、毘婆舎那ひばしゃな)と呼び、止行から観行に移行した時に『六神通』といわれる超能力が得られると言われます。
 ヨーガスートラではサンヤマによって39種の超能力が得られると記述されています。
 これは当時のヨーガ行者にとって超能力が身近な概念であり、多種多様で雑多な資料の集合体なヨーガスートラは、超能力を無視することが出来ないどころか、超能力の解説こそが重要だということでしょう。
 超能力の説明の数が八支則の説明より多く語られたのがその証拠です。
 逆に言えば、世間でいわれる“ヴィパッサナー瞑想”を実践して超能力が発現しないのは、止観(シャマタ瞑想)となるサンヤマをすっ飛ばしているからかもしれません。

 さて、ネット上でよくあるヨーガ・スートラの説明は八支則をメインにして、サマーディをゴールにしていますが、上記のサンヤマという超集中状態も大切な概念だと思いませんか?
 そのサンヤマでさえ『集中の対象』が有る『種字三昧』であり、ヨーガスートラ第1章では、その先に『種字三昧』が有ると記されています。
 現代ヨーガの始めの一歩を記したヴィヴェーカナンダの『ラージャ・ヨーガ』ではサンヤマは「知識の光」が来る、「超能力に誘惑されると、それ以上の進歩はなくなる」と言われています。と同時に「心それ自体が、理性を超えたもっと高い状態、超越意識の状態を持ち、心がその高い状態に達するとき、推理をこえたこの知識が人のもとにくるのだ」とも語っており、彼の『ラージャ・ヨーガ』はけっして超能力を忌むべき悪魔の力のようには考えていないようです。

(彼の『ラージャ・ヨーガ』の定義として

宗教の科学であり、すべての礼拝、すべての祈り、形式、儀式およびもろもろの奇跡の、理論的根拠

ラージャ・ヨーガ P.56

と記されているので、ヒンドゥー教の教義に則ったカルマ・バクティ・ギヤーナ(ヒンディー語の発音、サンスクリットではディヤーナ)という儀式・形式・祈りに加えてヨーガスートラの奇跡能力を含めたものなのかと推測します(個人的見解です))
 ちなみにプラーナーヤーマについてはラージャ・ヨーガの第四章と第五章で“サイキック・プラーナ”として詳細に語っており、そこには『クンダリニー』についても肯定的に描かれています。なので、前回の記事でそれらを否定的に捉えていたのでは?という疑問については一旦棚上げにしておきます。


 ヨーガスートラⅢ-37では「超能力が発現することによって、[究極の]サマーディに至るには障碍になるが、[同時に]成就[の兆し]でもある」とされています。
 サンヤマという超集中状態は時間や空間、それに因果関係とは切り離された状態なので、過去[という時間軸]の何処か[という空間]での行いによって生まれた、業(因縁)という因果関係とは切り離された状態であり、自己と大宇宙との区別すらつかない状態[のとば口]となります。

 繰り返しますが、Ⅲ-4に書かれた『サンヤマ』でさえ『集中の対象』が有る『有種字三昧(sabīja samādhiḥ)』であり、ヨーガスートラ第1章でも、その先に『無種字三昧(nirbīja samādhiḥ)』が有ると記されています。
 種字(bīja)とはサンスカーラ(潜在印象)とも訳されます。自分の行為が、意識しようとするまいと、ゲームでいうヒットポイント(Hit Point、HP)のように加算されます。
 それは善行ポイントと悪行ポイント(サンスクリットでプンニャ(puṇya)とパーパ(pāpa)として、ヨーガスートラのⅡ-14で説明されています)として見えないアカウントに加算されているのです。
 そして次の生で輪廻の輪の何処に生まれ変わるのかの判断材料にされるのです。

 「種字が有る」とはサンスカーラに積み上げられること。だけど「種字が無い」とは、単純にサンスカーラに積み上げられないなどという薄っぺらい意味ではなく、積み上げられたサンスカーラを消し去る(リセットしてしまう)ことをも指すのです。
 ∴ 解脱する(輪廻して生まれ変わることは無い)

 なんせⅢ-42〜46 の超能力は、この宇宙を造り直すことさえ可能だと読めるのだから、造り直すためには、その世界の諸々をリセットする必要があります。
 ちなみにシヴァが“破壊神”と呼ばれるのは、上記の“宇宙をリセットして造り直す”ことに繋がります。

 では、このサンヤマで発現する超能力は、プルシャとプラクリティのどちらの能力なのでしょう?
 サーンキャ哲学の考え方では、この宇宙の生成はプラクリティが持つ基本性質のトリグナ(3つのグナ:サットヴァ、ラジャス、タマス)のバランスが崩れたことによる転変の結果にすぎません。(プラクリティの産み出す物質の全てにトリグナという性質も遺伝のように必ず付与されています)
 その最初の転変により発生した「プッディ」が現す超能力であり、プッディの基本的な性質であるトリグナのうち、全くの純質(100%のサットヴァ)が見せるプルシャの幻影(鏡に写ったプルシャの反映)かもしれませんが、プルシャではないのです。
 ただし、この状態のことを独存(カイヴァリヤ)といってサットヴァのプッディとプルシャの区別がつかない状態と定義します。
 ここまで来ると、ヤマ・ニヤマの話なんてどーでもいいと思いませんか?

 では、プラクリティの転変が起きる前、トリグナのバランスが整って、プラクリティがプルシャと離れ、自立した状態とは?
 それは第4章で(続きます)


*1 : ヴィパッサナーやサマタはパーリ語での発音、サンスクリットではヴィパッシャナーやシャマタと発音する。

 佛教では観行かんぎょう観察かんざつ、観法、止観等と呼ばれる。

観行かんぎょう観察・観想の行法ぎょうぼう
かん〉(vipaśyanā)は,真理(dharma,法)を観察すること
〉(śamatha,心の静止)の行

サマタ瞑想(巴:パーリ語 samatha-bhāvanā、梵:サンスクリット語 śamatha-bhāvanā)は、こころを特定の対象に結びつけて集中力を養う瞑想である。
サマタ(巴:samatha)、シャマタ(梵:śamatha)、奢摩他シャマタとは、ひとつの対象に心を落ち着かせることを意味する仏教用語であり、止と漢訳される。

ヴィパッサナー瞑想(巴: vipassanā-bhāvanā)、(梵: vipassanā-bhāvanā)は、ナーマ(こころのはたらき、漢訳: みょう)とルーパ(物質、漢訳: しき)を観察することによって、仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想(バーヴァナー)である。アメリカでは仏教色を排した実践もあり、インサイトメディテーションとも呼ばれる。

岩波「仏教辞典」第二版



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