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【読書メモ】日本的自我

南博(1983)『日本的自我』、岩波新書

この本は、一言で言えば日本論である。日本人とは何か?、日本社会とは?それを見出すために日本人に見られる自我の形成の特徴、そしてそれから作り出される社会の特徴を述べている。

この本は出版されたのが1983年であり聊か古く感じる、新書でもあるため、実験をもとにした根拠づけなどがなされているわけではない。それゆえに、評論というような言い方もできるだろう。しかし、ここで指摘されることはどこか僕が戸惑いを感じていたものや、義憤を持っていたものに一つの答えを見出してくれる。

それは、「息苦しさ」である。どこか、僕の周りの人は集団の論理を無批判に受け止め、「所与のこと」としてしまい、個がないように思える。意見を言うと嫌な顔をされ、皆同じように物事をしなければならない。集団でなにか利益を得ることより、集団でいることが目的化してしまっているのである。どこか、その姿に個性のなさや、もどかしさに似た「息苦しさ」を感じるのであった。

上の点で、この本は日本人の自我に対して見られる特徴を分析をしている。「集団我」である。具体的に言うと、日本人の自我は他人からどう見られるかということを優先し、そこから自我を形成するのである。「自分はどうありたいか」ではなく「自分がどう見られているのか」が自分を規定するのである。そのようななかで「集団」、「格付け」、「定型化」は「自分はどう見られているか」が非常に理解されやすいため日本的自我の形成には大きい役割を果たすのである。そのような自我は自らの所属や集団に依存するために非常に不確実なものである。

日本人は自我の不確実性を補おうとして、その集団の秩序を乱すような批判的な精神はたとえ持つとしても、「自分がどうみられているのか」という自我の揺れ動きを気にしなくてはならないがために相当なエネルギーを要する。また、そのような批判者に対しての集団の維持を目的とした攻撃はすさまじいものがある。攻撃している彼らは集団が壊れ、自らの自我が露頭に迷うことを恐れているのである。

僕が集団の追従者となる彼らに抱いていた「個がない」というのはこの本の論議を用いると正しくは、「個と集団が同じなのである」と言う、言い方もできる。彼らにとって集団の所与性への追従からくる安心感こそが自分を成り立たせるのである。

この集団我というのは、「空気」の形成にもつながってくる。先ほども申した通り、集団を批判をすることは自我を不確実にするからである。私は、これが山本七平の書いた『空気の研究』や鴻上尚史の書いた『空気と世間』、『不死身の特攻兵』と言った以前読んだ、「空気」というものについて問題提起をした本と関連して読むことができると感じた。また、それを理解するうえで助けになるとも感じたのであった。

僕は、集団我というのはかつて終身雇用システムの会社やチームなどである程度の効果をもたらしたのでろうが、現代においては危険であると考える。なぜならば、情報の刷新がめまぐるしく訪れる時代において集団を維持することや「どうみられるか」を優先してしまっては、フットワークの重き集団とともに埋没してしまう結果となりかねないからだ。また、「集団」の「空気」など所与性の追従者になってしまうとオール3のロボットに代替可能な人になる他はなくなるのではないか。

私たちはもう一度、「個」と「集団」というものを吟味したうえで、「嫌な人間に見られる」というとてつもなく不安な感覚を味わう必要があるだろう。


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