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ノイシュヴァンシュタイン城(ドイツ, 当時は西ドイツ) 〜 1983年6月20日(写真8枚)

今日は2021年6月19日, 38周年は「明日」だけど, まぁいいや。昼間やる「前夜祭」。

1983年4月26日の横浜港でスタートしたユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅, ここまでを振り返る

今日は簡単に。昨日の "ライン下り「ローレライ」note", 上と同じ見出しの第1章, その 1) 2) 3) 4), それらに昨日の note の「1983年6月18日ライン下り」を加えれば, 「ここまでを振り返る」ことに。

1983年6月19日に滞在したのは ミュンヘン

そう, ミュンヘンだけど, 写真は 1枚も撮ってない。ハンブルクもそうだったけど,

そういや, フランクフルトも, 滞在しながら写真は撮ってない。6月17日にハイデルベルク

を発って, 17日, 18日とフランクフルトに2泊しているけれど, 前章でリンク貼った "ライン下り「ローレライ」note" にある通りで, フランクフルトから「出てまた戻る」してマインツ 〜 コブレンツのライン下りをした際は写真を4枚(だけ, 笑)撮っているものの, フランクフルトでは何も撮らなかった。

今のスマホ時代ならこれは有り得ないね。当時の自分はソ連, ヨーロッパ, 中東, アジアを長旅するつもりで, 金の次に節約を心掛けざるを得なかったのがフィルム。まぁこれだって今思えば, いくらいわゆる「貧乏旅行者」だったにしてもフィルム代はめっちゃくちゃ高かったわけではないのだから(よく憶えてないが多分!), もう少し撮っておいても良かったかなと。

しかし旅日記の方は, これは欠かさず, 毎日毎日書いている。金かかるわけじゃないしなぁ(笑)。

1983年6月19日付の旅日記によれば, フランクフルトのユースホステルを出て駅に向かう途中, 川沿いのベンチに少し座っていたら 40歳ぐらいの男に声をかけられ, 話したら, 彼はマレーシア人だがシンガポール航空に勤めていて住まいもシンガポールだという。インターコンチネンタルとか「一流」ホテルに滞在中のようだったが, 滞在費は会社持ちなんだ, と。まぁ仕事で来ていたんだろうし、当然と言えば当然ですね。彼はその時ジョギング中で、アジア系(もろアジア系!「アジア系」というのは思い切り大雑把な言い方で, 「東アジア系」の方がいいかな)の顔の筆者を目にしてふと話しかけてきたみたいだったけれど, こっちは日本人バックパッカー「貧乏旅行者」ユースホステル住まい, あちらはインターコンチと, その日その場所での「身分」(まぁ前後もそうか, 笑)の違いはあったものの, 話していて温かい気分になる, フレンドリーないい感じの人だった(と日記に書いてある!)。

後年, 仕事の関係で何十ヵ国の人たちと接するようになったけれど, マレーシア人は知り合った人の数トップ 5 の国に入るかもしれない。やはり(とりわけ中国系)マレーシア人ながら住まいはシンガポールという人はわりといたように思う。フランクフルトで会話したそのマレーシア人は, 筆者がこれまで 60年の人生で話したマレーシア人の記念すべき一人目 .. 今現在の彼は 70代後半, 80歳近いぐらいかな。元気でおられますよう!

その後, フランクフルトの駅で電車に乗って, シュツットガルトに向かった。その駅で, デンマーク・コペンハーゲンで知り合ったドイツ人のところに電話している。

この note のコペン「人魚姫の像」の写真3枚の後に出てくるドイツ人。

電話したら, フランス語勉強中の妹が出て, 彼女の応答は時折り「ウィ」。日記には「何回かウィと答えた」なんて書いてあって, Oui だけじゃなくて Oui,oui もあったかな(笑)。残念ながら(また旅にでも出ていたのか)兄貴の方(自分とは同じ歳くらいだったと記憶)は不在で, 日記によれば「next weekend にもどってくる」とのことだった。しかしお互いが母語でない言葉で話していて, 且つその日, 1983年6月19日は日曜日。この "next weekend" は.. 6月25日の土曜辺りのことだったのかな, まぁ 7月2日の土曜ってことはないよな, 細かい話だけど(笑)。たぶん前者だったんだろうけど, 日記を見ていくと 6月25日だともう自分はもうドイツにいなくて当時のユーゴスラヴィアの首都(今のセルビアの首都)ベオグラードに滞在中。7月2日だとイタリア, ヴェネツィアからフィレンツェに移動してる。

というわけで, そのドイツ人の彼との再会は成らなかった。名前はハルムルト。ハルムルトよ, 元気にしてると嬉しいぜ!

ところでハルムルトの妹さんとの電話の件に話を戻すと, その日の旅日記からそのまま引用すると, 「オレは事情を話し I'll write a letter to him と言って ビダーゼン で電話を切った」。

ビダーゼン, アウフビダーゼン, ドイツ語発音により近づけると アウフヴィーダーゼーエン かな? Auf Wiedersehen!

ドイツ語の「さようなら」は Auf Wiedersehen, しかし Wieder は「再び」, sehen は「見る」, (後年のテレビ電話, 今時のビデオ電話ならともかく)電話では相手は見えない, 相手を「見る」ことはしていないというわけで, 理屈っぽいドイツ人は電話ではこの「再見」(と漢字で書いたら中国語かよ)の意のドイツ語は絶対使わないとか。Auf Wiederhören, 「また聞きましょう」とか言うらしいね。あれって大丈夫だったのかな, 38年前のオレの, ハルムルトの妹との電話会談の終わり方(笑)。

それはともかく, Auf Wiedersehen die Rose で始まる懐かしの PANTA & HAL の曲「フローライン」をここに載せようかなと一瞬のうちに思ったんだけど, 生憎 YouTube 上にはなかった。YouTube 外で一つ音源を見つけたけれどちょっとテンポが遅めのヴァージョンで, 録音音質もイマイチな気がしてやめた。そもそもローザ・ルクセンブルクの人生の終え方を想えば, ここで取り上げるのは不相応, でもとにかく Auf Wiedersehen die Rose のフレーズが単に懐かしい気がして ♫

まぁしかし, 何か歌でもと思ったら止まらない, Auf Wiedersehen は「さようなら」, Verse 4 が "Hello, hello, hello, hello. Good-bye, good-bye, good-bye, good-bye. That’s all there is" の歌を, 次の章で載せてしまうことにする ♫

その前に, この章に Good-bye, というわけで, 最後の一文, その後, つまりハルムルトの妹との電話を切った後, シュツットガルト駅で再び電車に乗り, ミュンヘンへ, この日の旅日記の最後は「シュツットガルト ー ミュンヘン。YH へ(あまりよくない。大きいけど)」, これでおしまい。

Leaves That Are Green 〜 Simon & Garfunkel ♫

なぜこの歌を取り上げるかというと, それは前章の最後の方のひょんな切っ掛けから。しかしあのとき自分は 22歳, あのときに戻れば「今は22歳」, "I was twenty-one years when I wrote this song. I’m twenty-two now but I won’t be for long. Time hurries on.", 「この歌を書いたとき, 僕は21歳だった。今は22歳, でもそれも長くないだろう。時は足早に過ぎていく」と歌われるこの曲, Leaves That Are Green ♫ そうだ, けっこうマッチしている!

Leaves That Are Green 〜 from Simon & Garfunkel's second album "Sounds of Silence", released in January 1966

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

ノイシュヴァンシュタイン城 〜 1983年6月20日(写真8枚)

当日の旅日記 殴り書きの冒頭はこれ。つまり, その日の行き先を完全に決めていたわけではなくて, ローカル線の列車を見ているうちにそれに乗りたくなって最終「決定」した行き先がフュッセン。

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日記の中にある「二俣線」というのは自分の生まれ故郷, その田舎を走るローカル線。「二俣線」というのは国鉄時代の「昔の名前」で, 

歌うは 梶芽衣子 でありました ♫

それはともかく,「二俣線」は, 「日本国」崩壊, じゃなかった「国鉄」崩壊の前にあった路線の名前で, 

あ, だからあの頃は「崩壊の前日」だったのか!

歌うは カルメン・マキ, 彼女の「昔の名前」は Maki Annette Lovelace ♫

それはともかく, 

国鉄時代の「二俣線」は, 今は第三セクターの「天竜浜名湖鉄道」, 略称「天浜線」。昨年来のコロナ禍, 全く田舎に帰れてないぞ!

さてさて, 話を 戻して

話を Get Back ♫

1983年6月20日の旅日記に話を戻すと, 日記の中の「田舎街」は, 綴りが微妙に違って謎なんだが Buchloe のことだろうか。自分で書いたことなのに, なにぶん 38年前のこと, どうもはっきりしない。ともかく日記のその続きによれば, その田舎街からフュッセンまで, たまたま乗り合わせたイギリス人旅行者と一緒だったようだ。

そのイギリス人はフュッセンの駅で降りると駅からそう遠くないユースホステルへ行き, 自分は ノイシュヴァンシュタイン城 近くのペンションにした, (日記に書いてあるから分かるんだけど勿論, 笑)朝食付きで 25ドイツ・マルク。当時の為替で日本円にして幾らぐらいだったのかな, 思い切って「少しだけ」奮発したのかもしれない, バックパッカー「貧乏旅行者」とはいえユースばかりじゃつまらない, たまにはいいじゃんということで!

え〜い面倒くさい, また旅日記 殴り書きメモに頼ろう, 殴り書きというより 書き, 寝っ転がって書いていたのかもの筆跡, そもそもこの書きメモ, 「ノイバーシュタイン城」って変(笑)。

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ライトアップ(light ip)の意の形容として書いた「ナイター」ってのは日本語, 要するに和製英語で, 英語では ♫

さてさて, 音楽夜話ってか音楽「脱線」ばかりしてるけれど, 

ノイシュヴァンシュタイン城

の付近ではいちおう 8枚写真を撮ったんだけど, その美しさは表現できていない。ウィキに「マリエン橋から見たノイシュヴァンシュタイン城。この方角からの眺めがもっとも美しいとされる」というのがあって, 以下のこれにも,

「ペラート峡谷に架かるマリエン橋から眺めるノイシュバンシュタイン城の美しさは格別です。お城の全景がきれいに見えるベストビューポイントとして知られており、多くの観光客がお城を背景に写真を撮る人気フォトスポットになっています」と書いてある。

マリエン橋の写真なら撮ってるんだけど(笑, 以下の7枚目)。ノイシュバンシュタイン城については何枚かの写真に写っているものの, ちゃんとアップで撮った写真に関しては辛うじて1枚(以下の6枚目)。

さて, この辺りはいまバイエルン州なわけだけど, ノイシュヴァンシュタイン城は, バイエルン王ルートヴィヒ2世の命で 19世紀に建築されたもの。上掲ウィキの下に貼ったリンクのページにはこんなふうに書いてある。

美しく壮大なノイシュバンシュタイン城は、東京ディズニーランドやディズニーランド・パリなどにあるシンデレラ城は、ノイシュバンシュタイン城がモデルのひとつになったといわれています。まるでおとぎ話の世界に登場するかのようなノイシュバンシュタイン城ですが、実は、本当に夢の世界を実現しようと建てられたお城なのです。 
ノイシュバンシュタイン城を建てたルートヴィヒ2世は、幼い頃から絵画や音楽を好んでいました。
18歳の若さでバイエルン王国の国王となったルートヴィヒ2世は、争いや政治の世界から次第に現実逃避するようになり、自分の作り出したファンタジーの世界に生きるようになったそうです。
昼夜逆転の生活を送り、夜中に伝説の人物の格好をしてソリにのったり、ルートヴィヒ2世は、どんどんファンタジーの世界にのめり込んでいきました。そんな彼がファンタジーの世界の実現と現実逃避のためにつくったのが、ノイシュバンシュタイン城なのです。

とほほ, マジかよ。一方, ウィキではこんなふうに書かれてる。

ルートヴィヒ2世は中世騎士道への憧れを強く抱いた人物で、ワーグナーを庇護し、彼の創作する楽劇の世界に酔いしれた、いわゆる“ワグネリアン”であった。膨大な額の援助を彼に施し、彼の楽劇を「私たちの作品」と呼んだが、狷介な性格のワーグナーはたとえ有力なパトロンであり国王であったとしても、作品に容喙することを許さなかった。
一方、ヴァルトブルク城やヴェルサイユ宮殿を目にしたルートヴィヒ2世は、「私自身の作品」として自分の中世への憧れを具現化するロマンティックな城を造ろうと決意する。このため城全体のグランドデザインを行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクであった。

太字にした辺り, 次章以降で「音楽化」する(笑)♫

ではでは, ようやくの写真, セピア色。

1)

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2)

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3)

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4)

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5)

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6)

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7) 以下の写真, 真ん中あたり, 遠目に見えるのが, 上述した, ウィキが「マリエン橋から ... ノイシュヴァンシュタイン城。この方角からの眺めがもっとも美しいとされる」, もう一つのリンク先の説明でも「ペラート峡谷に架かるマリエン橋から眺めるノイシュバンシュタイン城の美しさは格別です」と言っている, そのマリエン橋。

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8)

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さてさて。

Fantasy 〜 Earth Wind and Fire ♫

前章に載せた通りで, 

ノイシュバンシュタイン城を建てたルートヴィヒ2世は、幼い頃から絵画や音楽を好んでいました。
18歳の若さでバイエルン王国の国王となったルートヴィヒ2世は、争いや政治の世界から次第に現実逃避するようになり、自分の作り出したファンタジーの世界に生きるようになったそうです。
昼夜逆転の生活を送り、夜中に伝説の人物の格好をしてソリにのったり、ルートヴィヒ2世は、どんどんファンタジーの世界にのめり込んでいきました。そんな彼がファンタジーの世界の実現と現実逃避のためにつくったのが、ノイシュバンシュタイン城なのです。

Fantasy 〜 from Earth, Wind & Fire's eighth album "All 'n All", released in November 1977 ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

ワルキューレ, ワルキューレの騎行(ワーグナー) ♫ / "The End" by The Doors ♫

前々章に載せた通りで, 

ルートヴィヒ2世は中世騎士道への憧れを強く抱いた人物で、ワーグナーを庇護し、彼の創作する楽劇の世界に酔いしれた、いわゆる“ワグネリアン”であった。膨大な額の援助を彼に施し、彼の楽劇を「私たちの作品」と呼んだが、狷介な性格のワーグナーはたとえ有力なパトロンであり国王であったとしても、作品に容喙することを許さなかった。

指揮者カラヤンはドイツ人と間違われる場合ありかもだけど(なことないかな), カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日生まれ, 1989年7月16日他界)はオーストリア人, オーストリア生まれで死没もオーストリアにて。ただ, 1955年から1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督。

ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner, 1813年5月22日生まれ, 1883年2月13日他界)はドイツ人の作曲家, 指揮者, 思想家。ウィキの形容を借りると「ロマン派歌劇の頂点」。

ワルキューレの騎行」は, コッポラ(Francis Ford Coppola, 1939年4月7日生まれ, イタリア系アメリカ人)の1979年の映画 "Apocalypse Now", 邦題は「地獄の黙示録」, あの映画で使われている(以下のミュージック・クリップは冒頭イメージだけ映画から, 映画のシーンは本章の後段にて)。

映画はアメリカ合州国での公開が 1979年8月15日, 日本では先行公開 1980年2月16日, 一般公開が 1980年3月15日, 封切り早々に札幌の映画館で観たから, 大学1年の年度の最後の方, 春休み中に観たんだと思う(でも下の note は主として 1981年以降, 何気にリンク)。

以下は映画のシーン, 現実もまぁこういう感じだったわけで, 現実の方は当然ながら酷い話だ。

これ載せると, あれも載せるしかないという気分になる, それはつまり, 同じく映画 "Apocalypse Now" に使われたあれ, あの曲。

THE END 〜 from The Doors' eponymous debut album, released in January 1967

さて,

The King Will Come, Warrior, Throw Down the Sword 〜 Wishbone Ash ♫

前章の終わりに THE END ♫ を載せてしまったのにナンだけど(ナンはインドの美味しいパン, あの歌ってインドの楽器シタール使ってるよね), 最後にもう1曲, いや 2曲, いや 3曲。

前々々章に載せた通りで, 

ルートヴィヒ2世は中世騎士道への憧れを強く抱いた人物で、ワーグナーを庇護し、彼の創作する楽劇の世界に酔いしれた、いわゆる“ワグネリアン”であった。膨大な額の援助を彼に施し、彼の楽劇を「私たちの作品」と呼んだが、狷介な性格のワーグナーはたとえ有力なパトロンであり国王であったとしても、作品に容喙することを許さなかった。
一方、ヴァルトブルク城やヴェルサイユ宮殿を目にしたルートヴィヒ2世は、「私自身の作品」として自分の中世への憧れを具現化するロマンティックな城を造ろうと決意する。このため城全体のグランドデザインを行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクであった。

というわけで, 今日の note の最後に聴くのは, ウィッシュボーン・アッシュの 3枚目のアルバム "Argus", その Side two 4曲の中から 3曲(トラック 1, 3, 4)。以下, 英語版ウィキ(medieval は「中世の」)。 

Although not intended as a concept album, the album is medieval-themed to a degree, particularly on the second side. The album features a blend of progressive rock, folk, and hard rock, and is considered a landmark album in the progression of twin-lead guitar harmonisation, later adopted by bands such as Thin Lizzy and Iron Maiden. 

The King Will Come 〜 from Wishbone Ash's third album "Argus", released in May 1972

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

Warrior 〜 from Wishbone Ash's third album "Argus", released in May 1972

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

Throw Down the Sword 〜 from Wishbone Ash's third album "Argus", released in May 1972

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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