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オリンピック, 永久ギリシャ開催ってどう?(ギリシャがやるって言ったらの話)

前説

なんつってあんな莫大な額の金がかかるイヴェント, ギリシャだって毎回やらされるなんて嫌だろうから, 世界中の国々がそれぞれの経済規模に応じて費用負担して, かつ開催に必要な人員も世界中から派遣する, そういう世界規模の協力が大前提だけど。パラリンピックについても同様に考えていいと思う(別個に考えるような考え方が議論の末生まれるのであれば文字通り別だけど, 一緒でいいのでは)(あと冬季オリンピック, あれは流石にアテネでは無理があるなぁ, というわけでここで言ってるのは夏季大会の話!)。

まぁ半分冗談, 半分本気です。もっとも国際機関のエライさんでも何でもない, いわゆる一つの「極東」の島国の一市民が呟いてるだけの話, 噺, ハナシ。そもそも今日のこの note, あんなタイトル付けて書き始めながら, 書き終わってみたらそのテーマに沿ったことなど直接的には欠片ぐらいしか書いてなかった。と言っておいてタイトル変えないで投稿してしまう, タイトルに合わせたタイトル上の写真の方は気に入ったし(笑)。

オリンピックのギリシャ永久開催って(国連総会だってアメリカ合州国ばかりでやってるし, 他の「国際的」な機関の「活動」もスイスだったりオランダだったり決まった場所でいつも会議やら何やらやってるわけで, 「国際」平和とスポーツの祭典を決まった場所でやるのだってそう可笑しなことじゃない), それ結構いいアイディアじゃんと思いついたのは昨日今日

あ, これはヴィットリオ・デ・シーカ監督, マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレン主演の 1963年イタリア映画 "Ieri, Oggi, Domani", 「昨日, 今日, 明日」でありました(笑, うるさいこと書くと邦題表記は「昨日・今日・明日」)。

もとい, 昨日今日じゃなくて, もちろん明日でもなくて(笑), 前世紀, 20世紀のことだった('90年代に入ってたと思うけど)。

以前は結構いいアイディアじゃないかなと思ってたけど, まぁ一方で確かに世界のいろんな都市が回り番の如く開催を受け持つっていう「近代オリンピック」始まって以来のこれまでのやり方も, 世界の様々な国や都市の様子とか文化とかが世界に知られる機会になって, わるいアイディアじゃないよなとは思う。でも「近代オリンピック」も既にあまりの巨大化・商業化が取り沙汰されるようになって久しく, よほどの財力がある都市(やその都市が属する国)でないと開催できないのは実態だし, 近年は開催地候補として手を挙げる都市もだいぶ減ってきたとか。それに, オリンピック「貴族」と言われるような IOC(国際オリンピック委員会)はじめ大会関係者の腐敗が取り沙汰されるようになってからもかなりの年月が経っている。オリンピックって今後どうすべきか, あらためて根本的に議論した方がいいような気がする。その議論の主体って普通に考えれば IOC なんだろうけど, あれもなぁ, 単に名前に共通項があるというだけでヨハン・ゼバスティアン・バッハが気の毒になってくるようなトーマス・バッハの言動見てると, それももう限界かなぁと。 

古代オリンピックは古代ギリシャの都市オリンピアでの開催, 近代オリンピックだってその発祥の地は現代のギリシャの首都アテネだったわけで! 

最初に書いておくとアカデミック系とかでは「ギリシア」と「ギリシャ」の表記使い分けがあるようだけど, 本 note では全部「ギリシャ」で通します。

古代オリンピックが 4年ごと古代ギリシャの都市オリンピアで行なわれていたのは紀元前8世紀頃から紀元後4世紀頃にかけて。けっこう長いな。なんと 1,200年間? .. 近代オリンピックの第1回が文字通り近代(19世紀の末, ギリシャはギリシャ王国の時期)のギリシャの首都アテネで開催されたのは 1896年。近代オリンピックの方は始まってまだ 125年しか経ってない。それにしちゃ既に随分と腐敗してるな(!)。もちろん選手じゃなくて開催主体や開催に絡む取り巻きとか利害関係者の話(古代だって無闇矢鱈と「綺麗」だったわけではないけれど)。

と大仰に書き始めておきながら, 今日ここでソクラテスやプラトンやアリストテレスのように深〜く考えようとしているのでもなく, 今たまたまこの日本の東京でオリンピックの競技会やセレモニーじみたことが行なわれていて(自分自身はこのコロナ禍のもと, 世界大のパンデミックが続く中で世界中から人を「集めて返す」巨大なイヴェントをやるなんて当然のように反対だけど!), かつここんとこ, この note で38年前のこの時期, つまり 1983年の7月から8月にかけてその年の4月からの旅の途上で 1ヶ月間ほどギリシャにいたことについて連載しているから(脱線の本 note 次々章), それでふと思い出して, 今日はこんなことを "note" してみようと思いついたまで。

併せて, 17年前, 2004年9月に, その前月に近代オリンピック XXVIII 回大会(公式にあの数字を使ってるようだけど, あれってローマ数字であってギリシャ数字じゃないよね, なぜあの数字を使ってるのかちょっと引っ掛かるんだけど, 何処か調べりゃそんなこと書いてあるんだろうね, 今日は調べません!)が ギリシャの首都アテネで開催されていたのに際し, 自分のホームページ上の「日記」にオリンピックについてごちゃごちゃ書いていたことを最近 別件テーマの当時の日記を探してる時に見つけ, それをただ引用, 転載してみようかなと。

ところがその日記, よく見たら, そこではオリンピックのギリシャ永久開催については書いてなかったのだった。だから, ここから先はもう殆ど, 今日の note タイトルに「直接的には」結びつかないような気がする。まぁ関係ないことはないんだけど, 当然ながら。

ではでは, 後はざくっと。次章では, 自分のその時の殴り書き日記をコピペ。

大体TVも新聞もうるさいよ, 金メダルが何個だ, メダル総数が何個だ, メダル数の国別ランキングがどうしたこうしたって。うるさくてかなわねえ(春になると大学合格者数ランキングを掲載し出す週刊誌の一群みたいに愚か者だね。うるさくてかなわねえや、ったく)。

今回の東京オリンピック(前説でも書いたからくどいけど, 自分自身はこのコロナ禍のもと世界大のパンデミックが続く中で世界中から人を「集めて返す」巨大なイヴェントをやるなんて当然のように反対!)では, それほどのメダル「の数」騒ぎはしてないのかな。でもまぁ, やっぱ時々やってるね, 国別だとどうだとか, 何位だとか。

以下, 昔々, ジュラ紀の昔の自分のホームページ上の日記(2004年9月4日付, *4)からの引用, 転載。あの年もオリンピックの年, あの時の第28回夏季オリンピックの開催都市はギリシャのアテネだった(2004年8月13日から8月29日まで, 因みに同じ年にアテネで行なわれた第12回夏季パラリンピックは同年9月17日から9月28日まで)。

先月はアテネ・オリンピック近代オリンピック発祥の地アテネに、オリンピックの聖火が還った記念すべき月だった。
アテネはね、むかしむかしの学生時代、合計3週間ぐらいいた。途中1週間ほどサントリーニ島に行ってたからね。あのときも8月頃だったんじゃないかな(*1)。アクロポリスの丘のパルテノン神殿に何回か行ったよ。そこで宇宙まで透き通っていきそうな透明な青空の下、何が古代の哲学者の思考を深めたのだろうか、なんて僕は感慨に耽っていたんだな。ほんとかね(笑)。プラトン、ソクラテス、アリストテレス(*2)・・・。遠いむかし、たしか野坂昭如が「ソ、ソ、ソクラテスか、プラトンか・・・みーんな悩んで大きくなった」なんて歌を何かのTVコマーシャルで歌ってたような気がする(*3)。

*1 期間は日記ではうろ覚えのまま書いていて, ちょっと間違い含み。実際には7月から8月にかけてで, 細かいこと書くと, アテネに合計25日間とサントリーニ島に5日間, そういうわけでギリシャにはほぼ 1ヶ月間ほどいた。次章に旅 note リンク。

*2 「プラトン、ソクラテス、アリストテレス」って順番が変(笑)。プラトンはソクラテスの弟子, そしてプラトンの弟子がアリストテレス。だから「ソクラテス、プラトン、アリストテレス」って順で書くべきだった。

*3 「ソ・ソ・ソクラテス」 by 野坂昭如 ♫

もういっちょ ♫ ... 同じだけど, でもちょっと長いヴァージョン(笑)

以上, 先月16日に note 投稿した「ギリシャ, アテネ part β' 〜 1983年7月15-16日(写真14枚)」の第6章「ソクラテスも問答を交わしたアテナイのアゴラ 〜 ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか ♫ (野坂昭如)」にも載せていたヴィデオ。その章では他に公の場での野坂昭如と盟友・大島渚とのいいトシした殴り合いのマジの喧嘩, それに全く青褪めることなく笑顔で「仲裁」に入った大島の妻, 小山明子についてのヴィデオ等も。オリンピックとは全然関係ないな(笑)。

オリンピックと関係なくなっちまったなぁ。ま、オリンピックは人間の祭典祝典として、国旗国歌持ち込まないで五輪の歌とか(あったっけ?)五輪旗とかでやるのがいいねぇ。大体TVも新聞もうるさいよ、金メダルが何個だ、メダル総数が何個だ、メダル数の国別ランキングがどうしたこうしたって。うるさくてかなわねえ。春になると大学合格者数ランキングを掲載し出す週刊誌の一群みたいに愚か者だね。うるさくてかなわねえや、ったく。

というわけで, あとは 17年前のホームページ上の殴り書き日記を転載。

2004年 9月 4日(土)   オリンピック、国旗、国歌
 先月はアテネ・オリンピック近代オリンピック発祥の地アテネに、オリンピックの聖火が還った記念すべき月だった。開催期間中、ちょこっと書こうと思ったこともあったが、いつもの嗚呼疲れる手が痺れる作業シゴトだ上腕が張るほとんどそんなことばかり書いていたな。
 今日も手が痺れてるし(笑)、先月知人に送ったメールにいささか乱暴に書いた五輪話をここに引っ張っておこうと思う。
 これは8月23日の記。
・・・レスリング浜口負けたのは残念だったけど、でもほんとマラソンは凄かったですね。野口えらい!
 オリンピックになるといろいろ左系のメディアが五輪の悪口言い出しますが、別に僕は批判あんまりしませんね。そりゃいろいろ問題ないことはないけど、人間、こういうのは必要なんですよ。人類があみだした、世界中で盛り上がる儀式なんです。盛り上がれない貧しい国だってあるだろっという人もいないことはないんですが(けっこういる)、そういうことばっかり言ってると世界中ものすごくつまらん世界になってしまう。五輪なんて結婚式や葬式みたいなもんで、大方の元気な世界が(パレスチナやイラクみたいな元気あると言えない国だって参加しますが)共にする冠婚葬祭みたいなもんです。冠婚葬祭はやっぱり関係者は盛り上がります。
 僕は君が代は嫌いなんで、韓国の愛国歌みたいに盛り上がる歌に変えたいですが。来年の息子の卒業式と入学式、僕らはぜったいに起立しません。息子には着席を強制したりしませんが(笑)。
 次は8月24日の記。
・・・アメリカがもし(国旗変更まで)押し付けて日本国旗が変わっていれば、改憲の初期の動きのように、押し付け国旗は反対と保守派もしくは右翼が主張して国論、世論を二分し続けたでしょうね。結局ジンミンがやれないのならダメです。だから僕はある意味、日本の民度にあった憲法を持って愚直かつ泥臭く生きて、自分の手でだんだん変えていくという「国の生き方」もあったのではとも想像してしまいます。「たら、れば」は言ってもシカタナイですが。
 日本が戦前をきちんと反省し、かつ忘却しないでいられるなら、それを前提としつつ「日の丸」を背負い続けるという「生き方」すらあったかもしれません。そんなこと日本人じゃ無理かなぁ(笑)。
 ・・・日本が根本で負を負っているのは確かですが、あのとき(サッカー、アジア杯の中国開催のとき)の中国もいただけません。江沢民以降の教育が影響してるのも確かではあるだろうし、それまで反日を押さえつけてきた中国政府の政策の反動もあるかもしれません。日本人サポーターがペットボトルを投げつけられたり、サポーターや選手がスタジアムから出られないほど外の騒ぎが続いたり、プレイと関係ないところでブーイングが続いたり、日本の過去と(責任を取らない、首相が靖国に参拝し続けたりの)現在に主因があるとしても、ああいう反応をスポーツの場でしてしまうのなら、少なくとも現代の世界では、国際大会など招致しないほうがいいと思います。
 もちろん日本を肯定などしません。日本に問題があるのは確かですが、日本はやはり首相や閣僚の靖国参拝など止める一方で、ああいう公使の公用車が被害を浴びるようなことにはもっときちんと抗議するのが「普通の国」(うわっ、小沢の言い方してしまった・・・)だと思います。もっとも前者もできない日本は後者もできず、どっちつかずでどうしようもないですね。
 フランス国歌は暴力革命の歌だと悪口を垂れる人もいますが、あれはあれで現代につながる自国のジンミンの歴史を謳い上げています。アメリカ国歌も、現実はともかく、PEOPLE を謳い上げています。でしたっけ(笑)。
 韓国の愛国歌は、実は歌詞は知りませんが、なんだか感動的旋律です。ジンミンの力で歴史を切り開いてきたその矜持を感じさせるのですが、まぁ僕の思い入れのせいかもしれません。
 君が代は嫌ですね。なんとか変えられませんかね。上を向いて歩こう、とかでもいいんですが(笑)。あんまりジンミン感じないか。何かバックボーンになる歴史を作ってないとダメですね。今の中年以上の世代、もうちょっとがんばれるでしょうか・・・。
 天皇も、なんつーか、ここんとこのマシャコさん騒ぎみててもアホらしくて。でも神経科の病持ちとしては同病相憐れむってことにしようかな。
 マシャコさん、皇室に嫁がなきゃ今頃さっそうと外交官やってたでしょうね。まぁ良い外交官だったかは分かりません。凄い嫌味な役人だったかもしれないし・・・。そういえば、去年だったか売れた、天木直人の「さらば外務省」って本読みましたか? あの人は凄いですね。役人なんでもかんでも否定したりはしません。ああいう人もいるんです。と言っても、結局だからこそ外務省やめたのか(笑)。
 ここから付け足し。
 アテネはね、むかしむかしの学生時代、合計3週間ぐらいいた。途中1週間ほどサントリーニ島に行ってたからね。あのときも8月頃だったんじゃないかな(*1)。アクロポリスの丘のパルテノン神殿に何回か行ったよ。そこで宇宙まで透き通っていきそうな透明な青空の下、何が古代の哲学者の思考を深めたのだろうか、なんて僕は感慨に耽っていたんだな。ほんとかね(笑)。プラトン、ソクラテス、アリストテレス(*2)・・・。遠いむかし、たしか野坂昭如が「ソ、ソ、ソクラテスか、プラトンか・・・みーんな悩んで大きくなった」なんて歌を何かのTVコマーシャルで歌ってたような気がする(*3)。
 哲学とくれば一気に17世紀フランスのデカルトまですっ飛んでしまいましょう。スコラ哲学を脱したとか何とか、「我想う、ゆえに我有り」だね。おいらのこのサイトの日記索引『雑感』ページの頭に載せてるよ。演繹法とか考えたりするわけじゃないけどさ、ぜんぜん。おいらはむかしからこの言葉が好きなわけ。デカルトの哲学ということでなく、このフレーズが好きなんですね。
 演繹しますか、帰納しますか、批判しますか、構造しますか、ポストモダンしますか、なーんて言ってる間に他のこと考えますか。何を?
 オリンピックと関係なくなっちまったなぁ。ま、オリンピックは人間の祭典祝典として、国旗国歌持ち込まないで五輪の歌とか(あったっけ?)五輪旗とかでやるのがいいねぇ。大体TVも新聞もうるさいよ、金メダルが何個だ、メダル総数が何個だ、メダル数の国別ランキングがどうしたこうしたって。うるさくてかなわねえ。春になると大学合格者数ランキングを掲載し出す週刊誌の一群みたいに愚か者だね。うるさくてかなわねえや、ったく。

*1 期間は日記ではうろ覚えのまま書いていて, ちょっと間違い含み。実際には7月から8月にかけてで, 細かいこと書くと, アテネに合計25日間とサントリーニ島に5日間, そういうわけでギリシャにはほぼ 1ヶ月間ほどいた。次章に旅 note リンク。

*2 「プラトン、ソクラテス、アリストテレス」って順番が変(笑)。プラトンはソクラテスの弟子, そしてプラトンの弟子がアリストテレス。だから「ソクラテス、プラトン、アリストテレス」って順で書くべきだった。

*3 「ソ・ソ・ソクラテス」 by 野坂昭如 ♫ .. 上掲ヴィデオ(2つ)ご覧あれ。

*4 2001年8月に本を買ってきて HTML独学, その原始的 HTML基礎知識だけで立ち上げたウェブサイトで, 以降 仕様を一切変えてないので, 今現在パソコンからならどのブラウザでも閲覧可能だと思われるものの, スマホからだとOS次第で文字化けしてしまう(リンク先は左のメニュー・フレームをカットした「日記」への直リンク)。

さてさて。

1983年のギリシャ旅

ギリシャ notes 前説:イタリアからギリシャに渡った, 1983年7月10日 〜 同年4月26日の日本出国以降を振り返り

ギリシャ, アテネ part α' 〜 1983年7月11-14日(写真16枚)

ギリシャ, アテネ part β' 〜 1983年7月15-16日(写真14枚)

ギリシャ, アテネ part γ' 〜 エロースが鎮座する国で「愛のコリーダ」観たり, アクロポリス・リカヴィトス等ぶらついたりの, 1983年7月下旬

地中海の舞踏 〜 ギリシャ・サントリーニ島, 1983年7月28日から 8月1日(写真8枚)

ひと休み note:Summer '83 (イタリア, ギリシャ) 〜 Summer '68 (ピンク・フロイド)

ギリシャ, アテネ part δ' 〜 1983年8月2-3日(写真6枚), なぜか三木清 「人生論ノート」

ギリシャ旅 note はもう一つ書くつもりで(ギリシャ, アテネ part ε'), それはたぶん 2021年8月8日か9日辺りに投稿する。 

1983年のローマ旅, イタリア旅

え? ギリシャだけじゃなくてイタリア, ローマの話もかよ(一人芝居開始)。それはですね, 拙者, 格闘技はガキの頃から好きで, オリンピックにも幾つか格闘技系の競技あるよね, 例えばあれ, 

古代ギリシャの格闘技パンクラチオンを源流とするレスリング, そしてレスリングと言えばフリースタイルとグレコローマンスタイル!

もとい, そもそもグレコローマン, つまり古代ギリシャと古代ローマの世界が好きなのだ。それはそうだけど, 直接的な切っ掛けに関しては, 最後に今日の note に何となく似合いそうな音楽つけたくて探したら, それがスペインにある古代ローマ時代の遺跡でのライヴ演奏だった, それでついローマ, イタリアの方も思い出したってわけで(それだけの理由!)。

ローマ・イタリア part I 〜 1983年7月(写真13枚)

ローマ・イタリア part II, ついでにヴァチカン市国 〜 写真11枚

古代ローマの都市ポンペイの遺跡も行きましたとさ, 1983年7月8日(写真11枚) 〜 "Echoes" Pink Floyd LIVE at ポンペイ, 1971年10月(歌詞和訳)

ポンペイはナポリから行ったのだ, もっと長居できればよかったナポリ, イタリア 〜 1983年7月8-9日(写真 5枚)

おまけ, と言うのもなんだけど, ローマの前に行ったヴェネツィアとフィレンツェ, 

ヴェネツィア, イタリア 〜 1983年7月1日(写真7枚)

フィレンツェ, イタリア 〜 1983年7月3日(写真6枚)

番外編:フィレンツェ, ヴァチカンで想起するガリレオ・ガリレイ, ヨハネ・パウロ2世 〜 シネイド・オコナー, 結局「宗教」かよ(嘆息)

最後は音楽!

なんか似合いの音楽を, これでどうだ 〜 ピンク・フロイド「原子心母」(カヴァー含む)♫

何となくこういうイメージに(ギリシャ, オリンピアのヘラ神殿「聖火」採火式)

画像1

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似合いそうな音楽のパフォーマンスを探してたら, これ見つけた, だけどこれはギリシャや古代ギリシャ繋がりではなくて, スペインにある古代ローマ時代の遺跡での演奏, ピンク・フロイド「原子心母」のスペインのバンドによるカヴァー(演奏はオリジナルに及ばないにしても, 結構イカしててて, かつヴォーカルやコーラス陣のヴィジュアルが上の写真のイメージに何となくマッチしそうな雰囲気!)。

上のは原曲より短いし, 正直やっぱ 原曲がよいので, オリジナル載せねば ♫

原子心母」, Atom Heart Mother 〜 the title track (suite) on Pink Floyd's fifth studio album recorded March – August 1970 (Abbey Road Studios, London), released on October 2, 1970 in the UK and on October 10, 1970 in the USA, and on October 5, 1970 in Japan 

(a) Father's Shout
(b) Breast Milky
(c) Mother Fore
(d) Funky Dung
(e) Mind Your Throats Please
(f) Remergence

最初に載せたカヴァー演奏の方で思い出すのは, こちらはカヴァーでなくてピンク・フロイドが古代ローマの都市ポンペイ(現在のイタリア)の遺跡でやったパフォーマンス, ただしここでは「原子心母」は演奏していない。

オリンピックは何たらかんたらと銘打ちながら, どんどんオリンピック噺から遠ざかっていく今日の note であった ♫

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