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ポンペイの遺跡を歩いた, 1983年7月8日(写真11枚) 〜 "Echoes" Pink Floyd LIVE at ポンペイ, 1971年10月(歌詞和訳)

1983年4月26日に横浜港を発って日本を出てから74日目, 同年7月8日, その日まで 4泊5日滞在していたローマを発ってナポリへ移動, ナポリに宿をとってその日は列車で「現代の」ポンペイ市方面へ。目指したのは「古代都市」ポンペイの遺跡。

ポンペイに辿り着くまで

冒頭書いたように, ポンペイにはナポリから日帰りの旅をした。ナポリの前にいたところはローマで, ローマを 1983年7月8日朝に列車で発ち, 同日昼にはナポリ着。

ローマ(*1, 2)には 7月4日から8日にかけて 4泊5日滞在(7月6日にはヴァチカン市国も見物, イタリア国内に関してはその前は フィレンツェ *3 に 2泊3日, ヴェネツィア *5 に 1泊2日)。ナポリに関しては多分(!)明日か, あるいは明後日, あらためて note 投稿。

イタリアは, 1983年4月26日に横浜港をフェリーで発ってスタートさせたユーラシア大陸「ほぼ」一周(細かいこと書くとエジプトにも行ったのでアフリカ大陸もその北東の端だけ触れた)旅行の 12番目の滞在国(1番目はその後1991年12月26日に完全に瓦解, 解体, 国家としてはその日から消えているソ連)。イタリアに入る前までの日々については, *2 の最終章「1983年4月26日に日本を発って, イタリア に辿り着くまでの日々」に。 

*1 ローマ part I ... トレヴィの泉, スペイン階段, スイカ売り, トランプおじさん, イカしたカップルなど(写真13枚)

*2 ヴァチカン市国(写真3枚)と, ローマ part II ... フォロ・ロマーノ, コロッセオ, カラカラ浴場(写真8枚)

*3 フィレンツェ(写真6枚)

*4 フィレンツェ(*3), ヴァチカン(*2)で想起するガリレオ・ガリレイ, ヨハネ・パウロ2世 〜 ついでにシネイド・オコナー, 結局「宗教」(かよ!嘆息)

*5 ヴェネツィア(写真7枚)

イタリア「双六」終盤へ, ヴェネツィア, フィレンツェ, ローマとヴァチカン, ナポリに進んで, いざ ポンペイ

ポンペイ

現代のイタリアにも「ポンペイ」はあって, それはイタリア共和国カンパニア州ナポリ県に位置する人口約25,000人の「ポンペイ」。その現代の「ポンペイ」は古代都市「ポンペイ」の遺跡近くに 1891年に建設されたもので, ここで話題にするのは, 遥か昔, 古代, まさしく古(いにしえ)の時代となるローマ帝国期の西暦79年に突如消滅してしまった, 埋没当時の人口は 10,000人弱だったとされる古代都市「ポンペイ」, the ancient Pompeii の方。

西暦79年に起きた火山の大噴火, その火砕流によって埋もれた古代都市「ポンペイ」は, あまりに有名。と言っても, 筆者はその歴史に詳しいわけではないので, 知ったかぶりはしないで略記に留めるつもり .. だったけれど, 転載など付けたらだいぶ長くなってしまった!

古代都市「ポンペイ」のあった地域には既に紀元前7世紀もしくは8世紀頃から集落が形成され, 都市が建設されていったようで, その間, 戦争などを通じて主たる住民や支配者に関して変遷があるんだけれど, 紀元前89年にはローマの軍門に降(くだ)り, ポンペイローマの植民都市となる。

ローマ支配下となったポンペイの正式名称は Colonia Cornelia Veneria Pompeianorum で, ポンペイ人による ウェヌス女神に献呈された コルネリウスの植民市, という意味になるらしい。ポンペイは交通の要衝で, 巨大な自然災害により消滅するまで, 商業都市として繁栄を極めたとのこと。

コルネリウス とは ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(ラテン語では Lucius Cornelius Sulla Felix; 紀元前138年 - 紀元前78年), ポンペイを征服した共和政ローマ期の軍人兼政治家の名前。ポンペイは当初, 周辺の諸都市とともに反ローマ側だったが, 紀元前89年にこのルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクスが率いるローマ軍によって征服され, 他の都市とともにローマの植民地, 植民都市になった。

ウェヌス はポンペイの守護者とされた, 「美と恋愛の女神」ウェヌス。これは古典ラテン語で Venus, つまりあの ヴィーナス, 英語でも Venus, ローマ神話における「愛と美の女神」(いろんな言い方があるなぁ)。Venus で英語の辞書など引くと, ローマ神話におけるヴィーナス, 「肉体の美と性愛の神」(いろんな, いや色んな言い方があるなぁ!)でキューピッドとアイネアスの母(神話の中の家族関係, 姻戚関係はややこしいので要確認かも!), ギリシャ神話の Aphrodite アフロディーテ に相当(話は飛ぶけれど今日のこの note 後段とは関係ある, ピンク・フロイドの伝説の初来日公演, スタジオ盤リリース前の「エコーズ」も演奏された, その最初のステージは 1971年8月6-7日の2日間にわたって箱根で開催された海外アーティスト招聘による本邦初の野外ロック・フェスティヴァル, その名も「箱根アフロディーテ」!), 直前のカッコ長くなったけれど(笑) ... 転じて「絶世の美女」などと出ていたりする(ついでと言っちゃなんだけど金星も Venus ですね)。ウィキペディアでの記述は「本来は囲まれた菜園を司る神であったが, 後にギリシア神話におけるアプロディーテーと同一視され, 愛と美の女神と考えられるようになった。一般には半裸或いは全裸の美女の姿で表される。ウェヌスは固有の神話が残っておらず, ローマ神話でウェヌスに帰せられる神話は本来アプロディーテーのものである」。

「美と恋愛の女神」「愛と美の女神」「肉体の美と性愛の神」ウェヌス

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上はフランスの画家, ウィリアム・アドルフ・ブグロー(William Adolphe Bouguereau; 1825年11月30日生まれ, 1905年8月19日他界)による「ヴィーナスの誕生」。この ヴィーナス ウェヌス

古代都市ポンペイはその守護者が「ウェヌス」ということになっていたためか, というか当時はポンペイに限らずとも言えるようだけれど, 遺跡から発掘された壁画には男女の交わりを描いたものも多数含まれ, 娼婦の館などがかなりあったことが確認されている。

以下はウィキペディア(*1)にも掲載されている「娼館に残っていた壁画」で, 他にもググれば同類のものがかなり出てくるけれど, まぁここではこれだけでいいですね!想像するに, 皆さんの退位, じゃなかった大尉, じゃなかった体位, これは俺たちが初めてだ, 私たちが開発したのよ, などと誇っても, 実は全てポンペイの時代からあったものと思われます。古代人に「体位」, じゃなかった「敬意」を表し, 謙虚に生きることにしましょう!

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因みにフランス・パリ, サン・ドニにある有名な娼婦街, あのサン・ドニ通りはパリで最も古い通りの一つで 紀元1世紀頃にローマ帝国によって造られたものというから, 時代としてはイタリアの都市(古代都市の方の)ポンペイが火山の噴火が原因で消滅してしまう時期と同時代, ということになるけれど, パリのサン・ドニ(の一部が)が娼婦街になっていくのは中世以降というわけだから, やはりこの件, ポンペイの方がだいぶ先輩ということになる。先輩・後輩を言うような世界ではないけれど, 兎にも角にも流石のサン・ドニも, というわけで!

*1 からの転載。

町の守護者は美と恋愛の女神ウェヌスであった。娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれる。ただし、この町は商業も盛んな港湾都市である一方で、火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったことが伺える(現在はポンペイ周辺で火山活動の地殻変動によって陸地が上昇し、相対的に水位が下がっているが、当時は港もあり海洋都市でもあった)。碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっている。また当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設は多かったという主張もある。

ポンペイの都市としての特徴, に関しては, 以下 *2 の「ポンペイ――ローマ都市の特徴」から転載しておくと(本村凌二は古代ローマの社会史を専門とする歴史学者, 現在 東京大学名誉教授, 『同上書』とあるのは『ポンペイ・グラフィティ――落書きに刻むローマ人の素顔』[中公新書, 1996年]),

遺跡からわかることは、市街地は公共建築物と個人住宅が混在しておらず、公共施設は次の三つの地区に集中していた。第一の地区は公共広場(フォルム)とその周辺で、都市行政の建物、民会会議場、ユピテル神殿その他の神殿が集中する。第二地区は三角広場の周辺にあり、五千人ほど収容できる大劇場、千三百人ぐらい収容できる小劇場、剣闘士養成場といくつもの神殿があった。第三の地区は円形闘技場と大鍛錬場(運動場)、中央にはプールもあった。またポンペイには三つの公共浴場があった。これらの公共施設はローマの都市の標準的なものである。
ポンペイ遺跡で特徴的なのは個人住宅が、室内装飾や家具などとともにそのままの状態で今日に伝えられていることである。一般的な中庭を持つ邸宅では壁面に絵画が描かれ、床にはモザイク画で覆われており、文化の高さを示している。また集合住宅も多かった。市街地の街路には車道と歩道の区別があり、車道は敷石で舗装され歩道には小石が撒かれていた。水道も整備され、給水塔を通じて水路で運ばれ公共浴場、個人住宅に鉛管で給水された。歩道の下には下水道が設けられ、車道が排水に利用されるなど、合理的な都市造りが見られている。<本村凌二『同上書』p.13-18> 

古代都市ポンペイは西暦(紀元, 紀元後)79年のヴェスヴィオ火山噴火による大規模な火砕流によって地中に埋没してしまうわけだけれど(その17年前, 西暦62年の大地震「ポンペイ地震」が後のヴェスヴィオ火山噴火の前兆であった可能性があるとされている), その後も 1, 000年以上にわたって「町」として呼称が残り, 時折り古代の遺物が発見されたりもしたため, 地中に古代の都市が埋まっていること自体は長らく知られていたもよう。

ポンペイ埋没から 1,500年余り経過した 1599年になってルネサンス期のイタリアの建築家によって遺跡の一部が発見され, ポンペイの美術品(上述のような男女の交わりを描いた壁画など)が発掘されているが, 大規模なポンペイの遺跡発見は 1748年のこと。以降, 古代都市「ポンペイ」の多くの建造物, 壁画などが掘り出され, 往時のポンペイ市民の生活の様子が明らかになっていった(発掘は21世紀の今も続けられている)。

* 1 より転載。

ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっている。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっている。男女の交わりを描いた絵も有名で、これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていた。1000平方メートルの広さをもつホテルは、町のそばで見つかった。現在、このホテルは、「グランドホテル Murecine」と呼ばれる。

発掘は 21世紀の今に至るまで続けられているが, 

町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝える。焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えている。保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝える。当時のポンペイはとても活気のある都市だった。整備された上下水道の水道の弁は、水の量を調節する仕組みが現在とほとんど変わらず、きれいな水を町中に送っていた。トイレが社交の場となっていたらしく二人掛けのトイレが存在し、トイレは奴隷とその主が共同で使用しており、トイレの壁に「見事だ」と奴隷による落書きが残された遺構がある。発掘された排泄物や骨の調査から、身分によって食事の内容に違いはなく、皆健康的な食生活を送っていたらしい。
爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多くあり、また彼ら向けのサービスも多くあった。Macellum(大きな食物市場)、Pistrinum(製粉所)、Thermopolia(冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を提供したバー)、cauporioe(小さなレストラン)、円形劇場などがあり、噴火直前までこれらが営業していた痕跡がある。2002年にはサルノ川河口にボートを浮かべ、ヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたことが判明するなど現在も新事実が続々と報告されている。

*1

*2 高校では「世界史」とってないけれど(笑)。

*3 これは「ポンペイ」観光案内(ポンペイの遺跡への行き方)。

ポンペイ, 旅日記殴り書きメモ

以下, 当時の旅日記 殴り書きメモの一部(字が汚ないので 殴り書き!)。とりあえず, 1983年7月8日 は金曜日だったようであ〜る。

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ローマのフォロ・ロマーノについては, 本 note 第1章「ポンペイに辿り着くまで」に置いた note リンク *2 に。

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これは「円形劇場」。以下, 宿をとったナポリの街などについて書いたくだりをここではカットして,

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そうだ, ここでふと思うんだけど, 当時, 2021年の今現在の「凋落」日本とは逆で(!)「飛ぶ鳥を落とす勢い」と見られていた, そんなふうに見えていた, 「西洋」「欧米」の彼ら彼女らから見たら「極東」の島国・日本, その日本の立ち位置ってどんなものだったのか。

以下リンク先 note 第4章 ピンク・フロイド "The Final Cut" とダイアー・ストレイツ "Love Over Gold" に登場する 'Japanese' 〜 1980年代初期の世界における「日本」の立ち位置を振り返る にて, 同「章」見出し通りの視点から詳述。

ではでは, 旅日記 殴り書きメモから, 等はこのくらいにして, 次章では当日, ポンペイの遺跡で撮った写真11枚を掲載。

ポンペイ(西暦79年埋没, 1599年一部発見, 1748年発見) 〜 1983年7月8日(写真11枚)

古代都市「ポンペイ」の歴史などなど, については前々章にて。旅日記のメモは前章。本章では淡々と, 当時撮った写真を。

1)

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2)

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3) これは本 note タイトル上のカヴァーに使った写真。右側に SHARP の Tシャツを着た女性が見えるけれど, あの頃の日本(や日本経済)の世界における立ち位置ってどんなだったのか, それは前章の最後にリンクを置いた以前の note の中で, 当時の Pink Floyd や Dire Straits の曲の歌詞に現われたそれとともに書いているので是非。 

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9) 円形劇場

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10) 円形劇場

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11) 円形劇場

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ではでは,

最後の 3枚の写真 9) 10) 11) にも関連して, 次章では, Pink Floyd が 1971年に行なった古代都市「ポンペイ」の 遺跡 での ライヴ 演奏を ♫

Echoes, Pink Floyd LIVE at ポンペイ(1971年10月) 〜 歌詞和訳

もはや何だか懐かしい言葉だけれど(当時の)「プログレッシブ・ ロック」の先駆的バンドの一つ, イギリスのロック・バンド, ピンク・フロイドが, イタリアにある古代都市「ポンペイ」の遺跡 でロック史に刻まれることになる「伝説の」ライヴ演奏(無観客, これは映像を幻想的なものにするうえでかえって効果的だった)を行なって録音/録画したのは, 1971年10月4日から7日まで の4日間。

その直後の 1971年10月31日 にリリースされた彼らの6枚目のアルバム "Meddle" に収められた "Echoes", その "Echoes" を含む3曲が ポンペイ 遺跡 で演奏・録音/録画され, 残りの曲は同じく1971年の12月13日から20日にかけてフランス・パリのスタジオで録音, 映像制作(後者の曲でも古代ローマの壁画・モザイク画などが映像に加えられている), そうして映像作品 "Pink Floyd: Live at Pompeii" は完成し, 1972年9月2日 にリリースされた。

この秀逸な映像作品, 若い頃に買って持っているのだが(筆者のものはオリジナルの 64分ものではなく 80分ヴァージョンで後のアルバム "The Dark Side of the Moon" レコーディング中のメンバーへのインタヴューや同アルバムからの曲の一部が加えられている), それが時代を感じさせる VHS で, 筆者の自宅にはかな〜り以前, 「ポンペイ」の悲劇が起きた紀元1世紀ぐらいの昔ではないけれど(!), だいぶ昔に購入した VHS/DVD/Blu-ray 兼用の録画・再生プレイヤーがあるものの, これも相当に昔になんと VHS機能の部分だけ故障してしまっていて, それ以来, 大事な大事な「家宝」"Pink Floyd: Live at Pompeii" のヴィデオ作品を我が家のテレビで観れなくなってしまっている。

ではでは, 以下, 前章に載せた 1983年7月8日筆者撮影の「ポンペイ」遺跡写真11枚のうちの写真 9) を再び掲載しつつ, 同じ場所で行なわれた 1971年10月のピンク・フロイド「エコーズ」ライヴ演奏, および筆者による歌詞和訳を。

この歌詞和訳は, 昨年 2020年12月15日に投稿した note *A にて既出, なお興味深いことの一つは, ここでの「エコーズ」, "Echoes" の歌詞に関して, スタジオ盤つまりアルバム "Meddle" 収録のそれとの間に相違が見られるということ。

1971年1月から8月にかけて録音され, 同年10月31日にリリースされたアルバム "Meddle", その LPレコードの B面全てを 1曲で占めた大作 "Echoes", そこで Verse 1 の後の出だしとして "And no one showed us to the land" と歌われている箇所が, この 1971年, つまり同じ年の, スタジオ盤の録音とそのリリースの間の時期に行なわれた LIVE at Pompeii のヴァージョンでは, "And no one called us to the land" と歌われており, また, Verse 3 においては, "Meddle" 収録ヴァージョンでは "Inviting and inciting me to rise" と歌われている箇所が, この LIVE at Pompeii ヴァージョンでは "Inciting and inviting me to rise" と歌われているのだ。 

それでは, 

"Echoes", Pink Floyd LIVE at Pompeii in October 1971 ♫

以下の写真の直ぐ下のヴィデオに収録された音源は, 上述の映像作品の中で part I, part II (I, II はローマ数字!)の 2つのパートに分かれているものを編集してまとめたもの, 要するに "Echoes" Full Pompeii Version となっていて, 時間が更にその下の 2つのヴィデオの合計時間とならないのは編集上のずれだが, その下の 2つとは, 元の映像作品の "Echoes" part I と "Echoes" part II のこと。

Full Pompeii Version は 1曲の扱いで続けて聴けるが, イメージは当時のライヴの時に撮られた静止画像のみであって, "Echoes" part I および "Echoes" part II の方は当時映像作品として撮影・編集された Pompeii の遺跡の様子, 遺品・美術品等が実写・描写されたものなので, 当然ながら, 映像としてはこちらの方が価値があり, 観応えがあるもの。 

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以下は, "Pink Floyd: Live at Pompeii" (October, 1971) より, "Echoes" part I と "Echoes" part II ♫ ... ヴィデオの下に歌詞と筆者による歌詞和訳

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

..............................

頭上 空高く アホウドリが (*1)
宙に舞い上がったまま静止して垂れ下がる
そして 揺れる波間の奥深く
珊瑚の洞窟の迷宮の中
遠く離れた潮の流れ 遥かな過去の残響が (*2)
砂地を越え 風に舞う柳の如くゆらゆらとやって来る (*3)
そして 何もかもが青々とした緑色を成し 海の底に (*4)

誰も我々を陸地に導かなかった
誰もが 何処にいるのか 何故そこにいるのかを 分かっていない
しかし何かが目覚めて動き出し 何かが試みを始める (*5)
そして 光に向かって 登り始めるのだ

通りすがりの見知らぬ者どうしが
偶然にも 一瞬その視線を交わす
実は私はあなたであり 私が見ているのは私自身なのだ
私はあなたの手を取り
この地の何処(いずこ)かに導き
自らができる最上のことは何なのか 理解することになるだろうか?

先に進むよう呼びかけるものなどいない
視線を落とすよう強いるものもいない
言葉を発するものはいないし 我々のように試みるものもいない
太陽の周りを飛ぶものなどいないのだ

雲ひとつない毎日 あなたは 覚醒した私の眼に舞い降りる
私に起き上がるよう 鼓舞し、誘い(いざない)ながら
そして 壁に埋められた窓を通し
陽の光の翼に乗って差し込んでくるのは
眩い(まばゆい)ばかりに光り輝く何百万もの朝の大使 (*6)

私に子守唄を歌ってくれるものなどいない
私の目を閉じさせるものもいない
だから私は窓を大きく開け放ち
空の向こうのあなたに呼びかけるのだ

.............................................

注釈 *1 - *6 については, 以下の note *A にて。*B, C, D も「エコーズ」(および歌詞和訳)関連 notes

*A ポンペイで、アムリトサルで、ダラムサラで聴く 〜 ピンク・フロイド 「エコーズ」 (歌詞和訳) ♫

*B ピンク・フロイド 「エコーズ」 を和訳する 〜 空を見上げ、アムリトサルで、ダラムサラで、ポンペイで、そしてスタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」を観ながら聴く、不朽の名作 "Echoes" by Pink Floyd ♫

note *A, *B に関連, アムリトサル(インド)

note *A, *B に関連, ダラムサラ(インド)

*C 宙に舞い静止するアホウドリ 〜 ピンク・フロイド Echoes 和訳, フィンランド・ヘルシンキ編 ... "Echoes" edited version from Pink Floyd's fourth compilation album "Echoes: The Best of Pink Floyd" released on November 5, 2001 ♫

*D 2001年宇宙の旅 と ピンク・フロイド 「エコーズ」 の シンクロニシティ 〜 歌詞和訳 ♫

note *D に関連, 2001年宇宙の旅 〜 "2001: A Space Odyssey" (Stanley Kubrick, 1968)

note *D に関連, 長いなこれ(笑), 「ブレードランナー」から「2001年宇宙の旅」/ "Echoes" へと巡る旅 〜 〜 経由地は「いまを生きる」「6才のボクが、大人になるまで。」「生きる」「ゴンドラの唄」, "To the Virgins, to Make Much of Time", 途中下車して「ウィンザーの陽気な女房たち」, "Welcome to the Pleasuredome" "Relax", 「アポロの歌」, "If" & "If", 「ツァラトゥストラはこう語った」


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