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盆と正月が嫌い

盆と正月が嫌いだ。

一般には休みであり、喜ばしいことかもしれないのだが、私は小さい頃から憂鬱で嫌いだった。
盆と正月が近づくと
早く終わればいいのにと願っていた。

 
嬉しさや喜びを表す言葉として「盆と正月が一緒に来たように」なんて表現があると知った時は驚いた。
みんなは盆と正月が一緒にきてほしいのか。
あんな大変なものが同時に来るなんて冗談じゃない。
盆と正月が一緒に来たら、私にとっては最悪だ。
片方だけだって大変だというのに。

 
 
 
 
私は本家の次女として生まれた。

本家の娘として生まれた瞬間から
私の盆と正月の運命は決まっていた。

 
 
本家は、親戚が集まる場所である。
普段から祖父母の親戚や父親の兄弟がしょっちゅう来ていた。
朝から私に挨拶もしないでお酒を飲んだくれたり
食事時に愚痴を言いに来る人がいたり
そういった親戚を小さい頃からたくさん見てきた。

私は内向的な子どもだった。
愛嬌も愛想もなく、大人の後ろに隠れたり、姉の後ろを追いかけるような子どもだった。
そんな親戚を見れば見るほど
私はどんどん心を閉じていった。

 
本家に親戚が来ていたら、接待や接客をしなければいけない。
親戚はみんな本家…うちから巣立った人達だし
ご先祖様や親戚がいるからこそ 
今の生活や私がいるのだ。
だから何を言われても何をされても文句を言う権利は本家にはない。
私は本家の娘として挨拶をしたり、祖母や母の手伝いをしなければならない。

 
 
私の家は鍵がなかった。

私の家の近くや農家の家はそれが当たり前であり
家は常に開けっ放しであった。
今でこそ引っ越しをして、普通に家にいる時でも鍵をかけたが
昔は出掛ける時以外は鍵をかけないことが
私の集落では普通だった。
引っ越しをしたての頃は、鍵をかける習慣を身につけるまで大変だったほどだ。
違和感があった。

 
農家出身ではない人や学区外の人には、当時鍵をかけないことを大変驚かれたが
農家組はみんなで「鍵をかけないのが普通だよねぇ?」と言い合った。

 
 
家に鍵をかけないため
親戚は勝手に家に入ってきた。
チャイムなんか鳴らさない。
挨拶をしながらズカズカと入ってくる人もいるし
挨拶をしないで酔っぱらいの状態で
いきなり食卓に乱入する人もいた。
彼等にとっては実家なので、後から生まれた私は不利であった。
私は下の立場にいた。
耐えるしかないのである。

 
私は家族が大好きだった。

だけど
いついかなる時であろうと
時間を選ばずに挨拶もなくやってくる親戚が
私は大嫌いだった。
本家の娘に生まれたくなかった。

 
玄関どころか、本家はどの部屋も鍵はなかった。
プライバシーもあったものじゃない。
親戚全員が無礼というわけではなかったが
デリカシーのない親戚に限って近場に住んでいて
平日だろうが土日だろうが朝だろうが夜だろうがやってきた。
あまりの傍若無人さに親に文句を言っても

「本家の娘だろう。諦めなさい。」

と、父親から窘められる。

 
本家の娘
本家の娘
本家の娘。

 
逃れられない運命だ。
本家の娘という立場は呪いのように感じた。
小学校の時点で、私は親や祖父母に文句は言わなかった。
同じ立場の姉がいたのがありがたかった。
もちろん、姉も親戚は大嫌いだった。
自由をプライバシーを奪い
自宅なのに制限がかかるように仕向けられる
その瞬間その瞬間が
大嫌いだった。

 
 
 
盆と正月。
これは本家の大きな役割を果たすべき時だ。
親戚がたくさんたくさん来る日々だ。
 
私と姉は出掛けることを禁止されている。
本家の娘として、家の手伝いをするように命じられていた。

 
当時、私の庭はマックスで車20台は停まっただろう。
玄関は三畳分くらいあり、ちょっとした民宿より広い広い玄関だった。
お盆は、庭にどんどん車が停まり、広い玄関には靴がズラーッと並ぶ。

 
お盆中、茶の間に大人が集まり、客間①に子ども(従姉妹等)が集まり、それでも足りなければ客間②にも座席を作った。
茶の間と客間は廊下を挟んで向かい側にあり
客間①と客間②は襖で仕切られていた。
その三部屋は各八畳だったと思う。
客間は両サイドが廊下であり、小さい子達は廊下で遊んだりもした。
廊下の隅にはオモチャエリアがあり、リカちゃん等の人形は30体、ぬいぐるみも山積み、ボードゲーム等もやたらめったらあった。

 
 
親戚が入れ替わり立ち替わりやってきて  
茶の間と客間①と客間②は朝から夜までローテーションのごとく親戚が入れ替わる。
私や姉は料理やお酒を運んだり、洗い物を手伝う。
祖母と母はひたすらに料理を作る。
(のちに私も成長すると、料理や買い物や親戚を駅まで送迎する役割も加わる。)
お酒は瞬く間になくなり、運んでも運んでも催促され
料理を運んでも運んでもすぐに催促される。
お酒が入った親戚達はガハハハと声高らかに笑い
失言も増え
タバコの臭いに部屋が包まれた。
私はタバコが大嫌いだ。
だが、そんなことももちろん、言うわけにはいかない。

 
お盆はご先祖様がかえってきて休む日のはずだが
本家の人に休みはない。
皆は仏壇にちょっと手を合わせるだけで
お墓の手入れやお墓参りをする親戚はごく少数で
ただうちで飲んで食べて
好き勝手に振る舞うだけだ。

 
私は従姉妹と仲がよかった。
盆と正月は従姉妹と会えるのは楽しかった。
だが、その楽しさを上回る大変さがあったのは否めない。
遠方に住んでいた親戚が泊まることもあったし
お盆中連日来る親戚もいたのだから。

 
 
 
正月も同様の状態だったが
正月の方が親戚は集まらないし
来ても長居はしなかった。
泊まる人もいなかった。

だから盆と正月なら、盆の方が大嫌いだった。

 
 
 
親戚は来ても来なくてもどちらでもよい。
本家はただ、いついかなる時に親戚が来てもいいように朝からスタンバイするだけだ。

祖父母が要介護状態になる頃
祖父母の兄弟も体調不良だったり、亡くなったりで
段々と足は遠のいた。

従姉妹や従兄弟も学校や仕事やプライベートの予定が入り
来たり来なかったりだった。

 
祖父母の介護は本家の役目で
お盆中に親戚が集まると、自分達が海外旅行や遠方に国内旅行をした話で盛り上がっていた。

 
年々以前ほど親戚が集まらなくなっていくのは楽だったが
就職した私はお盆休みが三日しかない。
振り替えなしの週6勤務も多い。

祖父母の介護を考えると
私や両親は出掛けることに制限はかかっていた。

 
貴重なお盆休みは必ず手伝いで潰れる上
旅行自慢を聞かされる。
やっぱりお盆は嫌いだった。

 
 
昔、長期休み中、よく母親の実家に泊まりに行った。
遠方なので基本は泊まりだった。
父方の親戚は基本、本家である我が家に集まり、私達が親戚の家で接待を受けることはほとんどなかった。
だから、母親の実家に行くことは特別だった。
自分達がゲストになり、色々料理が出てきて、優しくされるのはここだけだった。
母方の従姉妹と仲はよかったが
きっと母方の従姉妹も私と同じ立場なのだろうと想像がついた。
料理を運んだり、手伝う従姉妹の姿は
本家の家で手伝う私と同じだった。
 
  
きっと本家に生まれた人は私だけじゃなくて
みんな同じような思いをしているんだろうな。


そう思えたのはありがたかった。
 
 
 
 
 
やがて私は社会人になった。
 
  
同僚A「お盆は出勤の方がいいですよね。」 

 
同僚B「ともかさんちは何作ります?」

 
 
私の事業部は女性が三人で、AさんとBさんが農家の本家の嫁だった。
そして私は本家の娘だった。
社会人になった私はAさんやBさんと、お盆と正月の憂鬱を分かち合った。

私の職場は8月13日まで仕事だった。
7割以上が主婦であり、有給で休む人がたくさんいた。
正職員は休めるわけがない。
私のような独身は尚更休めるわけはない。
他の施設は13日から休みに入る為
他施設と併用利用をしている最重度の人が
13日だけ特別に利用ということが恒例だった。
お盆だからと休む利用者は大抵軽度で
重度の人ほど利用し
職員は手薄。

お盆の勤務あるあるだった。

 
だが、私もAさんもBさんも
お盆中は仕事の方がよっぽどマシだった。
職場は平和だった。
どうせ8月13~15日まで本家は戦場だ。
せめて13日くらい、仕事で利用者の方々と笑って過ごしたい。

 
Aさんは私の10歳年上で、Bさんは私より20歳年上だった。
世代が違うのに私達が仲良くなれた理由は、農家や本家や嫁姑の共通事項があったからだと思っている。

私の周りに本家の苦労をしている友達はいなくて
身内には本家の愚痴を言うわけにはいかない。

 
AさんやBさん以外にも、職場には本家の嫁がたくさんいた。
だから私は職場で初めて、本家のあれこれを分かち合えて嬉しかった。
結婚はしていなくても、本家の娘として生きてきた30数年のお陰で
同じく本家に嫁いだ保護者の人達の苦労も多少は分かち合えた。

 
どんなところで自分の人生経験が役立つか分からない。

   
 
 
 
本家の娘として生まれ、本家を継ぐように小さい頃から言われ育った。

だけど、私は絶対に本家の長男と結婚はしたくなかった。
結婚をした時に嫁の立場が大変過ぎることを見てきた私は
結婚に夢が持てなくなっていった。
例えば結婚したところで
私は子どもに自分と同じ思いをさせたくなかった。
ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」が笑えないくらい
我が家はリアル渡る世間は鬼ばかりだった。

  
本家を継がなければいけないという強い使命感と
本家に嫁ぐと大変だから嫌だという本音が
私の心には常にあった。

 
家族は好きだし
あたたかな家族には憧れた。
だけど、結婚が面倒にしか思えなかった。

 
結婚したら、好きな人と二人きりでアパートで暮らしたい。
アラサーになった私はそう思ってしまった。
そんなことできるわけないのに
許されるわけないのに
アパートで二人暮らしをする友達が
ただただ羨ましかった。

  
 
だからだろう。
なんだかんだで今でも私が結婚できないのは
本家の娘が結婚した先に待ち構える宿命を受け止めきれないからだ。
きっと結婚が怖いからだ。

 
 
私の地元は結婚が早い。

本家の人は20代のうちに結婚し、敷地内に家を建てるのが普通だった。 
実家に両親が住み、若い夫婦は新居に住み
何かがあれば合同で何かをする。
子どもは三人くらい。

 
私の家も敷地が広いため、相手さえそれを望めば
同級生と同じように
結婚したら敷地内に夫婦用に家を建てる予定だった。
同居は申し訳なかった。
それも嫌なら、別の近場の土地に新居を建てるでもよかった。
家の近くにはいくつかの土地があった。
相手が望めば、敷地内ではなくともよかった。

 
 
そう願っていたことが懐かしい。

周りがマイホームで子ども三人とワイワイして暮らし、親孝行している間に
私は完全に行き遅れた上に無職になった。

 
私は本家の、一族の恥だ。
みんなと同じようにできない。

 
常にその思いはあり、親とご先祖様に申し訳ない。
何が申し訳ないといったら

 
私は自分の人生に悔いがないところだ。

 

私は自分の人生が楽しかった。
独身だろうと無職だろうと
申し訳ないとは思うが 
自分のこの生き方が好きだった。

だから今すぐ結婚しなきゃいけないとか
今すぐ大企業に勤めなきゃいけないとか
そういった気持ちがない。

 
大好きな親の望む生き方をできない自分。
今まで好きなように悔いなく生きてきた自分。

 
私の中にはそんな自分が混雑する。

私が結婚したいのは結局
世間体や家族や本家のためで
自分自身のためではない。

 
 
普通になりたかったなと思う。

普通に結婚を夢見て、本家を継ぐことを考えられて
20代で結婚して
子どもを生んで
それが平凡でありつつも当たり前の幸せだと
心から感じて、それを欲する人間になりたかった。

 
 
お父さん、お母さん、ごめんね。

愛情かけて育ててくれたのに
私はお姉ちゃんのように
早く結婚して早く子どもがほしいなんて
どうしても思えなかった。 

 
家族が大好きな気持ちに嘘はないけど
結婚が幸せだとは思えなかった。

 
それでも結婚したいと初めて思えた人には
フラれてしまった。

 
 
きっと私の代で家を潰してしまう。

 
私じゃない他の誰かが本家に生まれていたなら
こんな風に30歳を過ぎても親不孝になんて
ならなかったのかもしれないのにね。

 
 
 
 
お盆と正月は家の手伝いを言いつけられていた私が
親に頼み込んで
たった一度だけ、お手伝いをサボッたことがあった。

初めて付き合った人はお盆が誕生日だった。

  
どうしても初彼の誕生日を当日に祝いたかった。
付き合いは一年も続かなかったから最初で最後の誕生日祝いだった。
親には申し訳なかったけど
人生で初めてお盆中にデートできて
とても嬉しかった。
他の子みたいに、普通にデートができて嬉しかった。

まるでその瞬間は本家の娘じゃないみたいで、嬉しかった。

 

       
 

 
祖父母が亡くなり、親戚の集まりは年々縮小している。

昔に比べたら本当に人が集まらなくなった。
家は基本施錠してあるし、朝から図々しく家に入ってくる親戚ももういない。

私は幸せだった。

 
今年はコロナの影響で、集まりは更に縮小した。
県外の親戚は集まらない。
もちろん今年もなんやかんややることはあるが
なんて楽な年なのだろう。
私は秘かにガッツポーズをとる。
ありがたかった。

 
来年のお盆はどんな状態でどんな気持ちで過ごすのだろう。
結婚はともかく、転職はできていたらいいな。

 

 
 

 

 




 



 

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