見出し画像

#57 秋についての愛を語る

 唐突に文字を書きたくなった。キーボードで文字を打とうとするたびに、先日カレーを作ろうとして切った指が、ずきずきと痛む。

 そういえば今年金木犀は二度咲いて、高貴な匂いを辺りに漂わせていた。隣の家からは香ばしい匂いが漂ってきていて、きっと身が引き締まった魚を焼いているのだろうと予測する。どうにも近頃、めっきり足元がぐらつくようなことがあって、私は昔から物語の中の主人公の感情に引き寄せられてしまう悪い癖を持っていることを自覚する。

 秋はさまざまな匂いをもたらし、そして感情を揺さぶる。天上に浮かぶ丸い月と共に食べたみたらし団子の味も、長い列を作ってようやく食べることのできたサンマの味も、幼い頃に恋焦がれた栗ご飯の甘い味わいも。食べ物だけではなくて、ススキが揺れ動く姿だとか誰かが吸っているタバコの匂いとか。揺らめいて、胸をチクリと刺されたような気持ちになる。

 本当に五感が刺激されて、何も言葉を発することができなくなる。ほんの少し、呼吸をすることが苦しくなる。心がざわざわする。

*

 10月初旬、会社の後輩に誘われてキャンプへ赴く。楽しい思い出がまたひとつ増えた。その日はバラバラと雨が降っていて、テントを立てることに関しては不自由だったけれど、テントの中でバチバチと鳴る雨音を聞くのが好きだった。良くない状況だけど、最悪ではない。私は手製のカレーを振る舞って、それを食べる友人たちの姿を見るのが好きだった。

 それから数年ぶりに夢の国へ行って、朝から晩まで乗り物に乗って、開放感にさらされる。夢と希望なんて、どこかにおき忘れてそのままおざなりになっていたと思ったのに、こんなにも近くにあるとは思わなかった。

 幼い頃は『美女と野獣』が好きで、ビデオテープが擦り切れるまで見たことを思い出す。どうしても野獣に私は感情移入してしまう。見た目で人を判断し、魔女に魔法をかけられ醜い姿に変えられる。真実の愛を見つけるまで、魔法を解かれることはない。やってきたヒロインに対して心を寄せるも、思うように伝わらないもどかしさ。

 100分待ちと表示の出た電光掲示板を見て、うへぇと思わず声が漏れる。まるで長い旅路の続きのようだった。それでも友人たちと話をしていると会話は途切れることがなくて、あっという間に乗り物に乗る時間がやってきた。扉を開くと、優美で懐かしい、かつて夢中になった音楽が流れてくる。

 ワクワク割と名前がついているくせに一向にサイトへ飛べなかったことが悔しい。思えば私が高校生の時、もっと夢の国への切符は安かった。気がついたら諭吉さんに手が届きそうになっていて、思わずくぐもったウッという声がお腹の中から響く。

 マジカルミュージックワールドに当たるなんて!と友人が感激したように思いを馳せている姿を見て、いいなぁと思った。へぇ、そんなマジカルなんだとショーを見に行ったら、思いの外煌びやかな世界が広がっていて、そこで踊るキャラクターたちの姿に心が動いた。誰かに夢を与えるって素晴らしいことだ。

 ショーが終わったときに、あれはどれくらいのお金が掛かっているのだろうと思ってしまうあたり、私自身もう擦れた大人の仲間入りをしているということだろう。でも、本当に感動したのだ。

 目の前がチカチカチカチカと螺旋状に揺れるカーテンの先、見果てぬ道の向こう側に何が待っているのだろう。自分には見えない翼があって空に向かって飛ぶことができるのだ。見えない努力を可愛らしい仮面の下に隠して、客席に座る人たちの喜ぶ姿を想像する。萎びて水分を欲している中で、最後ひと掬いして手に入れたかけらの粒。

*

 生きるってなんなのだろう。自分がこの場で薄く長く息をしていることによってもたらされるものはなんなのだろうか。どうしようもなく日常にせっつかれているような気がして、少しペースを落とした。仕事終わり、Netflixでぼんやりアニメを眺めていると、こんな面白いものがあるなんて!と今まで見なかったことを後悔した。

 『STEINS;GATE』、『PSYCHO-PASS』、『夜ふかしのうた』と立て続けに見ていたらあっという間に1週間が過ぎていった。その間、朝会社へ行くときにはバスの中で将棋を指して、夜電車で帰る際にはひたすら本を読み続けた。現実から目を背け、ひたすら何かを吸収すべく没頭していた。

 私は人の感情に引き摺られる。どうしようもなく。それが陽の感情であろうと負の感情であろうと、自分自身に向けられたものに対して途端に降参の姿勢を示す。自分の体の中から全てを吸い込まれてしまうような感覚。抗うことができない。そこにあるのはただ悲しみと一抹の寂しさだけだった。

*

 常に刺激となりうるものを探し続けている、それは真実だった。でもそれは決して自分という存在を脅かすものであってはならない。周囲から孤立するであるとか、信用をなくすであるとか、単純に自己としての尊厳を保ち続けられるように少しずつ目に見えない何かをかき集めていく。なんてちっぽけな人間なのか、私という自我は。

 でもきっとそれは一瞬のことなのかもしれない。あるいは気がついていないだけで、突風に煽られてすぐに消滅してしまうものなのかもしれない。誰かと関わりを持つということはそれだけで楽しいことでもあるし、苦しいことでもある。元来私は一人でも全く平気な人間ではあるけれど、それでも秋は人恋しくなる季節でもあるらしい。

 あちこちから拾い集めてきた落ち葉を山のようにしてみたら、こうやって何かが築かれてそして終わっていくのだろうと柄にもないことを考えた。厭世感えんせいかんだとか虚無感だとかいうものは自分には全く縁もゆかりもないものだと思っているにもかかわらず。

*

 そして私は隣で友人がご飯を作る姿を眺めつつ、トロンとまどろんでいる。この世で生じる物事は往々にしてとてもめんどくさいものばかり。そこから目を逸らすには、幾許か歳を重ね過ぎたのかもしれないとふと思う。

 ダイニングテーブルが欲しいだとか、今よりもよりワイドなテレビが買いたいだとか、私の好きなあの作家さんの作品をまとめ買いしたいだとか、私の強欲は深い。秋は夜長、とはよくいったもので今日も遅くまで私はアニメを見て、本を読んで、それから文字を書いている。

私が両手をひろげても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように
地面を速く走れない

『私と小鳥と鈴と』金子みすゞ

 教科書に載っている詩を思い出した。恐ろしくリズム感が良くて歯切れのある詩に私は魅了された。鈴が鳴ることを願ってひたすらじっと待ち続けることはいかがなものか。秋は短し。キリギリスがタイミングを見計らって鳴いているに違いない。

 短くてどこか儚い夢のような季節に、私は仄かに愛を抱いている。


故にわたしは真摯に愛を語る

皆さんが考える、愛についてのエピソードを募集中。「#愛について語ること 」というタグならびに下記記事のURLを載せていただくと、そのうち私の記事の中で紹介させていただきます。ご応募お待ちしています!


末筆ながら、応援いただけますと嬉しいです。いただいたご支援に関しましては、新たな本や映画を見たり次の旅の準備に備えるために使いたいと思います。