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イラン革命(1979年) 〜 1983年8月, トルコ・イスタンブールで同宿したイラン人兄弟から聞いた話を, 当時の旅日記で振り返る

タイトル上の写真は, 1983年11月16日のイラン・イスラム共和国の首都, イラン革命(1978年1月7日 - 1979年2月11日, 結果としてイスラム革命)から 4年9ヶ月5日後のテヘラン市街(筆者撮影)。イランでは近年でこそスカーフ形状のヒジャブにすら, その公の場における強制に抵抗を示す女性が表立って出て来たが(ヒジャブを被らないで通り, つまりは公衆の面前に出て, そして多くがそれだけの理由でシャリーア=イスラム法違反だとされて牢獄に入れられてきた), 筆者がイランを旅した1983年当時はまだイスラム革命から4年余しか経っておらず, 他人には目しか見せないニカブもしくはブルカの如くに映る, 全身を覆うチャードル(チャドル)姿の女性が目立ったテヘランだった。

1983年4月に日本を出て, 同年11月後半はイランを旅した 〜 その前, 同年8月に, トルコのイスタンブールで同じ宿にいたイラン人兄弟からイランの状況について話を聞いていた

以下は トルコの旅 note 第1編と第2編。第3編, 第4編も予定しているが, 今日の本 note では, 次章以降で, イスタンブールで同宿した, イラン革命(1979年2月11日)から4年後の母国を脱出して来ていたイラン人兄弟(イランでは兄は大学の教師, 弟は学生だった)から聞いた「革命」前後のイランの状況についての話を記したい。 

「イラン革命は6ヶ月だけ自由だった」「6ヶ月は人々が政府だった」 .. 1983年, 彼らはイラン革命4年後のテヘランを脱出した(1983年8月トルコ・イスタンブールでの旅日記から転載)

旅日記からの転載は, 本章の後段にて。

さて, 今のトルコではどうだろうか。それはちょっと分からないけれど(何か調べれば分かるんだろうけど), とにかく当時のトルコには, 特にイスタンブールには, けっこう大勢のイラン人がいたと思う。

1983年というとイランで最終的に「イスラム革命」となったイラン革命(1978年1月7日 – 1979年2月11日)「成就」から4年の月日が経過していたが, 要するにそんなイランを脱出して来ていた人が多かったのではと想像している。

イラン革命を経てというよりも, 革命の混乱の最中に母国を出て来た人も少なくなかったかもしれないが, イラン革命時にイランを出たイラン人の中では親米, というかアメリカ合州国の傀儡だったパーレビ(パーレビ皇帝もしくはパフラヴィー皇帝), つまり モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー時代に支配層にいた人間やその恩恵を享受していたような層に属する人々はその多くがアメリカ合州国に逃げた(移住, アメリカ西海岸に定住した人が多数)と言われるから, トルコに脱出したイラン人は, そういう人たちとはちょっと違う層なのではないかと思う。

とりあえず陸路でイランを脱出しようとすれば, 西はトルコ, 東はアフガニスタンとパキスタンということになるが, 当時のアフガニスタンは1978年以降は社会主義政権が統治したアフガニスタン民主共和国で, しかも1979年以降についてはイラン革命経由のイスラム原理主義がアフガニスタンに伝播し自国の域内にも入ってくることを恐れたソ連がアフガニスタンに軍事侵攻していた時代, 一方でパキスタンはそもそも「パキスタン・イスラム共和国」というわけで, 少なくともイスラム教という宗教を使って統治されるような国が嫌だと思えば, 自然と陸路の脱出先はトルコ, ということになったのだろう。そもそもトルコに行けば, もう目の前はヨーロッパだ。

とはいえ, 本 note で取り上げる, 1983年8月に筆者がイスタンブールに3週間ほど滞在した際に泊まっていた安宿に同宿していたイラン人兄弟の話では「ヨーロッパに行くにしても ビザはとりにくい」ということだったので, トルコから先, どうしたらいいか, そこは悩みの種だったのだろうと思う(トルコはイスラム神政国家ではなかったが, 当時, 軍事政権の支配下にあった)。

以下は 1983年8月18日付の筆者の旅日記の冒頭だけれど, トルコの次の旅先であるシリアのヴィザを取得すべく在イスタンブールのシリア領事館に行ったところ, 「イラン人が多くて少しびっくりした」。当時のシリアは現在の独裁国家シリアの大統領バッシャール・アル=アサドの親父さんであるハーフィズ・アル=アサドが独裁大統領だった時代。シリアに旅する程度ならともかく, シリアも定住先として「適切」だったとはとても思えないのだが(まぁこの時にシリア領事館で見たイラン人のシリア渡航目的が何だったのかは知る由もないけれど)。

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さて,

1983年8月のトルコ・イスタンブール, 同じ宿にいたイラン人兄弟。同年4月に革命後4年を経たイランを脱出して来た二人。イランでは兄は大学の教師(ペルシャ文学専攻), 弟は美術を学ぶ学生だった。

1983年8月27日の旅日記にあるように一緒に記念写真を撮っていて, 彼らイスタンブールで親しくしていたイラン人兄弟が写った写真は今も大事に持っているが, 本 note ではその写真はとりあえず掲載しないことにする。既に38年経過した今, この note に掲載したからといって彼らに危害が及ぶことは考えにくく, 過去に Facebook で掲載したことなどもあるのだが, 彼らと筆者以外にやはり同じ宿にいた日本人バックパッカー二人が写っていて, うち一人はその前にギリシャ・アテネで出会った人でイスタンブールで再会, 縁あってその後イスラエルによる占領下の東エルサレムでも再会, インド・デリーでも再会し, 帰国後もお付き合いさせていただいている人なのだが(3歳年上), もう一人の日本人(彼は当時22歳だった筆者より若干若かったと思う)とはその後の交信がない。ちょっと迷ったが, やはり今日のこの note ではその写真は掲載しないでおこうと思う。

以下は, 当時イスタンブールにいた時の筆者の旅日記から, イラン人兄弟が登場する頁(彼らが語ったイランやイラン革命についての話が中心)からの転載である。

なお, 以下の 旅日記からの転載 に付した番号 1) 2) 3) .. は, 次章に載せた 旅日記・抜粋 に付した番号 1) 2) 3) .. に対応している。

1) イスタンブールの同じ宿にいた, イスラム革命体制の母国を脱出してきたイラン人兄弟。

*以下, 1983年8月20日の旅日記から

「イエニ」とは泊まっていた安宿「イエニペンション」のこと(1泊200トルコリラ, 当時の為替レートで日本円にして 1泊200円程度, なお, 当時のトルコリラは 2005年末まで流通していた旧トルコリラで, 現在のトルコリラとは全く違う)。

イエニの 7号室(3人部屋)に, イラン人 2人
同室の日本人によると, 3ヶ月前に出てきた兄弟, 住みついてるみたい。

2) 彼ら曰く 〜 イラン革命は 6ヶ月だけ自由だった(自由に話せ, 自由に書けた)。最初の 6ヶ月は 人々が政府だった。ホメイニは心は good だが, 頭は stupid だ。

「6ヶ月」というのは, イラン革命成就(1979年2月11日)の後の6ヶ月を指していたものと思う。

*以降, 5) 6) まで, 1983年8月21日の旅日記から

ホリさんと 7号室へ行って イラン人兄弟 2人と話す。
彼らは 4ヶ月近く前に出国。家族は 今 テヘラン
イラン革命は 6ヶ月だけ自由 だった。自由に話せ, 自由に書けた。
(イラン革命成就に至るまでの間)貧しい人々も, 学生も, みんな徒手空拳で パーレビの軍と闘った。
(イラン革命成就後)6ヶ月は人々が政府 だった。
ホメイニは 心は good だが 頭は stupid.

3) 4) 彼ら曰く 〜 最初は みんな ホメイニを受け入れた。それはイスラームを重んじる人たち(もしくはイスラム原理主義者たち)にとってはチャンスだった。

ホメイニは poor people に良くしたいと思い, 彼自身 poor だったが, He doesn't know which way is good for poor people.
ホメイニは パリにいて パーレビを批難していた。
最初は コミュニストも含めて みんな ホメイニを受け入れたそれは religious people にとって チャンス だった。
女はチャドルをかぶれ etc は良くないと思う人もいて, 初めは meeting だったが slowly slowly に武器をとり出した。
ホメイニ側の人の方が武器をもっていて 反対派は弾圧され, 数多く殺された。

イラン・イラク戦争について

イラ・イラ戦争は今も続いてる。
イラクが先に入って 大勢のイラン人を殺した。
地雷のあるところを たくさんの人が歩いて バクハツ。
そして 安全になったところで 次のグループが歩く ← すさまじい。
みんな イラクにふくしゅうしたい(私は銃をとりたくない, レポートを書きたいと言った ー 兄貴の方, 大学の先生, ペルシャ文学専攻だった)
軍は 後方から ミサイルうってるのみ。

アメリカ合州国もソ連も嫌い。民族自決を求める。

2人とも 米 も ソ も嫌ってる民族自決を求める。stand by ourselves
ヨーロッパに行くにしても ビザはとりにくい。(むずかしい)

イスタンブールは?

イスタンブールは好きか ときくと, tourist にはいいだろうが, 住む人には良くない, 街にたくさんの軍人, けいかんがいるから, と言った。

5) 6) モスレム(ムスリム, イスラム教徒)かと訊くと, 父はそうだが, 自分は違うと言った。イラン革命の当初は 人々は happy だった とも言った。

イラン の which place が好きか ときくと,
弟(元学生, 卒業はしてない, 美術専攻)はテヘラン, イスファン, シラズ, 生まれ故郷(イラン北東部)をあげたが, 兄貴の方(32, 3才か?)は イランの全てが好きだ と言った。
モスレムかときくと, 父はそうだが, 自分はちがうと言った。
自分は人々を信じると言った。
彼(兄貴の方)の Nobody knows what will happen in future というコトバは印象的だ。
イラン革命の当初は 人々は happy だった とも言った。
他に, 冬のイラン, 危険なところ, などもきいた。
I'm sorry if you did mind our question と言うと, 彼は No, No と言った。
とにかく 今, 彼らは国に帰れない。

7) イラン人兄弟と歌を歌い合う。「シャー」とは, パーレビ(パフラヴィー, Mohammad Reza Pahlavi)のこと。  

*以下, 1983年8月22日の旅日記から

帰って来て イラン人のいる部屋で 日本人も少し集まって いっしょに歌う。
イラン人も イランの歌を歌ってくれた。(革命の頃の歌)
love song も多かったが, 革命後 禁止されてしまった。シャー時代はやった歌は dirty love の歌も多かったが, some of them は良かった, とのこと。

8) イランは革命前は アメリカのものばかり入ってきたが .. 今は変わり ...

*以下, 1983年8月24日の旅日記から

夜は部屋(5号室)で イラン人兄弟もまじえ, いろいろと話した。政治からジェスチャー .. まで。
イランは革命前は アメリカのものばかり入ってきたが(もちろんいいものもあれば ひどいものもあった ー 彼らいわく), 今は変わり, たとえば映画はクロサワを中心として日本からたくさん入ってきてるとのこと。これは興味深かった。
兄貴の方が言うには, 本当のデモクラシーが best だと言う。
彼の考えでは real democracy と real communism はよく似てるが, 違う。後者においては, 全ての人に chance があるわけでないと言う。
彼のモジャヘディンハルク評 → religious だが ファナティックじゃない。modern な宗教者。
弟がペルシャ風女性画をかいたり, 女の話もしたりして楽しかった。

9) 日本人女性の印象を語った彼らだが, 日本の古い映画などを通した印象だったのではないか(同じ宿に日本人女性バックパッカーがいたりもしたけれど)。また, ソ連への言及もあったが, 彼らはもちろんソ連に行ったことがあるわけではなかった。アメリカ合州国については, イラン革命の前の, 傀儡政権化したようなパーレビ時代のイランの政府のもとイランに押し寄せたアメリカの玉石混淆のカルチャーから得た印象などをもとに, 語っていたのではないかと思う。 

*以下, 1983年8月25日の旅日記から

夜はまた イラン人兄弟とともに。
イラン人女性は 日本人女性と似てる との話。(内気であるとか。)
彼らは USA よりは ソ連の方がまだいい と言う。これは興味深かった。
もうひとつ印象に残ったコトバ。
ヨーロッパは沈みつつある。

10) 11) 12) イラン人兄弟の兄の方に ペルシャ語を書いてもらった。彼は詩人でもあった。

*以下, 1983年8月27日の旅日記から

イラン人兄弟 の兄の方 HASAN に書いてもらった ペルシャ語の ヤマモトツヨシ

上記のペルシャ語の文字は, 次章に写しを載せた旅日記 10) に。

夜。部屋(5号室)で イラン人兄弟 をまじえての対話。
日本人はフォーマルすぎて 話しにくいところがある。日本人はもっと自分たちのことを紹介した方がいい。
政府にその意欲がないのなら, きみたちが率先して。
きみらと話せるのは楽しい, とのこと。
彼らは 29(月)に シリア, アレッポに向かう。シリアから政治的理由で逃げてきたシリア人の家族に会って 彼の近況を知らせることをたのまれた とのこと。彼は英語ができないので, 訳してくれる人がいてしゃべるとのこと。でも我々は話さなくてもわかりあえるのだ。You know what I mean? 彼(イラン人兄)はそう言った。

境遇が似ているから, ということだろうか。

そのシリア人は 以前 イエニペンションのこの5号室にいたが トルコの police によってここから出された。(ここの日本人も知ってる)
しかし今も イスタンブールにいるとのこと。
イラン人兄は 詩も書く人 で, 2つペルシャ語で読み, 説明してくれた。
写真をとり, 連絡先をきいておいた。

13) 14) 15) 以降も件のイラン人兄弟と話した時の旅日記からの転載だが, この先は会話に加わっていたやはり同宿のオーストラリア人やドイツ人に関わること及び彼らの話の内容が中心。そうした話題の場所に, 「イスラム革命」後のイランを脱出してきたイラン人兄弟が同席して会話に加わっていたことを踏まえ, 以下に関してもここで掲載する。

*以下, 1983年8月29日の旅日記から

あんどーくんと イラン人兄弟 の部屋(7号室へ)
オーストラリア人が新しく入ってた。他の部屋のドイツ人も来てた。
みんなで話す。日本製品のこと, 労働者のこと, 緑の党のこと, 核のこと, 軍隊のこと, 旅のこと, いろいろ話した。

当時, ドイツの「緑の党」は国際的に注目を浴びる存在だった。

オーストラリア人は イスラエル, エジプトの Hotel を教えてくれた。
ドイツ人は 日本に興味持ってて, 2~3年のうちに金 貯めて 来たいとのこと。

*以下, 1983年8月30日の旅日記から

夜は ワインを買って 部屋(5号室)で イラン人兄弟, ドイツ人(きのうの)も まじえて話す。 with あんどうくん, キャラクターショップ経営の日本人

ワインはイラン人たちも飲んだと思う。アルコールが厳禁であるイスラームを信じる人が人口の99%を占めるとされる国トルコ, その最大の都市イスタンブール(イスタンブールはトルコ国内の他の都市と比べればイスラーム以外の宗教の信者が相対的に「いる」都市と言えるが, それでも公に出されている統計上は圧倒的大多数がムスリムだろう)においてはビールやワインを飲める店を探すのに苦労することはないのだが, それだけでなく, アルコール類を買える店も普通にあったと記憶している。

また, イラン人兄弟のうち兄の方は, 上に記した通り, 以前(8月21日)話した時にムスリムかと訊くと「父はそうだが, 自分はちがう」と答えていて, おそらくは弟の方も既に(もしくは以前から)イスラームによる信仰心は持っていなかったと思う。 

ドイツ人の話。トルコ人労働者の問題について。経済は第2の理由。第1の理由は 彼らがドイツ人とまじわろうとせず, かたまって居住区をつくってしまうこと。金を得たら さっさと帰る。

さらに上記のドイツ人に関して(以下はちょっと微笑ましい話),

彼は SHOGUN を見て, 島田陽子が好きになり, なんと日記にも書いたとのこと。
それで 日本に きたくなった。茶や ぼんさい にも興味ある。
大卒は5年後。それまでに来日したいとのこと。住所交換した .. 政治のことも話したが 彼は革新派。インテリっぽい。

再び, ドイツにおけるトルコ人労働者絡みの話, 

体制側はトルコ人をただ単に外国人だから追い出そうとしてるかんじあり。外国人排斥につながるおそれ。ナショナリストは若者の間でも決して少なくない, とのこと。

旅日記・抜粋

以下の 旅日記・抜粋 に付した番号 1) 2) 3) .. は, 前章に載せた 旅日記からの転載 に付した番号 1) 2) 3) .. に対応している。

見ての通りで, 乱筆乱文の殴り書きメモ。

1) この頁の最終行にある「遊郭 見」とは, 前回 note でも書いたが, ムスリム(イスラームの信者)が人口の99%を占めるとされる国トルコの最大の都市イスタンブールにあった「公営」遊郭の見物のこと。

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8) communism の m 一つ脱字。"religional" はもちろん正しくは religious, イラン人が誤ってこう言った可能性もあるが, おそらくは筆者が同日就寝前にこの旅日記に残す際に誤って書いたもの(誤植, というか赤っ恥の誤り!)。

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さてさて。

在イスタンブール, 「イラン・イスラム共和国」領事館前でイランのプロパガンダ写真を見ていて, 中に招き入れられた

1) 1983年8月16日 旅日記・抜粋(トルコ・イスタンブール滞在中)

「イラ・イラ戦争」とは, もちろん イラン・イラク戦争(1980年9月22日 - 1988年8月20日, ペルシア湾岸や両国の国境一帯が戦場となり, イラン優勢の状態で国連安保理決議を受け入れ停戦)のこと。「イスラム革命」とはイラン革命(1978年1月7日 – 1979年2月11日)が結果として「イスラム革命」となったアレのこと。本 note 前章までに言及したように, 当初はイスラム一色ではなかったが, ある意味, イスラム勢力に「革命」全体を乗っ取られたかたち。

"revolutional" は通常 revolutionary と綴ると思うが, 旅日記にはこう書いてある。稀に使われるようで実際, 領事館の写真のキャプションの中でのスペルは前者だったのかもしれない(あるいは筆者の単純な転記ミス)。

イラン・イスラム共和国領事館前の宣伝写真をしばし見る(イラ・イラ戦争, イスラム革命)。
ライフル持った子供の兵隊の写真に
"This revolutional generation will protect Islamic Republic of Iran"
その他, 「イランは火と花の国である。友には花を。敵には火を」,
反米反ソの絵など。
まぁとにかく イランには行ってみよう

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「まぁとにかく イランには行ってみよう」というわけで, トルコの後にシリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエル, エジプトを旅してトルコに戻った後, 2度目のトルコの次に行った国がイランだった。

2) 1983年8月24日 旅日記・抜粋(トルコ・イスタンブール滞在中)

「イエニペンション」とは, 当時イスタンブールで泊まっていた宿の名前。バックパッカーの溜まり場, 1泊200トルコリラ, 日本円にすると当時のレートで1泊200円程度だった(トルコリラは旧トルコリラ, 現在のトルコリラとは全く違う)。「5号室」に旅人が置いていく本の置き場所があって, 図書室みたいになっていた。「ムジャヘディンハルク」とは, イランの「イスラム共和国」体制に対する反体制武装組織の一つ(イラン革命時には共闘していたが革命がイスラム化するなかで「イスラム」体制側と袂を分かったグループの一つ)。イスラームを信仰する一方で左翼的, 体制の世俗化を標榜する組織。

イラン領事館前のプロパガンダ写真を見ながら, 中をのぞいていると, 中の人に迎え入れられた。イランの10月, 11月は寒いかなんて きいたりした。
彼は, 我々はアメリカとたたかっているんだ 云々と 全く迷いのない表情で話す。使命感にあふれてるというかんじ。(これは否定できない)
こういう人間がいることは確かだ ............... しかし ..........
今のイランの体制が民主的だとは とても思えない
彼は, ムジャヘディンハルクのビル爆破で死んだべへシティ師に関する本をくれた。イエニペンション5号室へ寄贈した。

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兎にも角にも, トルコ, シリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエル, エジプト, そしてカイロからイスタンに

「飛んでイスタンブール」して(話, 「飛んで」しまった), 

石川さゆりによる1979年のカヴァーで「飛んでイスタンブール」(オリジナルは1978年の庄野真代), この歌の歌詞, トルコには砂漠ないのに「光る砂漠でロール」とかイスタンにはいまいち似合わないフレーズ「夜だけのパラダイス」とか, けっこう無茶してる歌詞だけど, しかしこの石川さゆりによるカヴァー, もしかしてオリジナルよりいいかも(筆者の趣味的には, 勿論), それはともかく,  

話を戻すと, 2度目のトルコの旅の後, イラン を旅したのだった。旅したのは Movie! 映画じゃなくて, 実話。真ん中に写ってるのは筆者 .. じゃなくて, ホルガー・シューカイ!

https://ja.wikipedia.org/wiki/ホルガー・シューカイ

さてさて ♫

1983年11月のイラン, 旅 note

いずれまたあらためて書こうと思っているけれど, 以下の 3点は一昨年から昨年にかけて, 1983年11月にイランを旅したことに関わって note 投稿したもの。

ところで, 

イラン革命, 「たら, れば」 〜 米英によるイラン介入と不当極まりない政権転覆(1950年代前半)が無かったなら, 回り回っての, 巡り巡っての, 1979年のイランのイスラム革命は無かったのではないか, その前にイランは「中東」(西アジア)随一の民主的な国になっていたのではないか。

歴史に「もしも」はない。歴史に「たら, れば」はない。歴史に if はない。こういう言い方はよく耳にして来た。E.H.カーの「歴史とは何か」は学生時代に読んで, 今も大事に持っている本のうちの一つだけど, 彼は「未練」学派, "might-have-been school", 言わば「こうだったかもしれない」「こうだったら良かったのに」学派を批判している。しかし一方で彼は, 歴史とは “a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the present and the past”, 「歴史家と彼が掴んだ事実との間の絶え間なく続く相互作用の過程であり, 現在と過去との間の果てしなく続く対話」である, と言っている(個々の歴史家はそれぞれ自分が欲する事実を掴んだりもするんだろうけれど!)。

まぁそもそも, 本 note 筆者は「歴史家」では全くないけれど! 

でもね, とにかく, アメリカ合州国 という他国の政権転覆の常習犯が(アメリカ合州国による国家犯罪・不当な外国政府転覆は数知れぬほどあれど, うち例えば 1953年のイランのモサッデク, 1954年のグアテマラのグスマン, 1973年のチリのアジェンデは歴とした民主選挙・自由選挙でそれぞれの国の国民によって選ばれた政府だった, そんな民主制度による政府だろうが独裁政権だろうがとにかく自国の利益の為なら他国民から犠牲者・死者が出ることも厭わず平気で外国における政権転覆の罪を犯して来たのが自称「民主国家」アメリカ合州国), もしも イランにおいて イギリスと共に 1953年のモハンマド・モサッデク(民主選挙で選ばれ, 世俗政治を行なった民族主義者 *2)の政権を転覆させる(アメリカ CIA とイギリス MI6 が画策した皇帝派軍人によるクーデターで転覆)に至る不当極まりない内政干渉をしなかったなら, その後のアメリカ合州国の傀儡たるモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(日本では以前は「パーレビ」と表記されていた *3)が政治権力を一手に握る時代は来なかっただろうし(「パーレビ」の時代, アメリカの CIA とイスラエルのモサドの支援によって国民の政治活動を弾圧する秘密警察サヴァクを設立し, ファッションやカルチャー面でアメリカ風の「自由」があっても政治的な自由は極めて制限されていた, 因みに「パーレビ」政権はイスラエルとは軍事面でも協力関係にあった), それが無ければ, それに対する反動として起きたイスラム主義者アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー(*4)が宗教上のみならず政治上の権力者の座にも居座る結果になるような(最終的に「イスラム革命」となってしまうような)「イラン革命」も無かったのではないか。

話はやや逸れるが, ホメイニーが強大な権力を握るような時代が到来しなかったなら, あのホメイニーの莫迦莫迦しいファトワー(端的にいえばイスラム法による命令)によるサルマン・ラシュディ(パキスタン系イギリス人, 元イスラム教徒の無神論者, 小説「悪魔の詩」の作者)や「悪魔の詩」出版に関わった者に対する死刑宣告が実際上の力を得る事などなかったかもしれず, であれば, あの小説の日本語版の翻訳者で当時は筑波大学助教授であった五十嵐一氏が何者かによって惨殺されることもなかったのではないかと思われる。

だんだん「未練」学派っぽくなって来た。確かに歴史に「もしも」はない。過去はやり直しが効かない。既に書いたように, イギリスの歴史家 E.H.カーは "might-have-been school", 言わば「こうだったかもしれない」「こうだったら良かったのに」学派を批判している。しかし一方で, 彼は, 歴史とは “a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the present and the past”, 「歴史家と彼が掴んだ事実との間の絶え間なく続く相互作用の過程であり, 現在と過去との間の果てしなく続く対話」である, と言っている(個々の歴史家はそれぞれ自分が欲する事実を掴んだりもするんだろうけれど!)。本 note 筆者は「歴史家」では全くないけれどね! 

1953年に, 当時のイランの民主的に選ばれた世俗政治を行なう民族主義者モハンマド・モサッデク (Mohammad Mosaddegh) 首相の政府, 兎にも角にも歴とした外国政府を アメリカ合州国の CIA とイギリスの MI6 が画策して政権転覆し, パーレビ(モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー Mohammad Rezā Shāh Pahlavi)みたいな奴をイランの政治上の親玉に据え置かなかったら, その後の 1979年2月11日「成就」の「イラン・イスラム革命」なるものは起こり得ず, そもそもその前に, イランは, 今の自称「中東(西アジア)唯一の民主主義国」イスラエルなんかより遥かに素晴らしい, 「中東」(西アジア)随一の, 世俗主義で真に民主主義の国になっていた可能性がある。筆者個人の考えではあるが(当たり前だよ!), 実際, そうなる可能性は高かったのではないかと思っている。

*1 どうですか, 他国の政権転覆が大好きなアメリカ合州国で, そうした歴史をちゃんと省みることができる数少ない政治家, statesman, バーニー・サンダース翁!

因みに, 故「モサッデク」翁は以下の人, 故「パーレビ」爺 と 故「ホメイニ」爺 はその下のおっさんたち(というかジジイたち), 更にその下は, 「パーレビ」の妻になった「絶世の美女」たち。

*2 Mohammad Mosaddegh (Persian: محمد مصدق‎, June 16, 1882 – March 5, 1967)

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*3, 4 Mohammad Reza Pahlavi (Persian: محمدرضا پهلوی‎, October 26, 1919 – July 27, 1980) と,  Ayatollah Khomeini (Ruhollah Khomeini; Persian: سید روح‌الله موسوی خمینی‎, May 17, 1900 – June 3, 1989), つまり「パーレビ」と「ホメイニ」の爺さんコンビ。19歳離れてるし, 共にだいぶ昔に他界してるけど。

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ところで(全くもって余談, 余談以外の何者でもない .. かな, 笑), 上の写真でイランのラスト・エンペラー, パフラヴィー(パーレビ)の右に写っているのはパフラヴィーの 3回目の結婚相手, イランの上流階級のお嬢さんで軍人の娘だった Farah Pahlavi (Persian: فرح پهلوی‎, née Farah Diba (فرح دیبا‎); born October 14, 1938), この人もかなりの美女なんだけど, パフラヴィーの最初の妻と2番目の妻(別にパフラヴィーはイスラム圏で許容される同時に4人までの妻を娶っていたわけではなく, それぞれ事情があって離婚してから結婚, 関心ある向きはウィキなど調べたし)の美女度が凄まじい。

*5 パフラヴィーの 最初の妻 はエジプト人で, エジプトの王の娘だった Fawzia Fuad of Egypt (Fawzia bint Fuad; Arabic: الأميرة فوزية فؤاد‎; Persian: شاهدخت فوزیه فؤاد‎; November 5, 1921 – July 2, 2013), 写真はたぶんイランの女王だった時に撮られたもの。

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*6 パフラヴィーの 2番目の妻 は, イランの貴族とロシア生まれのドイツ人の妻との間に生まれた娘 Soraya Esfandiary-Bakhtiary (Persian: ثریا اسفندیاری بختیاری‎, June 22, 1932 – October 26, 2001), こちらはこんな顔立ちの人。

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なんかなぁ。エライさんは「顔と家柄」の合わせ技 で, 嫁さん選ぶのかねぇ。それだけじゃなかったかもしれないが(ネットでちら見した以上の細かい「惚れた腫れた」の事情なんか知らん), ま, 兎に角, エライさんはいい気なもんだね, お, そ, ら, く。

さてさて, それはともかく ♫

"Persian Love" 〜 Layla and Majnun 〜 "Layla" & "I Am Yours", "Thorn Tree in the Garden" ♫

イランと言えば ペルシャ, ペルシャ と言えば ペルシャの愛, Persian Love, ホルガー・シューカイ作曲のこの歌は何度聴いても素晴らしい ♫

Persian Love 〜 from "Movies", the second album by Holger Czukay (March 24, 1938 – September 5, 2017), released in 1979 ♫ 

https://ja.wikipedia.org/wiki/ホルガー・シューカイ

さてさて, ペルシャの愛 と言えば, アラブに元ネタはあるようだけど, 12世紀の ペルシャの詩人 Nizami Ganjavi による "Layla and Majnun"

そして, "Layla and Majnun" からインスピレーションを得つつ, Eric Clapton (Eric Patrick Clapton, born March 30, 1945) が自身の親友 George Harrison (February 25, 1943 – November 29, 2001) の当時の妻 Pattie Boyd (Patricia Anne Boyd, born March 17, 1944) に恋をしてしまった苦悩を歌った歌 "Layla"

Layla 〜 from Derek and the Dominos 1970 album "Layla and Other Assorted Love Songs", written by Eric Clapton and Rita Coolidge (piano coda, credited to her then-boyfriend, Dominos' drummer Jim Gordon), slide guitar by Duane Allman (November 20, 1946 – October 29, 1971) ♫

因みに同じアルバムの "I Am Yours" の曲の歌詞は, "Layla and Majnun" の 12世紀のペルシャの詩人 Nizami Ganjavi の詩からとったもの。

I Am Yours 〜 from Derek and the Dominos 1970 album "Layla and Other Assorted Love Songs", written by Eric Clapton, lyrics from the poem by the 12th century's Persian poet Nizami Ganjavi, and slide guitar by Duane Allman ♫

*この歌の歌詞の掲載に関しては, 本 note 最下部の "Road to Nowhere" と違い, JASRAC から筆者に対し「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨の指摘は為されていない。指摘漏れの可能性もあり, また筆者として記事編集の二度手間になることは避けたく, 大事をとって, 投稿当初よりここに掲載していたこの歌の歌詞を削除することにした。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものをご確認あれ(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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George と Pattie は後に離婚し, その後, Pattie と Eric が結婚することになるけれど(結婚のパーティには George Harrison も出席して二人の結婚を祝ったという, まぁ常人ではちょっと真似できない離れ技, というか離れ業?), しかしその Pattie と Eric もやがて別れてしまうのだった。

締め括りは, アルバムのタイトル曲と言える "Layla" の後を飾る, "Layla and Other Assorted Love Songs" 最後の収録曲 ... アルバム最後の曲を自身でなくバンドのキーボード・プレイヤー Bobby Whitlock の曲に譲った, というか, それで構わないという辺り, 何となく Clapton らしいのだが。

Thorn Tree in the Garden 〜 from Derek and the Dominos 1970 album "Layla and Other Assorted Love Songs", written by Bobby Whitlock (born March 18, 1948), and slide guitar by Duane Allman ♫

*この歌の歌詞の掲載に関しても, 本 note 最下部の "Road to Nowhere" と違い, JASRAC から筆者に対し「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨の指摘は為されていない。指摘漏れの可能性もあり, また筆者として記事編集の二度手間になることは避けたく, 大事をとって, 投稿当初よりここに掲載していたこの歌の歌詞を削除することにした。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものをご確認あれ(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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さてさて。

あの イラン人兄弟 は今, どうしているだろうか? 〜 Road to Nowhere ♫

以下は, 筆者が 1度目のトルコの旅の後, シリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエル, エジプトを旅し, トルコに戻った日, 2度目のトルコ, 2度目のイスタンブール滞在の初日, 1983年10月26日の旅日記の一部。

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そんな彼らと我々(って誰だ?)の為に, 本 note 最後の一曲を ♫

Road to Nowhere 〜 from "American Utopia", a 2020 David Byrne's concert film directed and produced by Spike Lee, from a screenplay by David Byrne

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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